#36

 風見裕也が降谷零から業務調整の依頼を受けたのは、昨日の事である。
 早朝に枕元で鳴った着信音は降谷専用にわざわざ設定しているものであり、風見は瞬時に覚醒すると条件反射のように布団から飛び起き通話ボタンをタップした。例の指紋照合の結果を伝えてからというもの電話口であからさまに気落ちしていた降谷からは特に連絡が無く、黙っておけばいいものを風見は赤井秀一の名を出してその神経を逆撫でしてしまったものだから、ずっと降谷の様子が気掛かりだった。朝早くに悪いなと、耳元に聞こえた声音はしかし案外と普段通りである。てっきり永倉の件の続報かと思って身構えていた風見には、突然で悪いが半休の申請をしたと降谷はそう言った。

「あの、すみません」
「はいはい。今伺います」

 忙しなく業務を行っている人事課の職員に、風見は申し訳なさそうに声を掛けるが、つい先程も同じセリフを言われたばかりである。代筆して持参した休暇の申請書を握り締めながら、仕方なく《リフレッシュ休暇取得推進月間》と書かれた味気ない文字ばかりのポスターを手持無沙汰に眺めた。
 労務管理の一環として今年度より始まったばかりのリフレッシュ休暇は、職員同士譲り合い調整し合い、全員が三日連続の休暇を取れるようにしましょうねという制度である。書類による事前申請が必要な事を除けばわりと評判は悪くはなく、半強制的という側面も申請率を促進させているらしい。風見も直属の上司に日程を早めに決めるようにと言われていたのだが、それこそ降谷との日程調整が必須であり実の所まだ打診すら出来ていなかった。

「すみませんね、年度始めで混みあっていて」

 言葉通り電話の音が鳴り響く課内には、窓口に現れた担当の若い女性職員も苦く笑って見せる。道理で電話を鳴らしても繋がらないわけだと、風見は降谷零の名前が書かれたリフレッシュ休暇申請書の受理を彼女に依頼した。
 自分のPCからイントラネットにさえログインできればネット上での電子申請が可能であるのだが、登庁していない降谷にそれが出来るはずもなく風見は一からその項目を手書きで埋めた。大変アナログで不便であるし、事後申請が認められない点については融通が利かないと言えるが、次にいつ取得できるか分からない有給休暇をリフレッシュ休暇の消化に当ててしまいたいと思うのも降谷くらいのものだろう。実際、降谷は今まで有給などを使った試しがなく、冠婚葬祭ですら僅かな時間休の取得に留めている。三日連続の全休など、制度が開始する以前から降谷の取得はほぼ不可能だろうと同僚の間では囁かれていた。それがこうして奇しくも取得第一号になってしまうのだから、どう転がるか分からないものである。

「一点確認したい項目があります」
「ええ、どちらになりますか?」
「この休暇の取得目的という欄ですが、本人が登庁後の確認でも構いませんか?」
「本人が?」

 代理申請を頼まれていてと、差し出した書面の名には彼女はすぐに合点がいったように、ああ、と呟く。
 降谷が半休の申請をした昨日の昼近く、風見はやはり全休を取る事にしたと再び着信した降谷からの電話にそれは大層驚いた。その前夜、珍しく降谷は自宅に帰る予定だと言っていたし、その後何か仕事でアクシデントが発生したとすれば風見とひとつも情報共有をしないのは可笑しい。電話口では平静を装ってはいるが、体調でも優れないのだろうか、それとも風見が伝えた照合結果が有給を取らなければならない程の波乱を巻き起こしたのだろうか、風見は取り急ぎの案件の引き継やリスケジュールについて話す降谷に何も聞けないままだった。

 "降谷が有給?それは本当に降谷か?"
 "あいつ、有給って制度知ってたんだな"
 "降谷って仕事以外にやりたい事あるの?"
 "降谷零も人の子だったんですねえ"

 降谷の有給取得は瞬く間に知れ渡っていた。初めてのお使いならぬ初めての有給だと始めの内は皆ケタケタと笑いながら盛り上がっていたものの、翌日である今日も降谷は仕事を休みましてやリフレッシュ休暇を取得すると言い出したものだから周囲はざわついた。事故にでも遭ったのだろうか、いや降谷なら足の骨が折れても登庁する、仕事に嫌気が差したのか、あの正義感の塊のような男がそれは無いと、方々から上がった声は唯一降谷とパイプを持つ風見に向けられた。終いには心の病か、このまま休職かと、上長には一身上の都合としか伝えられていない休暇の理由に、朝のミーティングも疎かに強面の男達が皆言いたい放題である。しかしその真相を風見も知らされてはおらず、頭の上を飛び交う戯言には、本当に降谷がこのまま仕事を辞めたらどうしようと、風見はひとりそんな不安に襲われていた。

「そういえば噂になっていましたね、降谷さん」
「……人事課まで噂が?」
「いいえ、同期から。彼、女の子達の間ですごく人気ですから」
「ああ、なるほど」

 しかし、降谷は何も音信不通となってしまったわけではない。その後、自宅で作業の出来る案件や承認作業はメールで回してくれと連絡が来たし、風見から連絡をすればいつもよりも返事が早く返って来る。調整した業務は休み明けに既に予定を組んでいるし、現時点ではまだ登庁する気はあるなと風見は何度も確かめる。
 では、何故、降谷零は休暇を取ったのだろう。所在不明の降谷が本人のその言葉通り自宅にへばり付いているのだとすれば、風見に思い当る理由などひとつしかない。今もおそらく降谷の自宅で暮らしているであろう、花井律の存在である。

「風見さんも何も聞かされていないんですか?」
「ええ、まあ。休暇の理由を聞く立場にはありませんし」

 "花井は、赤井秀一と何か関係があるんですか?"
 "あるわけないだろう"

 うっかり投げかけたその痴れ事が、もしかして降谷にとどめを刺したのではないだろうか。よくよく考えずとも降谷の最近の奇行は全て花井律を拠り所にしているし、以前も記憶を取り戻してやらないといけないだろうかと訳の分からない事を呟いていた。降谷の律に対する異常な執着を分かっていたのに、その律があの赤井秀一と関係があるかもしれないなど、予想の範疇ですら降谷の心を壊すには充分な威力である。
 まさか、降谷はとうとう実力行使に出たのではないか。そうして律を自宅に閉じ込めて、なかなか口を割らない律には休暇を延長までして、赤井秀一との関係を尋問でもしているのではないのだろうか。ここは自分がその場に赴いて二人の間を取り持ってやった方が良いのか、しかし仮屋瀬ハルと安室透の間に風見裕也が割って入るわけにもいかないしと、的外れな風見の見解はぐるぐるとその頭の中を旋回する。

「こちらでも把握する立場にはないですよ。それにその項目は、アンケートのようなものですから」
「アンケート……、ですか」
「ええ。風見さんは真面目な方ですね」

 適当に書いていただいて構いませんよと笑う女性には、それもそうかと風見はボールペンを受け取りキャップを外す。
 とりあえずは降谷の登庁する予定の明後日までは様子を見る事にしようと、何の気なしにサラサラと申請書にペンを走らせる風見を、女性は大変不思議な面持ちで見つめている。
 そうして降谷の居ない三日間は、あっという間に過ぎ去った。

「風見。おはよう」
「……お、おはよう、ございます」

 次はいつ降谷から休暇延長の連絡が入るのだろうとスマホと睨めっこしていた風見は、しかし一向に音を鳴らさらないそれに気付けば降谷の登庁日を迎えていた。
 すかさず降谷の状況を確認すれば彼のPCは既にオンラインのようで、一応の安堵をした風見は自席に深く腰掛ける。律との決着はついたのだろうか、ついてはいないがこれ以上の休暇は業務への支障が大きすぎると判断しとりあえず登庁したのだろうか。未だにその前提から抜け出してはいない風見は、遠回しに現状を窺い知るには何と切り出すべきかとそんな事ばかりを悶々と考えていて、今日は警察庁の方に缶詰だとばかり思っていた降谷が公安部に顔を出した時には、思わず目を見開いた。

「突然悪かったな。フォローしてくれて助かったよ」
「……あ、いえ、とんでもない」
「これ、少しだけど軽井沢土産」
「か、軽井沢?」

 手渡された茶の紙袋は、何やら高級そうなソーセージのパックや瓶詰のジャムなどの食料品が風見を覗いておりずっしりと両手に重い。自宅に居たのではなかったのかと、そもそもの前提を崩されてしまい頭上に疑問符を浮かべながらそれを眺めていた風見は、いやそれよりもとゆっくりと降谷に視線を持ち上げる。風見の予想を裏切って、さっぱりと毒気が抜かれたような降谷零の表情は大変晴れ晴れとしている。
 これは、一体どういう事だろう。安室透を彷彿とさせる爽やかな笑みを撒き散らす降谷は、おそらくここ最近で一番ご機嫌だ。気分の高揚が稀な分、風見は降谷が心の底から浮ついている事が手に取るように分かってしまう。何なのだろう、一周回って逆に怖い。降谷が風見のためにわざわざ買って来てくれた土産が、鉛のように風見の腕に重たい。

「軽井沢に旅行でも?」
「いや?花瓶を買いに立ち寄っただけ」
「……、花瓶ですか?……何のために?」
「何って、花を飾るために決まっているだろう?」

 花を飾るための花瓶を買うために軽井沢まで出かけたのか?と、一向に理解に至らない風見の眉間には深く深く皺が刻まれていく。
 降谷はもともと、花を愛でるような風雅な人間ではない。やたらとその知識ばかりは風見よりも豊富であるが、降谷に桜の綺麗な季節がきましたねと言った所で何の関心すら寄越さない事を風見は経験則から分かっている。
 職業上気が狂った人間を目にした事は何度もあるが、こういう気の触れ方をするタイプの人間が一番気味が悪いと、上司相手ではあるが風見は思わされる。風見の的を得ない質問には普段であれば叱責のひとつでも飛んできそうなものであるのに、降谷は何を当たり前の事をとでも言いたげにやはりからりと笑っている。

「それよりここの所属長は?九時半からアポを取ってあるんだけど」
「ああ、今、会議が終わって……、」

 降谷の言葉に風見は上席のスケジュールを思い起こし、遠くのミーティングルームに視線を這わせた。
 同時に開いた扉から退出してきた目当ての人物には、しかし風見ははたと首を傾げる。普段からあまりコンタクトを取っているわけではない相手に、三日分の仕事に忙殺されているであろう降谷が朝一から何の用だろうか。しかし今の降谷の状態からは風見は推知することすら儘ならず、訝しげに顔を顰めた風見には降谷がその意を汲み取ったように開口する。

「今後の事で相談があって。後で君にも聞いて欲しいから、時間を作ってくれ。十分程度で構わない」

 じゃあまた後でと、降谷は片手を軽く挙げると風見に背を向けた。
 スキップでもし始めそうだなと、あまりにも軽いその足取りには風見はより一層恐怖して、ピンと張ったままの背筋は全く弛緩しない。それどころかはたと足を止めて振り返った降谷には、風見はその全身を再び緊張させる。

「そういえば、休暇中に俺が見合いをした事になってるんだけど、何か知っているか?」
「……、え?」
「どこのどいつだろうな、そんな下らない噂を流すのは」
「……ええ……、そうですね」

 風見の引き攣った表情に降谷は目もくれず、首を傾げながらもまあいいかと踵を返した。
 次第に遠ざかるその背中は、風見の上司と共にミーティングルームに消えていく。

 "裕也、あなたもいい年なんだから、将来の事を考えないと"
 "ああ、分かったから。その話はまた今度"
 "また今度、また今度って。いい?次のお休みは帰って来なさいよ、良い縁談があるから"

 つい一昨日母親と交わした電話の内容に、風見は降谷の休暇取得目的を、お見合いのためと記入して埋めた。アンケートだと言った癖に、適当に埋めて構わないと言った癖に、それを面白がって吹聴したであろう職員の涼し気な顔が浮かんで、消える。降谷が気にも留めていない事は不幸中の幸いであるが、今の降谷にならば、自分が事の発端ですと吐露した所で怒られる事もないのだろうなと風見は思った。
 クリアガラスの向こうで上司と談笑している降谷の姿を眺めながら、風見は胸ポケットから手帳を取り出し、今日のスケジュールを確認する。十分程度であれば何処にだって捻じ込めそうではあるが、どうにも不安な風見は前後に精神的な余裕のある午後一番に赤ペンで丸をした。降谷の人格にまで作用する妙な魔力を持ったリフレッシュ休暇を、風見はいつ取得するべきかと手帳をぱらぱらと捲りながら、予定の詰まったスケジュールを大変虚ろな瞳で眺めている。


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