#39

 三吉彩花は、カフェテリアで購入したばかりのアイスコーヒーのプラスチックカップを手に、空席を探しながら店内をウロウロとしていた。ランチタイムを少しばかり過ぎた時間帯に席の確保を油断していたが、同じように食後のコーヒーを愉しむ客で店は案外と混雑している。
 彩花は、同僚と共にするランチが苦手だ。相手の好き不好きの問題ではなく、たとえ仲の良い同期であっても、昼休憩の一時間くらいは職場という柵から解放されたいという思いがある。だからうっかり知り合いに声を掛けられることの多い職場の食堂やカフェを利用することは滅多にないし、移動時間を犠牲にしたとしてもこうして遠く離れた店まで足を伸ばしている。幸い、職場である警視庁から少し歩けば飲食店はごまんとある。

「三吉さん」

 しかし今日ばかりは仕方ない、このまま戻って警視庁の休憩室でも利用するかなと、まだ三十分は残っている昼休みに彩花はカフェテリアを後にしようとしていた。
 丁度開いた自動ドアに差し掛かった時である。その掛け声に、彩花の脳内には瞬時に休憩時間中の同僚との遭遇という不穏な未来が過って、思えば聞こえなかった振りでもすれば良かったのだろうが、彩花はほぼ反射的に声のした方を振り返った。二、三向こうのテーブル席で、人の良さそうな笑みを浮かべながら席を立ちかけていたのは、先日彩花と同じ部署に時季外れの異動をしてきた花井律である。律の対面に座り背を向けていた金髪の人物は、遅れてゆっくりとこちらを向いて彩花を視認すると、表情を変えぬまま挨拶代わりに僅かに頭を下げた。

「……花井さん?」
「ここ、空いているので、良かったら」

 花井律。彼女の素性は大変な謎に包まれている。
 春季の異動発表後に遅れて異動の決まった彼女は、何故か公示も無く旧所属も明らかにされてはいない。秘匿性の高い職務を行っていたためと上司には伝えられたが、案の定それでは所属員の耳目を集めてしまう。直近一年の休職という経過も相俟って、そのキャリアにはあらぬ噂が飛び交っていた。
 あまり懇意にしても面倒そうだなと、もともと他人との付き合いを程程にしている彩花は早々にその好奇心の渦から一抜けした。暗に察しろと言われている空気は飲み込むことに決め込み、律とは顔を合わせれば挨拶をする程度の関係のままそれ以上も以下でもない。しかしだからと言って、往生していた彩花に声を掛けてくれた年下の後輩の真っ当な善意を無下にするわけにもいかず、断るに適当な理由も見つからない彩花は律のテーブルに向かった。不本意ではあるが、ここで距離を置いては社会人として感じが悪い。

「ありがとう。助かります」
「いえ。もうすぐ店を出る所だったので、お気になさらず」

 余っていた椅子を引きながら、律はにこりと笑って見せた。嘘か本当かも分からぬその言葉には、もしや気を遣わせてしまったのだろうかと、彩花は己が振り撒いているであろう空気感を省みる。怪しい経歴を持つにしては、随分と気立ての良さそうな娘ではある。
 彼女の隣に座って居た男は、組んでいた長い足を正すと、弛緩していた身体を落ち着いた動作で起こした。彼の姿を目にしたのはこれで二度目だった。一度目はそれこそ律の配属日の前日、デスクの引っ越しのために私物を運び込んでいた彼女の手伝いをしていたのが紛れもないこの男である。遠目ではあったものの、その印象的な髪の色と顔立ちに、彩花は後輩の若い女性職員らが騒いでいる男の特徴を思い出していた。

「こちらは降谷さんで、私の元上司です」
「降谷です。初めまして」

 ああやはりなと聞き覚えのある苗字には、続けて彩花の紹介をする律をやや右から左に彩花は考えあぐねている。
 時折警視庁に出没すると噂されていた金髪の美男子は、どうやら本当に警察官らしい。一切の隙ないその身の熟しに堂々とした物言いは自信に溢れ、研ぎ澄まされた切れ味の良い空気感には、迂闊にその土壌を荒せば完膚なきまでに叩きのめされそうな絶対的に抗えぬ圧をひしひしと感じさせる。見目が麗しいのは確かであるが、そればかり独り歩きしているのは彼女達がこうして降谷という男と直接対峙した事が無いからであろう。仕事で凡ミスでもしたらしこたま怒られそうだと、おそらく自分と同じくらいの年齢の降谷に、彩花の所属長である総務部長の穏やかな笑顔がふっと過ぎる。こうして異動直後に食事に誘う辺り上司として面倒見は良いのかもしれないが、空気中を伝播する妙なプレッシャーに、自分の配属先が降谷の下ではなくて良かったと心の底から安堵する。

「三吉さんは広報課にいて、担当が多いのでとても忙しくされているんですよ」
「なるほど。広報課ですか」
「ええ、でも午後は一息つけそうです。パンフレットの撮影があるだけなので」
「パンフレット?」
「子供防犯プロジェクトというのがあって、」

 花井律を巡る噂のひとつには、上司との不仲説もあったりしたのだが、彩花の眼には二人の関係性は良好に映る。上司との折り合いが悪く一年もの間を休職しなければならないほど精神を病んだとは、とてもではないが思えない。人のする噂話というものは、大変適当なものだ。

『次に、先日発生したベルツリー急行爆破事件の―……』

 アイスコーヒーのカップを外しながら、それこそ適当に会話の受け答えをする彩花の言葉を律が真面目に聞く一方で、降谷の関心は既に店内中央のテレビモニターに移っている。
 用意された原稿を丸読みするアナウンサーの永倉圭の背後には、ベルツリー急行の、いわゆるミステリートレインの破損した車両が映し出されていた。何を思考しているのか定かではないアイスブルーの瞳はやや細められて、次々と変わりゆく現場写真をじっと凝視している。降谷の様子を見つめてうっかり尻すぼみになる彩花の言葉には、律も気付いてゆっくりとその視線を辿ると、三人の視点がその一点でぴったりと重なった。

『なお、現在路線は完全に復旧しており、運行状況への影響はありません』

 そうして読み終わった原稿に、それよりも早く、降谷が無言に包まれたテーブルの空気に気が付いた。少しハッとした様子で少しばかり目を張ると、何でもないような事のようにゆるりと視線を外す。まさか東都から遠く離れたその路線のユーザーでもあるまいし、無意識に意識を奪われる程にこの男は私の話に興味が無いのだろうかと、別段興を惹きたい訳でもないのに彩花は心の内で苦笑う。
 シロップを入れようとして手を伸ばしたカップの蓋に、そこで初めてシロップを取り忘れた事に気付いて、彩花は仕方なくそのまま手を引っ込めた。律達のトレーには未開封のミルクは転がっているが、シロップは無い。蓋に突き刺さったストローで回したコーヒーの中で、細かい氷がぶつかり合う。

「あの列車って、走行中に推理クイズが出されるらしいですね」
「……そうだけど、興味あるの?」
「いえ、あまり。でも終着駅が内緒っていうのは面白いと思います」
「内緒でも何でもないだろ。ネットで運行状況を見れば行先は察しが付くし」
「……それは、夢がないですね」
「別に、単なるリスクヘッジだよ」

 だからそういう所が夢がないのだと、頬を攣りながら笑う律の言葉を、その時着信音が遮った。
 鳴ったのは降谷のスマホである。胸ポケットから慣れた動作で取り出したその着信画面を一瞥すると、渋い顔をした降谷は一声掛けてから足早に席を立った。その後ろ姿と同時に店内の壁時計を確認した律は、時間も時間なのだろうか、既に空になっていた降谷のカップを己のトレーに片し始める。

「降谷さんも忙しそうですね。仕事の電話みたいだったし」
「そうですね……。二徹、三徹、当たり前のような人なので、少し心配になります」
「ああ、大丈夫ですよ。男は家庭を持つと変わるって言うから。その内に」
「あはは。降谷さんに限って、家庭なんて」
「あれ?でも近い内に結婚するんですよね?」
「え?」
「え?」

 律の右手が摘まんでいた紙ナプキンが、ひらりと机上に落下する。
 彩花は別に、その噂話に探りを入れたかったわけではない。窓ガラスの向こうの日差しの下で、険しい顔つきで電話をする降谷に憂えた視線を送る律に、またふと、後輩達が嘆いていた話題を思い出しただけである。
 だから驚きに目を丸くした律には、ああもしかしてこれもまた誰かが適当に捏造した噂だったのだろうなと、彩花はその程度の認識でいた。実際、彩花の耳に入った降谷の結婚の噂とは、風見が記入したリフレッシュ休暇取得理由に端を発しているのだが、尾ひれはひれをつけてついには結婚まで話が膨れてしまっていたのである。

「結婚って……ふ、降谷さんがですか?」
「……ええ。どこかの社長令嬢とって聞きましたけど」
「………、」
「……あの、花井さん、でもこれってただの噂、」
「花井」
「?!」

 放心、という単語が大層良く当てはまる。
 律は彩花の言葉に瞼を数度瞬かせると、視線を数度左右に散らした。たとえそれが噂話でなかったとしても、上司の結婚に何をそこまで律が動揺しなければならないのだろうか、彩花にはそれが分からない。ただの世間話のつもりが、そこまで露骨に反応されると、彩花ですら律と降谷の間には何かあるのではないだろうかと邪推が過る。彩花の抱いた印象の限りでは二人は気の置けない仲であるようだし、年齢も近く若くして律の上司という立場であった仕事の出来るであろう降谷に、律が特別な感情を抱いていたとしても何ら可笑しくはない。

「……は、はい?」
「そろそろ時間だから戻るけど……、なに?」
「いえ……別に。私、カップ、片付けてきますね……」
「……ああ。ありがとう」

 タイミング悪く席に戻った降谷に、彩花の言葉が律に届いていたのか否かは分からない。ギクシャクとした動作で降谷に言葉を返す律には降谷も不審がって、トレーを返しに遠ざかる律の背を見つめながら小首を傾げる。何やら妙なキラーパスを放ってしまったような感には彩花の心も複雑であるが、当の本人が戻ってきてしまってはその話を蒸し返せない。
 やはり、休憩中の同僚との邂逅など碌な事がない。思いながらも彩花は、妙な罪悪感に、次は律をランチにでも誘って話の続きをしようかと、普段であればらしくもない思考に責め立てられていた。再びくるりとかき回したストローに氷がぶつかって、降谷が振り返ったのは、その時だった。

「三吉さん」

 降谷零は、とても真っ直ぐに人を見る。
 その何もかもを見透かされてしまいそうな瞳には、何も後ろめたい事などないのに、つい目を逸らしてしまいたくなるような強さで溢れている。しかし、確かに逸らしてしまいたいその瞳を、彩花は何故かもっと眺めていたいような気にもさせられて、胸中で自分を嗤った。これは、酷い矛盾である。

「花井の事、よろしくお願いします」
「え?」
「とても素直で、仕事には真面目に取り組みます。ただ、何でもひとりで出来てしまうので、あまり周囲を頼りません」
「……、はい」
「あなたのような方が良い相談相手になってくれると、とても安心です」

 刹那、降谷は彩花の前で、初めて頬を弛ませた。嫌味の無い笑みはその端整な顔立ちの魅力を、最大限に引き出している。
 彩花は、その耳心地の良い言葉ひとつで篭絡される程阿保ではない。降谷のようなタイプの人間が、初対面である自分の表面ばかりをなぞって、信頼の置ける相手であることを確信できるわけがない。形の良い唇が紡ぐ麻薬のような処世術はしかし、心にも無い事をと必死に抵抗する彩花の鎧をじんわりと溶かしてゆく。

「それと、これを」

 ストローを摘まんだままだったカサの減らないアイスコーヒーのカップの横に、ころんとシロップがひとつ転がった。
 彩花の前に伸びた腕に、褐色の手首からはふわりと何だか良い香りがして、痺れる脳の奥にぐらりとする。自分の話など右から左でまるで聞いていないような素振りでいた癖にと、悔しいような嬉しいような不思議な心地に、ストローを摘まむ指の先がじんわり熱い。

「気を遣わせてしまって、すみません」
「……いえ。それより良く、気が付きましたね」
「そういう性分なだけですよ」

 わざとらしさや押しつけがましさは一切ない。それではと、軽く会釈すると降谷は丁度トレーの返却を終えた律の元へ足早に向かって行く。
 降谷の置いて行ったシロップを一瞥してから、彩花は視線を持ち上げた。あの男は誰相手でもこうなのだろうか、彩花にだけだとするのならば、それは大切な部下である律の今後を考えてのリスクヘッジなのだろうか。自動ドアの前で彩花に会釈した律に、彩花はひらひらと左手を振る。
 窓ガラスの向こうで石畳の道を並んで歩いていく二人の背を、彩花は右手の平でシロップを遊ばせながら眺めていた。そうしてすぐに視線は、春風に靡く色素の薄い指通りの良さそうな髪にシフトする。

「……にが、」

 しばらくして見えなくなったグレーのスーツに、彩花は一口、アイスコーヒーを口に含んだ。ああ、お礼を言いそびれたなと、その時気が付いた。
 慣れない苦味に顔を顰めながら、それでも降谷のくれたシロップは使うのを躊躇って、指先でくるくると弄ぶのを彩花は止められない。
 


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