#40

 江戸川コナンは、警視庁マスコットキャラクターとの記念写真撮影にはしゃいでいる探偵団の面々を、少し離れたソファに座りぼんやりと眺めている。隣で帰りの電車の時間を検索している毛利蘭には再三、コナン君は一緒に写真を撮らなくて大丈夫なの?と聞かれたが、苦笑いで僕はいいよと断っていた。
 二か月前、子供防犯プロジェクトのパンフレットモデルとして起用された探偵団は同じようにここ、警視庁に訪れていたが、広報課に案内するから電話をするようにと言われていた高木刑事が不運にも拉致誘拐事件に巻き込まれてしまい、流れに流れて撮影が今日まで延期されていた。ミステリートレイン爆破事件により死の偽装に成功した灰原哀はしかし、やはり念のため本日も欠席である。もちろん仮病であるが看病のためと阿笠博士も巻き込んだものだから、子供たちの付き添いには蘭が同行していた。

「哀ちゃんも来れたら良かったね」
「うん。昨日の夜から具合が悪いみたいだよ」

 死の偽装と言えば、その後、沖矢昴もとい赤井秀一から仮屋瀬ハルに関する続報が無い。一方的に切電された電話は後日折り返しがあったものの、赤井はコナンからハルの情報を搾り取ろうとするばかりで、結局赤井とハル、そして安室透との関係性は有耶無耶のままにされていた。
 コナンは当初仮屋瀬ハルを赤井秀一の恋人に近い存在だろうと踏んでいたが、あの夜、杯戸中央病院での赤井の電話相手が仮屋瀬ハルということになれば、至極当然の帰結である。しかしその仮屋瀬ハルに、なぜ偶然仕事を依頼することになった安室透が妙に執着するのか、その理由がずっと分からないままだった。ポアロでの邂逅といい、米花デパートでの遭遇といい、普段の安室からは考えられないような挙動や姿勢に、コナンは惑わされていた。赤井は赤井でハルと安室の接近を危惧しハルの行方を血眼になって追ってはいるが、そもそも何がどうなれば恋人の行方が何一つ分からないような事態に陥ってしまうのか、何をそこまで安室との癒着を懸念しているのか、やはりコナンには紐解けないままだった。

「帰りにお見舞いに寄って行こうか?」
「え?あ、いや、でもさっき電話があって、もうすっかり元気だって……」
「本当?そっかあ。良かった」

 心から安堵して、ホッと胸を撫で下ろす蘭に、やや心を痛ませながらコナンはぎこちなく笑う。
 まさかそうして自分のように身体が縮んで別人となり、恋人を欺かなければならないわけでもあるまいしと、案外当たらずも遠からずの発想を今度は鼻で笑った。思考の手詰まりはもちろん、先日のミステリートレイン爆破事件のせいである。
 バーボンの正体が安室透であることが判明し、実際事態はよりねじ曲がってしまったと言っていい。そのまま行方を暗ますかに思われた安室が何事もなかったかのようにポアロに舞い戻ったことはもちろんであるが、それ以上に、仮屋瀬ハルという女の立ち位置が俄然危ういものとなってしまった。赤井の死に不信感を抱き調査していたバーボンであれば、なるほど、赤井の恋人であるハルに近付いた理由も、逆に赤井がハルを安室から引き剥がしたい理由も一応の納得がいく。納得はいくが、赤井がバーボンに簡単に付け込まれるような露骨な弱点を野放しにしていた訳も、安室が有益な情報を持たないハルをずっと手放さない訳も、説明が出来ないままだ。

「三吉さん、急ぎのお電話です」

 複雑に絡み合った謎を解きほぐす作業にひとり没頭していたコナンの耳に、その時、女性のやや高く柔らかい声が届いた。
 広報課の職員である三吉彩花は本日少年探偵団の撮影全般の担当者であるが、探偵団にせがまれ共に記念撮影に写り込んでいた彼女のその名が、総務部から俄かに呼ばれたのである。

「え?」

 江戸川コナンは、瞠目した。 
 カウンターから僅かに身を傾け、そう三吉に声を掛けたのは紛れもなく、今の今までコナンの思考の渦中にあった仮屋瀬ハルなのである。まさか当の本人が同じ空間に、しかもおそらく警視庁の職員として勤務しているとは露ほども思わずに、コナンは眼前の光景が信じ難く硬直する。

「仮屋瀬さん?」
「え?」

 コナンはいつもそうして不測の事態に対し、まず頭を高速で回転させて次の一手を吟味する。最良の選択を熟考し、得策が何かを判断するためである。
 しかし、毛利蘭はそうしたコナンの思惑など知るよしもない。彼女にとっての仮屋瀬ハルとは、父親の小五郎へ仕事を頼むはずであった依頼人のひとりであり、かつ、代わりに安室を仲介したことでその性格上多少の責任を感じている相手でもある。仕事の契約などもちろん当人同士の自由であるのだが、恋人以上に大切な人物の人捜しという依頼には碌に帰らない幼馴染を待つ蘭にも感じるものが多い。米花デパート前での再会をコナンから聞いて以来、未解決のままである依頼を抱えたままのハルが、蘭はずっと気掛かりだった。だからそうして、仮屋瀬ハルであるはずの彼女のネームプレートに、花井律という名前が刻まれていることなどに違和感も覚えず、というよりも、気付きもせずに、早々にそう声を掛けてしまったのも無理はない。

「……蘭さん……と、コナン君、」

 彼女は一瞬目を見張ると、次の瞬間表情を暗ませてやや視線を泳がせた。ーーしまった。とでも言いたげな顔だなと、コナンは思う。急いで戻った三吉に電話を取り次ぐと、彼女は顔を引攣らせながら無理に笑って見せる。
 蘭とコナンの名をうっかり呼んだ時点で、仮屋瀬ハルではないという言い訳は立たない。できることならば高木刑事あたりにその素性について探りを入れ、動かぬ証拠を得てから揺さぶりをかけても遅くはなかったのだが、こうなってしまっては仕方ない。コナンは子どもらしく瞳をきらりと輝かせると、軽やかな足取りで律の元へと駆けてゆく。

「わあ、ハルさんだ!」
「えっ、ちょっと、静かに、」
「ハルさんは警察官だったの?」
「いや、だから、声が大きい…!」
「あれれ〜?でも名札には、花井律って書いてあるね?」

 怪しい。この女は怪しすぎる。
 彼女は当初、件の人捜しを小五郎へ依頼するはずであったが、早々に彼を諦めている。もちろん留守中の訪問が理由ではあるが、蘭が小五郎と警察との近しい関係を匂わせた途端に頑なに姿勢を変えたことを、コナンは見逃さなかった。初めの内は赤井というアンタッチャブルな案件に慎重になっていたのかとも思っていたが、彼女自身が警察関係者となれば事情が変わる。警察と毛利探偵の関係性など庁内では周知の事実であろうし、そもそも例のシボレー炎上事件に当たりがついているのだとすれば小五郎に調べさせるよりも彼女の方が畑だろう。
 名を騙る理由などそれ以上に不可思議だ。安室や赤井が偽名に踊らされたままとは考えられないし、コナンの居る手前仮屋瀬と呼んでいた安室ならまだしも、赤井は電話口でまで本名を隠す必要はない。そもそも公然とその名をさらしておきながら、花井律が名を偽らなければならない理由とは何だったのだろう。

「コナン君、ダメでしょう。お仕事中なんだから!」
「ご、ごめんなさい。でも、気になっちゃって。ほら、名札の名前が違うよ?」
「え?……あ、本当だ」

 飛び出したコナンを慌てて追いかけてきた蘭は、コナンの指差したネームプレートを見て眉を寄せる。律の笑顔は面白いほどに引きつってゆき、彼女の頭の中で枝別れしているであろう数パターンの言い訳にその口は言い淀む。
 もしもこうして騒ぎ立てたのがコナンばかりであったのなら、律は子供騙しの適当な理由でその場を誤魔化しただろうが、高校生の蘭を前にしてはそうもいかない。何の悪びれもない純粋な子供のフリをして、逃れられないコナンの尋問は始まっている。

「……用心深い、性格で……本名を名乗らないようにしていて……」
「え〜本当に?調べられると困ることがあるからじゃなくて?」
「ハハ。探偵ごっこの続き?」

 しかし、律とて動じるのは僅かの時間である。すぐに表情の端にひとひらの余裕を滲ませたかと思えば、そうして平気な顔でコナンに笑いかける。

 "もう、赤井秀一として、会えなくなるかもしれないよ?"
 "構わないさ。死ぬのは、"赤井秀一"だからな"

 あの時の赤井もそうして確かな余裕を纏っていた事を、コナンはとても良く覚えている。何故なら赤井のその言葉の暗喩が、ずっと分からないままだからだ。
 まるで、自分が本当は別人であるかのような口振りである。沖矢昴として生まれ変わるという意味と取れなくもないが、沖矢昴という人間が生まれたのは赤井秀一が死んだ後であり、それ以前から関係があったはずの律に対する言葉としてはどうにも据わりが悪い。

「それにしても、驚きました。まさか警察の方だったなんて」
「……ええ、でも体調を崩して休職していたので。戻ったばかりなんです」
「えっ?もう平気なんですか?」
「はい。すっかり元気です」

 大丈夫、もうすっかり元気だから。電話口で心配する子供達にそうさもざもしい演技をしていた灰原哀の声色と、律の調子が妙にダブった。今後は花井の方の名前で通してもらえると助かると蘭と話す辺り、仮屋瀬ハルという人間は既に葬る事に決め込んでいる。
 
 "ハル。君は全てを知りたいか?"
 "それとも、全て知らないフリをして、俺と生きてくれるか?"

 嘘まみれの彼女はそうして、一体何の選択を迫られていたのだろうか。何か決定的なピースが足りていないような感が、どうにも拭えない。

「律さんって、休職する前も総務部に居たの?」
「そうだけど、どうして?」
「僕、何度も本庁に来てるけど、見かけた事がなかったから。もしかしたら本庁勤務じゃなかったのかなって」
「……それは、偶然じゃないかな」
「ふうん。僕、刑事さんにたくさん知り合いがいるから聞いてみてもいい?」
「……コナン君。向こうで皆と写真を撮らなくていいの?」

 さて、どこまで彼女に踏み込むべきだろうかと、コナンは考えあぐねている。
 差し当り花井律が障害を引き起こすとなれば、バーボンである安室透との関係によるだろうが、安室の目的が分からない現状では何がトリガーとなるのかすら定かではない。赤井秀一の恋人である以上こちら側の人間だと考えたい所だが、当の赤井自身が以前組織に潜り込むために宮野明美の恋人を演じていた過去がある手前、そればかりを理由に心を許すのはもっての外だろう。この無害そうな女に赤井がまんまとハニトラを掛けられるなどとコナンが本気で思っているわけでもないが、人の心が時に倫理や論理を超越してしまう事を知らない年齢でもないのだ。
 大人は残酷だ。恋心というきらきらと煌めく美しい感情をも、平気な顔で踏み潰して利用する。

「そういえば、探している方は見つかりましたか?」

 万が一、花井律を糸口に作戦が総崩れにでもなれば堪ったものではない。
 しかし分かっていながらも、コナンの後ろ髪を引く事実がひとつある。

「……いいえ。でも、もういいんです」
「え?」
「追いかけるのは、もうやめました」

 律は眉を下げて、困ったように笑った。どうにもギュッと胸が窄まるような痛々しいその表情には、あの夜月明りの下で、電話口に切なげに語りかけていた赤井の声色が蘇る。
 そう、もしもコナンの考えなど全て杞憂だとして、二人がただ本当に心から愛し合っていたとして。そうなれば、あの日彼等を引き裂いたのは紛れもない自分自身である。赤井秀一を亡き者とする作戦を立案したのが、コナンであるからだ。

「……、どうして……」

 知らなかったわけではない。大切な人を失くす悲しみを、知らなかったわけではない。
 しかしそれでも、コナンは硬く口を閉ざした。赤井に特別な感情を抱いていたジョディが悲しみに明け暮れている事を知りながら、見ない振りをした。赤井の生存が漏れればキールの生死に拘わる事は勿論、組織に小さく開いた風穴が簡単に閉ざされる事が分かっていたからだ。全ては大義のためであり、充分な合理性があった。
 ただ、何と正当な理由を並べようとも、恋心というきらきらと煌めく美しい感情を平気な顔で踏み潰したのは、自分だったのかもしれない。その想いばかりが消し込めやしない。

「さあね……推理してみて?小さな探偵君」

 赤井はもしかすると、律にだけは自分の正体を吐露してしまうかもしれない。第三者であるコナンにはそれが良策でないことが明白であるし、その可能性を感じた今、彼等を引き合わせることはどうしたって避けるべきだ。しかし一方で、律が本当に何も知らずに安室の恣に絆される危険性があるのならば、その芽は早々に潰さなければならない事も確かである。それには赤井から花井律の立ち位置を聞き出さなければならないが、赤井は律の事となるとどうにも口を閉ざしがちで、情報を得るためにはどうしたってコナンが握った律の現状を引き換えに差し出さなければならない。
 果たしてそれが吉と出るのか凶と出るのか、碌な推理も儘ならぬままに、コナンは律を見つめていた。花井律はやはり、哀しく微笑っていた。


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