#38

 赤井秀一は「防犯カメラ作動中」と印字された黄色地のステッカーと、扉の上部に設置されたカメラのレンズを見比べると、訝しげにやや眉を寄せた。やたら滅多らに貼り付けられた警告に記載された有名なセキュリティ会社の名は数種類に及び、ただの訪問者のひとりである赤井ですら妙に威嚇されているようで息が詰まる。慣れ親しんだチャイムは最新のモニター付きインターホンに代わってしまっているし、この家はもしや空き巣被害にでもあったのだろうかと、赤井は唯一変わらぬ表札の苗字をしばらく眺めていた。

『はい』
「突然すみません。沖矢と言います」
『……、沖矢さん?……ご用件は?』
「込み入った話なので、ここではちょっと」

 海外から戻ったばかりの蕪木の声色は、疲れのせいもあるだろうがそれよりもあからさまな警戒心のせいで酷く硬い。沖矢昴の相貌ではなく赤井秀一として彼の元を尋ねられたのならいつものように歓迎してくれたのだろうが、諸々の事情のせいでどうしたって赤井は素性を隠さねばならなかった。インターホンの向こうで沈黙する蕪木に、どうしたものかと赤井も閉口する。
 蕪木という男は元来人が良すぎて、見知らぬ訪問者ですら玄関を通してしまう迂闊さがある。赤井はそれを不用心だと二、三度指摘したことがあったが、蕪木はあまり聞く耳を持たなかった。だからてっきり適当に言い包めて話を聞き出せるものだとばかり思っていた赤井は、自分が見知らぬ訪問者となった今、己の過去の指摘が完全に裏目に出ている事を知る。

『具体的に、込み入った話と言うと?』

 しかし今の赤井には、もっともらしい理由をつけて蕪木を説き伏せる程の時間的、精神的な余裕が残ってはいない。
 あの雨の日、一度はこの手中に収めたはずの花井律を赤井は不覚にも逃してしまっていた。自分が留守にしていた間に一体何があったのかすら聞き出す事は出来ずに、赤井には見せた事の無い表情で泣きじゃくっていた律を、おそらく再びあの男の許へ帰してしまった。不甲斐ない話ではあるが、赤井は以降律の消息を全く掴ませてもらえてはいない。

「僕は赤井秀一の友人です」
『……え?』
「仮屋瀬ハルさんの身に危険が迫っている可能性があるので、お話を聞かせてはいただけませんか?」
『……秀一の?本当に?』
「はい。あなたにこれ以上の迷惑は掛けません。お約束します」

 赤井の手元に残っているたったひとつの手がかりと言えば、律が車に置き忘れたペアグラスである。ショッパーからその店が米花町に店舗を構えている事が分かり赤井は実際に足を運んで店員に話を聞いたが、一顧客である律の所在を掴めるはずもない。
 
 "知り合いのお宅のグラスを割ってしまったとお話されていましたよ"
 "知り合いの?"
 "ええ。贈答用でしたらお包みしましょうかと申し上げたのですが"

 律はその時、その申し出を断っている。気を遣わせたくないからこっそり棚に戻す予定だと、何の気なしに彼女はそう話していたようであるが、こっそり棚にグラスを忍ばせる事のできる他人の宅は知り合いのカテゴリーでは正しくはないように赤井は思う。律は自宅に招かれるような知人友人を作ってはいなかったし、あの疑心の塊のような娘が好き好んで他人とルームシェアなどをするわけもないだろう。
 そもそも何故ペアグラスなのだろうと、赤井は考え込んでいる。単純にグラスをふたつ割ったという話ならそれで構わないのだが、嫌に脳裏にちらつく安室透の顔に、まさか律はあの男に良い様に言い包められ篭絡されているのではないだろうかと、大変不快な結論が消えない。何通りもの枝分かれした可能性を信頼できぬ程度には、おそらくその知り合いは安室透なのだろうなと結び付けてしまう己の思考回路を赤井は甘受している。実際の所、律が割ったグラスはひとつであるし、ペアグラスを買った理由はたまたまタイムセールでふたつでひとつの値段で購入できたためであるが、赤井はそんな事情を知る由もない。律の足取りを掴めぬ赤井には、それこそ疑心ばかりが募っていく。

『……分かりました。今、開けます』

 しばらくの沈黙の後でぶつりと切れたインターホンに、玄関の扉は恐る恐るといった様子で開いた。
 赤井は出来る限り柔和な顔つきで蕪木に頭を下げるが、もちろんまだ赤井に信頼を寄せていない蕪木の表情は強張っている。今の今まで脳裏に浮かんでいた男の顔に、赤井はその時、唐突に理解した。玄関扉に貼られた防犯ステッカーの意味も、赤井秀一の名を出しても尚蕪木が簡単には沖矢を信用できない訳も、その侮れない手腕や手際の良さに赤井はつい舌打ちしそうになるのを抑える。

「……金髪の若い優男をご存じですね?」
「!?」
「巻き込んでしまってすみません。全てこちらの不手際です」

 蕪木の表情はその時ようやく、安堵したように弛緩した。沖矢昴が敵ではないことを理解したのだろうか、扉を大きく開くと、そのまま赤井を迎え入れてくれる。
 良く知った廊下を歩きながら、そうして赤井もまた、旧知の仲である蕪木との再会に僅かに心を弛ませていた。赤井秀一という人間を殺した日、赤井の人生は強制的にリセットされている。過去の人間関係は江戸川コナンと上司のジェイムズを除いて全て断ち切ってしまったし、それこそ生活環境などは一変した。沖矢昴として根城にしていたアパートは不幸にも火災に見舞われ、所持品はほとんど灰になってしまう始末だ。仕事のために己という人間を抹消した事に躊躇いなどなかったはずなのに、案外と心は正直である。

「あの男は、ヤクザか何かなんですか?」
「似たようなものですが、ヤクザよりもずっと怖い男ですよ」
「……、仮屋瀬さんの身に、危険というのは……?」
「……僕が、守ります。大丈夫。必ず取り戻しますよ」

 自ら傷だらけにしておいて、よく言えたものだなと赤井は胸の内で自嘲する。微塵も足取りを追えていない現況下では、そうして言葉だけで嘯くことしか赤井には出来ない。
 赤井の知る限り律は最低でも三度は米花町に出没しているが、あの邂逅以降赤井が米花町で律の姿を捉えた事はない。江戸川コナンはそれとなく安室透に探りを入れてくれているらしいが、秘密主義者のあの男が小学生相手だからと言ってうっかり口を漏らすわけもなく、律の居場所は隠されたままだ。
 果たしてそれは、何故なのだろう。安室透にとっての花井律とは、赤井をおびき寄せるための餌でしかない。にもかかわらずこうして何も仕掛けては来ずに、ただただ時間が過ぎていくばかりである。彼は既に赤井秀一の死を確信しその件からは手を引いたという事なのだろうか、それは当初の計画通りであるのだが、今となってはそれでは困る。花井律の使い道が無くなれば、赤井がその尻尾を掴む手立ても無くなってしまうからだ。

「……でも、彼女は、もう、」
「……え?」

 急に足を止めた蕪木を、赤井は振り返る。
 その表情を俄かに曇らせて、気まずそうに赤井から視線を逸らした。

「蕪木さん?」

 蕪木は無言で再び歩き出すと、客間の扉を開けて赤井に入室を促した。その神妙な面持ちの理由が分からないまま、赤井は通された席へと腰掛ける。
 少し待っていてくださいと言うと蕪木はくるりと背を向けて、足音は自室のある二階へ向かって行った。彼女はもう、何だ?と、赤井の靄がかかった思考回路はまともな仮定を引っ張り出せずに、ただただ壁時計の秒針の音が煩い。いやに長く時間が経った気がして、再び開いた扉の向こうで、蕪木はその右手に薄いブルーの封筒を握り締めていた。

「僕があなたにお話できる事は、実際あまりないんです」
「……と、言うと?」
「彼女とはもうずっと会っていなくて、何処で何をしているのかも分からないんです。ただ、これを」
「手紙、ですか」
「はい。先日届きました」

 赤井の目の前に差し出されたその封筒の宛名は、丁寧な字で蕪木の名前が書かれており、住所の記載はない。見間違えるわけもない、確かに律の字だ。切手や刻印は無く、律はこの手紙を直接蕪木宅の郵便受けに運んでいる。せめて宛先を書いて生活圏のポストにでも投函してくれたなら居場所に当たりもつけられたのだがと、期待せずに赤井は封筒を裏返す。
 刹那、赤井は目を見開いた。差出人の住所が書かれていたからではない。もちろん僅かばかりの期待は見事に裏切られたのだが、それ以上にその右端に書かれた名前に赤井は狼狽した。

「……花井、律……?」

 仮屋瀬ハルではなくて、花井律。まるで幻でも見ているような心地に、赤井は数度目を瞬いた。慌てて封筒を返して宛名を確かめ、もう一度裏面に返す。そうしたところで事実が変わるわけがないのに、赤井はその行為を止められない。

「手紙を読むまで誰なのか分からなくて、驚きました。彼女の本名のようです」
「……、仮屋瀬さんは、記憶を……?」
「どうでしょう。そこまで書かれていないので」

 僕はあまり彼女に信頼されていませんでしたからと、やや眉を下げて蕪木は切なく笑った。促されるように、赤井は既に封の切られたそれから、一枚の小さな便箋を取り出す。
 それは、あまりに律らしい、とても淡白な文面だった。自分の本当の名が花井律であるという事と、元の居場所で生活を始めているという事それだけで、一切の無駄の無い文章は仮屋瀬ハルに対して世話を焼いてくれた蕪木への感謝の言葉で締めくくられている。蕪木へ宛てた手紙であるのだから当たり前であるが、赤井の事などひとつも書いてありはしない。赤井は十秒とかからずにその手紙を読み終えると、再び最初から読み返す。《これからは、花井律として生きていきます》と力強く書かれたその一節を、指の腹でなぞりながら。

「何度も考えてはみましたが、結局僕には何が真実なのか分かりません」

 これが彼女の、律の答えなのだろうか。
 必ず戻るから待っていて欲しいと伝えた自分への、全て知らないフリをして生きて欲しいと願った自分への、答えなのだろうか。

「どうしてやるのが良かったのかも分からなくて、もうどうすることも出来ない事だけが確かなんです」

 赤井は柔らかな便箋を握り潰しそうになった己の拳にハッとして、忘れていた呼吸を思い出した。
 では何故探偵まで雇って俺を探した?どうして豪雨に打たれながらアパートを見つめて泣いていた?俺の望まぬその答えを聞かせるためか?と、想いの丈が同じではなくとも少なからず良い返事を期待して今の今まで油断していた赤井の思考回路は、途端に路頭に迷ってしまう。

「ここへ来たのが、あなたで良かった」
「……え?」
「秀一が彼女の決断を知ったら、きっと悲しんだだろうから」
「……、」

 蕪木はそれ以上、赤井秀一について言及しない。赤井秀一本人がこの場所を訪れなかった事実と意味を、蕪木なりに咀嚼してくれているのかもしれない。
 赤井はどうとも答えられぬまま、ただただ律の筆跡を眺めていた。仮屋瀬ハルの名を棄てた律も、あるがままの現状を受け入れている蕪木も、立ち止まったままの赤井の前を歩き始めている。過去の幸福が忘れられずに縋りついているのは自分ばかりなのだろうかと、到底受け入れられない現実に赤井の胸の奥では激情の沸く音がする。

 ――美しいだけの想い出になど、してやるものか。

 赤井は、律と交わした最後の会話が何であったのかを思い出す事ができない。それはあまりに平凡な言葉だったからであり、それがあまりに唐突な別れであったせいだ。
 律の決意の経緯も、安室透の煤塗れの思惑も、赤井には何一つ噛み砕けてはいない。噛み砕けてはいないが、いずれにしろこのまま律と何の言葉も交わさぬまま別々の道を歩む事など考えられやしない。生涯独りで構わないと思っていたこの先の永い人生を、初めて、誰かと共に生きてゆきたいと心の底から願っていたのである。

「悲しみなどしませんよ」
「え?」

 身の内から燃えるように溢れる情動に、赤井の瞳は爛と輝く。
 たとえ律の記憶が戻ろうとも、律が赤井と過ごした時間が消えることはない。だから赤井は、全てを知らないままで居て欲しいとは言わずに、全てを思い出したとしてもそうして知らないフリをして、自分と生きて欲しいと言ったのだ。せめてその口から、その声で、その想いの丈を直接にぶつけられなければ赤井は律を諦められない。

 "手離してあげなさいよ。退くのも愛情なんだから"

 大人ぶって静観してはやれない所まで、赤井の心は深度を増してしまった。それが俄かに突き付けられた、離れゆく律の心に比例しているのか、それとも二人きりだった世界に突如滲んだ安室の存在に加速しているのか、はたまたその両方であるのか赤井には定かではない。

「彼女がどう生きようと、彼女への想いは変わりませんから」

 スッと細めた鋭い双眸で、赤井は律の手紙の一文を大変愛おしそうに眺める。
 赤井秀一は元来、欲する物には貪欲だ。負けん気が強く好戦的で、他の追随を許さないがしかし、その対象がどうにも狭すぎた。殊に他人に固執した事などないものだから、良い寄ってきたはずの恋人には次々と振られるし、協調性を育むためにと組まされた仕事上のパートナーは二週間と持たずに何度もローテした。麻痺した他者との距離感は、もうずっと埋まる事などないのだろうなと、そう思っていた。

「……沖矢さん、ですよね?」

 やや訝しげに首を傾げた蕪木に、赤井は至極当然の事であるかのように微笑むと、その問いを肯定した。
 律の手紙を丁寧に折りたたんで封筒に戻しながら、机上の隅に置かれた卓上カレンダーの日付を眺める。今年は桜前線が大幅に遅れているようで、東都の街での見頃は一週間程遅れるだろうと今朝の朝刊に記されていた。
 そうして明日はと、整然と並んだ数字に、赤井はほんの僅かに口角を持ち上げる。色とりどりの企てが複雑に絡み合ったミステリートレインの発車時刻が、刻刻と迫っていた。


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