#37

 緩慢な動作で少しずつ傾いた頭部が頬杖をついていた左手から滑り落ちると、その反動で花井律はハッと目を醒ました。グラスに半分程残っていた麦茶は完全に氷が溶け切ったせいで色素が薄まり、底には水溜まりを作っている。律はそれをしばらく眺めた後で、慌てて手元から離れて転がっていたスマホを手繰り寄せた。就活サイトでコツコツと履歴書のデータを打ち込んでいたはずが、随分と寝入ってしまったようでとうの昔にタイムアウトしている。シュンとひとり降谷宅で頭垂れた律は、しかしやっている場合でもないなと、グラスを片付けるために席を立った。
 休暇明け、降谷はやはり忙しいのだろう、ここ一週間で律が降谷と顔を合わせたのは僅か二度である。近い内に時間を作るから律の自宅に連れて行くよと言われたはいいが、その時間が未だに訪れてはいない。多忙な降谷に無理を言う訳にもいかずに律は気長にその時を待ってはいるが、これでは生産性の無い毎日に拍車がかかる。せめて引っ越しのために荷物くらいは纏めておくべきだろうと、律は洗い終わったグラスの水を軽く切った。そうしてふと、思い当る。
 そういえば、あの日買ったグラスを何処へ置いてきてしまったのだろう。律がうっかり割った降谷宅のグラスに、確かに米花町で購入したはずの新品のそれが今手元にはない。交差点で永倉と遭遇した時にはまだ手にしていたがと、ゆっくりと記憶を辿り出した律の耳に、スマホの着信を知らせる音が届いた。

「急にごめん。突然時間が空いたから」
「大丈夫です。今日はもう上がりですか?」
「いや、一時間後には本庁に向かわないと」

 丁度三十分後に開いた玄関の扉に、降谷は明るいカラーのラフな洋服を纏っていた。どうやらポアロのバイト帰りのようで、夕飯にでもしなと手渡された紙袋には安室特製のハムサンドが収まっている。以前ポアロで梓や蘭から安室のサンドイッチが美味しいという話を聞いてはいたのだが、ポアロに行く機会のなかった律はまだそれを食べた事がなかった。もともと安室透の働くポアロに赴くモチベーションなどなかったし、それが降谷の潜入先であると知った今ではとてもではないが仕事の邪魔など出来はしない。もっとも、赤井の件で米花町には妙なアレルギーのある律は以来ずっと米花町を避けていた。
 何の労働もしないで対価ばかりを得てしまったなと、パンの香りがふわりと漂う紙袋の中身を覗きながら律は落ち込む。片や寝る間もなく朝から晩まで働き詰め、片や暇を持て余してお家でうたた寝をしているのだから、全く良いご身分だ。これは早急に自立して、どうにか自分自身の生活の基盤を整えなければと、スーツに着替えた公安モードの降谷と一緒にマンションを出た。

「人格を使い分けるのって、精神が擦り減りません?」
「別に。慣れだよ。こういうのは」
「安室透と降谷零が混ざったりは?」
「しないな。混ざる程似てないし」
「ああ。言われてみれば、全然違いますね。安室さんは」
「へえ?」

 律の住んでいたマンションは降谷宅からそう離れてはいないらしく、二人は静かな住宅街を並んで歩いていく。
 降谷の潜入捜査はトップシークレットであり、組織内部でもその秘密を知る人間は限られているらしい。こうして二人きりの時に話す分には構わないが、降谷を安室としてしか認識のない人間の前では口が裂けても降谷と呼ぶなと、律は再三言われている。とは言っても、誰が降谷を降谷と認識していて、誰が降谷を安室と認識しているのか律にはそれが定かではなく、降谷にひとりずつ教えてもらいながらその人物への態度を決めていくしかない。巻き込んで悪いなと謝られたが、降谷のせいでもない。
 当の本人ではない律でさえ頭が混乱しそうなのに、降谷は良く平気な顔をして職務をこなしているなと律は思う。降谷の言う通り人格の混濁が無いのだとしても、律が同じ状況下に置かれようものなら確実に精神に支障をきたしそうなものである。

「律さんは、僕のような男の方が好きですか?」

 はたと足を止めると降谷は首を傾げて、律の顔を間近に覗き込んだ。
 まるで注文でも取りにきたかのような軽やかな口調で、にこにこと満面の笑みを浮かべる降谷には律はどうにも小馬鹿にされているような気分になり頬を膨らませる。

「いきなり安室透ごっこを始めないでください」

 棘のある物言いで口を尖らせた律を、降谷は面白がって笑う。機嫌をやや斜めらせた律がツンとしながら降谷を置いて先に道を進むと、降谷はまた大変可笑しそうに律の名前を呼んだ。ここ右なんだけどと、指し示された道に何とも言い難い気分のまま律はしかしなす術もなく降谷の元へ戻るしかない。いい様に手の平で転がされている。
 上機嫌な降谷の隣を再び歩き出して、律はその横顔を一瞥した。最近、降谷は、良く笑う。私はわりと真剣に心配をしているのにと律は思うが、まあ本人が楽しいのならそれで構わない。今までの降谷に対する非礼に免じて、多少からかわれたとしても私が大人になるべきだろうと、律は吐息する。

「それに、私は降谷さんの方が好きですよ」
「……、え?」
「安室さんも良い人ですけど、どうも胡散臭くて」
「……ああ、消去法?」

 大人になると胸の内で宣言した手前、特段降谷の言うような意図があったわけでもないのだが、律の言葉に降谷は若干頬を引き攣らせる。
 そうじゃなくてと訂正するよりも先に、降谷の足が止まった。つられて律も足を止め、その視線の先を辿れば降谷のマンションに負けずとも劣らない立派な高層マンションが建っている。きちんと清掃の行き届いたエントランスに続く道は背の高い緑の樹々で囲われており、足許の洒落たプランターには色とりどりの春の花が植わっていた。私の自宅に行くのではなかったのだろうかと思わず首を傾げた律には、降谷はその建物の一角を指差しながら、あの南棟の真ん中辺りが律の部屋と、そう言った。

「……、聞いていません」
「言ったら気にすると思って」
「当たり前でしょう」

 呆然とする律を横目に、降谷は慣れた手付きでカードキーを翳しオートロックを潜っていく。にこりと安室スマイルで微笑みかけたコンシェルジュとはどうやら顔見知りのようで、律の方は彼女にお久しぶりですねと声を掛けられた。お久しぶりも何も今の律にとっては初対面の人物であるのだが、おそらく一年以上前の記憶で律を住人と認識した仕事の出来る彼女には、ぎこちない笑みで知ったかぶりをしながら同じセリフを返しておく。
 悲しい事実ではあるが、どうやらここは本当に花井律の住まいであるらしい。律は先日したため終えた降谷への借金返済計画が、大幅に狂うであろう嫌な予感に途端に頭痛がしたような気がした。律が賃貸に住んでいた過去を聞かされた時は、当然一年以上も家賃を滞納しているその住居などとうの昔に明け渡されているものだとばかり思っていたが、実際の所降谷がその家賃を支払っていたというのだから律は目を剥いた。連帯保証人は俺だからと当然のように言われたがそういう問題ではないし、そもそも降谷が律の連帯保証人まで引き受ける義理はなく、多少の費用を支払ってでも保証会社を利用すべきだろうと過去の自分を叱咤した。勝手に明け渡すにも律名義の契約を解除するには裁判所での手続きが必要であるし、降谷にそのような暇は無い事は重々承知しているが、それにしても金をドブに捨てるとはこの事である。

「本当の家賃を教えてください」
「……さあ、いくらだったかな」
「惚けても無駄ですよ。ネットで調べますから」
「……、可愛くないな。いいって言ってるんだから甘えれば?」

 エレベーターのボタンを押下しながら、降谷は面倒そうに律を見遣った。
 元はと言えば降谷が律にいずれバレる嘘をついてその辺の安アパートの家賃を教えるからこうなったのに、しつこいなとでも言いたげな眼差しは大変理不尽である。優に三桁は上回るであろう律の負債を気にしての言葉ではあるのだが、律だっていい年した大人なのだ、金の問題を有耶無耶にするわけにはいかないし、可愛いとか可愛くないの問題ではない。

「降谷さんにそこまでしてもらう理由がありません」

 世話になりっぱなしの私に今更胸を張って言えた事ではないがと、身体の底から湧き上がった溜め息を律は飲み込んだ。
 ああ言えばこう言う降谷の返答を待ち構えていたものの、しかし一向に開口しない降谷を律は不思議そうにゆっくりと見上げる。ぱちりと、無言で律を見つめる降谷との視線が交差した。一秒、二秒と、本当はほんの一瞬であるその時間がやけに長く感じて、ポーンと間の抜けたエレベーターの到着音が小さく響く。ふらりと視線を外してしまった降谷は何を思っているのか定かではなく、結局、律の部屋に足を踏み入れるまで無言を貫いた。

「パスポートに通帳、これが実印。免許証や保険証の類は財布に入ってる」

 飾り気のないこざっぱりとしたその部屋で、律よりも勝手を知ったような降谷はひとまず窓を開けた。件の休暇中に同じように換気をしてくれた事ばかりは降谷に聞いていたが、まるで誰かが定期的に手入れでもしてくれていたかのように綺麗な部屋には、埃ひとつ舞ってはいない。しかしやはり、律にはこの部屋で暮らしていた記憶を思い出す事が出来ず、リビングのソファに座らされたまましきりに辺りに視線を動かしていた。
 そうして取り急ぎ必要なものをと降谷がローテーブルに並べた花井律の持ち物には、律はゆっくりと手を伸ばす。どれもこれも花井律の名が印字されており、パスポートや免許証には警察手帳と同じく律の顔写真が貼付されている。財布の中には他にもクレジットカードが数枚と、病院の診察券やポイントカードが入っており、案外貯金も出来ていたようで通帳には思いの外残高があった。己が花井律であるという現実感が、急に湧いた。

「……、律」
「はい」
「さっきの言葉って、俺に気を遣っているのか、俺が鬱陶しいのか、どっち?」
「……はい?」

 ぎしりとソファを鳴らして隣に腰掛けた降谷は、膝に肘をついて考え込むように律をじっと見つめる。ぱらぱらとパスポートの履歴を見ていた律は手を止めて、思わずその瞳を見つめ返した。
 些かのタイムラグを厭わずにそう話を掘り返したのは、先ほどからずっと律の言葉に気を揉んでいたからだろうか。確かに降谷はやや強引な所があるし、単なる職場の上司としては面倒見の良すぎる所が多々あるが、だからと言って律が鬱陶しいなどと思っているはずもなく、降谷が何を心配しているのかが律には分からない。
 そういうわけではなくてただ申し訳ないからと、律の本心には降谷はあまり表情を変えずに、そうと、静かに呟いた。

「前はあまり、律の意見を聞いてあげていなかったから」
「……そう、なんですか……?」
「嘘をついた事は謝るよ。でも本当に、変に気にされるのが嫌だっただけだから」
「は、はい……」
「これからのことはちゃんと話し合って決めていこう」

 真摯な眼差しが、律に真っ直ぐ注がれる。
 降谷零は、安室透のように問題を煙に巻いて逃がすことはない。ぼやかしてしまいたい胸の内も、泳がせておきたい曖昧な感情も、そうして白黒ハッキリつけたがる。

「まだ俺を信用できない律の気持ちも分かるけど、今はまだ一人にしたくない俺の気持ちも分かって欲しい」

 まるで心臓を直に触れられているような感覚は、しかし不思議と嫌な気がしない。
 律が降谷に思う所があるように、降谷だって当然律に思う所があるのだ。今更であるが些かつっけんどんな物言いをしてしまったのかなと、サイドテーブルに飾られている律と誠一郎の写真を目の端に、律は思った。降谷が律の世話を焼く理由は、何も単なる上司だからというだけのものではない事を思い返す。
 降谷の事を信用していないわけではないと、何だかとても悪い事をしてしまったような律は慌ててその言葉を訂正しようとするが、それよりも降谷が口を開くのが早い。

「放っておいたら勝手にここを引き払って、適当な安アパートにでも引っ越されそうだし」
「えっ」
「……おい、まさか図星か?」
「え、あ、いえ……まさか、」
「……、」
「……少しだけ、考えていました」

 話し合って決めようと歩み寄られた手前誤魔化すわけにもいかず、ひくりと頬を引き攣らせた降谷に律は視線をやや逸らす。
 結局の所、今の律が降谷にしてやれることと言えば、降谷の手を煩わせないという逆転の発想に行き着くしかない。降谷は基本的に安室透の自宅や警察庁に寝泊まりしているようであるが、おそらくそれは律が今もこうして降谷の自宅を占拠しているからである。今すぐにとはいかなくてもなるべく早くあの部屋を降谷に返さなければならないし、本当は律の自宅に戻れたのならばそれで一件落着であったのだが、こうも経費がかかるとなれば現在無職の律にはとてもではないがこのマンションには住み続けられない。しかし別段今の律には東都にこだわる必要もないし、物価の高い東都を離れるのもいいのではないかとそう考えていた。先日降谷に連れて行ってもらった誠一郎の実家のある辺りなど、長閑で緑も多く住環境が良さそうだ。
 なんて、それこそとてもではないが言い出せる雰囲気ではないなと、律の意見を聞くと言った舌の根の乾かぬ内に降谷の眉間の皺は深くなっていく。

「あの、降谷さん。そろそろ時間ですよ」
「……ああ、そうだな。続きはまた今度」

 降谷の背後の壁時計は、午後五時半を示していた。
 もう少し適当に部屋を見てから帰りますと告げた律は、玄関まで降谷を見送る。西日の差し込む部屋は綺麗な橙色に染まり一日の終わりを感じさせるが、きっと降谷の一日はまだまだこれからなのだろう。トントンと靴の爪先を軽く叩くと、扉に手をかけた降谷が思い出したように振り返った。

「明後日の夜は帰れそうだから、その時は律の仕事の話もしよう」

 どうも悉く思考回路を掌握されているなと、降谷を送り出した律はひとり花井律の部屋に戻る。
 毎日のように暮らしていたであろう部屋に帰っても律の記憶を掠める思い出はない。書棚の端に押し込まれていたペールブルーの手帳を何の気なしに手に取ると、ぱらぱらと捲りながら窓辺に向かう律の足が、ふと止まる。もう一度最初のページから開き直して斜め読みしながら、再びゆっくりと歩き出したその足はそのまま穏やかな風の心地良いベランダに出た。
 これは、花井律の手記だ。日記など書き留めた事のない律は、まるで他人の秘密を覗き見るかのような罪悪感があるのに、ページを捲る右手が止まらない。降谷の言葉を逐一そうして書き留めて、ああしたらよかった、次はこうしようと、随分と生真面目な性格に律はクスリと笑った。花井律の事をもっと知りたいのに、捲っても捲っても書いてあるのは降谷の事ばかりで、そうして次のページに走り書きされた文字を、律は指の腹でなぞる。《どうしたら降谷さんの役に立てるだろう》と、その一文を長い間見つめていた律の耳に、聞き慣れた独特の車のサウンドが遠くの方で響いた。もしかしたら彼女は降谷零の事がと、そこまで考えかけて目下の大通りを駆けて行った白のRX-7に律は手帳を閉じる。

「あ、車の中、」

 ふっと刹那、あの雨の日に律を車で雨宿りさせてくれた優男の顔が、浮かんだ。
 そういえばあの時荷物を座席の下に置いて、そうして買ったばかりのグラスの入った袋はそのまま置き忘れてしまったのかもしれない。その後でタクシーに乗った時にはもう手元には鞄しか提げていなかったような気もするし、そうなるともう律の元へ戻る事はないだろう。
 確かに浮かんだその男の顔は、そうして次第に、律の意識から薄まっていく。完全に沈み切った陽に足早に部屋に戻る律の手には、今はもう、花井律の記憶の欠片が握り締められている。


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