#35

「律、行き過ぎ。その手前」

 背に投げかけられた声に律がくるりと振り返ると、遠くでキュッと蛇口を捻った降谷は水の張った手桶を持ち上げた。こじんまりとした霊園は綺麗に手入れが行き届いており、砂利道には雑草のひとつも生えてはいない。腕に抱えたスターチスの花束を抱き直すと、律は宛てもなく進んだ道をゆっくり引き返す。近くで誰かが線香を炊いたのだろう、特有の良い香りが辺りに立ち込めている。

「お花、やっぱり買い過ぎましたね」
「いいよ。リビングにでも飾ろう」
「降谷さんの家、花瓶ありましたっけ?」
「……ああ、無いな。言われてみれば」

 言いながら降谷が持ち上げた手桶の中ではカランと柄杓が躍った。綺麗な石畳の床のその先に建つ花井家の墓には、夢の中で見た景色と同じだなと、律はそんな事を考えている。
 律の拗らせた風邪はどうにもしつこく、結局熱が下がり始めたのは翌日の午後の事であった。早朝、まだ寝ぼけ眼だった律はベッドの中で寝巻きのまま、皺ひとつないグレーのスーツを着込んだ出勤前の降谷から、それはそれは何度も何度も前日から交わしていた取決めを繰り返された。何かあればすぐに降谷に電話をすること、降谷が捕まらなければ風見という人に連絡を取ること、快復するまでは家で大人しくしていること、外出の際は必ずスマホを携帯すること。口うるさい母親か何かのようだなと呆れ返る律には降谷は聞いているのかと詰め寄るものだから、いってらっしゃいとやや視線を逸らしながら律はその言葉を遮った。いくら何でもくどすぎるだろうと、降谷に渡された一言一句違わぬ内容が書かれた手書きのメモを律は宙に放り投げ、ようやく静寂の戻った部屋で布団に包まり直す。閉じたばかりのはずの玄関の扉が再び開いたのは、その三分後の事である。

「律は花を飾る係」
「わかりました」

 結果的に、降谷は三連休を取得した。
 労務管理の厳しい昨今、労働者には積極的な休暇の取得が推奨されており、例に漏れず降谷の職場でも今年度より三日連続の有給取得を勧めるリフレッシュ休暇が創設されたらしい。どうせ部内調整をして全員が半強制的に取得させられる休暇であるし、丁度いい機会だからと唖然とする律に降谷は上着を脱ぎながらそう言った。
 丁度いい機会も何も、既に降谷の休暇は律の看病で一日潰れてしまっているわけで、リフレッシュというその休暇制度の主旨からは外れてしまっている。この調子だと降谷は療養中の律を置いて何処かへ出掛けもしないだろうし、そうすると再び降谷の一日は潰れてしまうだろう。せめて自分のために休暇を使ってくれと諭せば、心配しなくても自宅でも出来る仕事があるから大丈夫だと、降谷は大変ちぐはぐな回答を寄越して律を混乱させたまま、それにと、ひと呼吸置いてから律を真っ直ぐ見つめた。体調が良くなれば一緒に行きたい場所もある、明後日は律の父親の命日だからと、そう言った。

「それより、本当に良かったんですか?」
「何が?」
「これって降谷さんの用事というよりも、私の用事じゃないですか」
「俺の用事だよ。ここ数年、仕事に感けて来れていなかったから」

 降谷が丁寧に掛けていく水は、墓石を静かに濡らしていく。ステンレス製の花立は思っていた以上に細く、律が茎を手折りながら差し込んだそれは数本で一杯になってしまった。
 降谷は律に、律の父親である花井誠一郎の写真を見せながら、彼がかつて降谷の職場の同僚であり、またそれ以前からも親交があった事を話した。新人の頃は仕事を一から教えてもらったし、プライベートでも良くしてもらっていたから花井の家にも何度も行った事があるよと降谷はその写真の人物を懐かしそうに眺める。はっきりとした顔立ちでなかなか男前な、気風の良さそうな男性であるが、しかし残念ながら律には彼が自分の父親だった記憶は蘇らない。降谷の教えてくれる律も含まれた三人の思い出話に、律は大変不思議な心地で耳を傾けていた。

「覚えていないだろうけど、手を合わせてやってよ。きっと喜ぶから」

 花井誠一郎は職務中に命を落とした。つまり、殉職だ。追々話すよと言われたその死に様を律はまだ詳しく知らされてはいないし、公安警察の彼等が一体どのような職務を遂行しているのかも定かではない。喫茶店のアルバイトに成りすましている降谷にはよもやあまり危険も無いのだろうがと、合掌を解いた律は隣を一瞥する。
 降谷はそうして、律よりもずっと長い間、誠一郎の墓前で手を合わせていた。何を語っているのか、何を誓っているのか、端整な横顔には決して何も滲ませぬままである。律儀で誠実な男だなと律はぼんやりと思いながら、再び誠一郎の墓に視線をシフトした。花井誠一郎に、降谷零。二人の記憶も、そこに確かに存在したであろう花井律の記憶も、やはり律は思い出せないままである。

「さてと。遅くならない内に帰ろうか」
「はい」
「具合は?疲れてない?」
「大丈夫です」

 時刻は午後二時を回った所であり、後始末を終えた降谷と律は並んで石階段を下りていく。
 降谷のリフレッシュ休暇最終日である今日、すっかり体調の回復した律は誠一郎の墓参りのため降谷の車に乗り込んだ。まるで近所のコンビニにでも行くような手軽さで降谷は話を進めていたものだから、十五分程車窓から景色を眺めていた律は車が首都高に乗った所でようやく降谷に距離を尋ねた。高速を飛ばして四時間弱だなと降谷はやはり何でもないことのようにそう言って、着いたら起こすから寝ていていいよと、目を丸くした律にはひざ掛けを手渡した。
 降谷が軽く回した首からは、パキリと骨の鳴る音がする。三日間ほとんど寝こけていた律よりも、疲れているのは降谷の方だろう。

「あの、私って免許持ってるんですよね?帰り、運転しましょうか?」
「……はは。それはまた愉快なジョークだな」

 一緒に死んでくれという意味かと、決して冗談半分で言ったわけではない律の提案は一笑に付されるばかりである。記憶を失っても料理が出来たように、律は以前から運転の方法や交通ルールを誰に習うわけでもなく理解していた。折角免許の所持が発覚したというのにこれでは宝の持ち腐れだなと、しかし確かに事故を引き起こさない絶対の自信があるわけでもない律は降谷に言い返す事すら出来やしない。

「降谷さん、昨日も遅くまで起きてましたよね」
「そうでもない。二時前には寝たし」
「……、それで、朝も仕事をしていましたよね」
「あれは仕事じゃなくて、報告書のチェック」

 報告書のチェックはどう考えても仕事だろうと、また頓珍漢な事を言っている降谷をちらりと見遣る。
 休暇を取得した間、降谷は安室の、もとい律の住む降谷の自宅で寝泊まりしていた。連夜、律がリビングでベッドに潜る頃には降谷はまだ風呂にも入らず、かと言って何か娯楽に興じるわけでもなく、難しい顔をしながらスマホやPCを弄りおそらく仕事をしていたのだと思う。職場がそれ程ブラック気質であるのか単に降谷がワーカホリックであるのかを良く判断できないままに、律には聞かせたくはないであろう電話を自室に戻ってしている降谷には、律はきっと両方だろうなと重い溜息をついていた。

「ああ、心配しなくても居眠り運転なんてしないよ。いつもより寝たから目が冴えてるし」

 最後の一段を下りて、言いながら振り返った降谷には、込み上げる溜息を体内に留まらせた。別に居眠り運転の心配をしているわけではないのだがと、長閑な田園風景を横目に歩調を合わせてくれる降谷の隣を歩いていく。
 降谷とはいずれ復職の話もしなければと思っていた律であるが、降谷を見ている限りではどうにも雲行きが怪しい。喫茶リーフでの仕事は毎日決まった時刻で定時上がり、主に調理と接客を楽しく行っていた律には降谷のような事務作業やましてや潜入捜査のようなものを、それもプライベートを犠牲にしてまで行うモチベーションが今の所全く無い。過去の花井律には崇高な志もあったのかもしれないが、今の律には何故自分が公安警察などという職を選んだのかすら分からないのだ。

 "俺は降谷零。公安警察で、律の上司だった"

 降谷はあの時、律と降谷の関係をそう断言した。誠一郎を通して律とも親交があったはずのその関係は、知人でも、友人でもなく、単に部下と上司なのである。その関係を逸脱しているのではと思われる貢献や献身は、だから偏に、律の父である誠一郎に対する降谷の誠意に他ならない。
 降谷が慕っていた誠一郎の娘として、自己犠牲を露ほども厭わない降谷の部下として、あまり期待にそぐわない言動はしたくはない。しかし事情が事情であっては律には手の打ちようがなく、どうしたものかと律は憂う。

「降谷さん」
「うん」
「私には、花井律だった頃の記憶がありません」
「……、知ってるけど?」

 何を今更奇妙奇天烈な事をと、切り出し方を誤った律に降谷は思わず足を止める。
 そうではなくてと、言いながら律には、期待にそぐわない言動というのも妙なものだなとそんな事を考えていた。記憶を失い別人と成り果てたような今の律に、降谷が一体何を期待するのか律にはそれが分からない。

「降谷さんの部下として、私に出来る事は残っていないかもしれません」

 律が本当は花井律という人間だったという事が分かっても、だからといって花井律の人格や感情までは掴めない。特異な関係であった赤井は別としても、花井律を知らない蕪木や葉子にしてみれば仮屋瀬ハルという人間が律の全てであったのだが、花井律を熟知していた降谷にとってはそうではない。
 降谷は別段指摘しないが、性格や態度、言葉遣いひとつをとってみても、本当は花井律とがらりと人が変わってしまっているのかもしれない。クソ上司などとぼやいていたと降谷は冗談めかして言っていたが、それが本当の事であったとしても何らおかしな事ではないのだ。

「花井律との齟齬に、幻滅させてしまうかもしれません。それを先に、謝っておきたくて」
 
 ザッと二人の間に吹いた強風は、勢い良く草木を揺らして、まるで子供がはしゃぐかのように駆けていく。反射的に抱き直した花束からは数本、花が宙を泳いではらはらとあぜ道に落下した。
 靡いた金糸はさらりとその僅かに細められた瞳にかかり、律よりも先に屈んだ降谷が、その花を拾い上げる。

「……さっき花屋で聞いたスターチスの花言葉、憶えてる?」
「え?ああ……途絶えぬ記憶、でしたっけ」
「そう、でもそれだけじゃない」

 降谷はそれを適当に花束の中に挿し戻すと、そのまま目線を律の高さに揃えた。良く澄んだアイスブルーの瞳は、同じ色をしたスターチスの花よりも、深く吸い込まれてしまいそうな生命力に満ちている。
 降谷零は、律が持っていないものばかりを持っているように思う。似たような性質で親和性の高かった赤井とは違って、降谷はきっと、律から遠く離れた対岸にその身を置いている。しかしその揺らがない信念に、底知れぬ熱量に、溢れんばかりのバイタリティに、まるで人が皆太陽に焦がれてしまうようなそんな不思議な魅力を携えている。

「変わらぬ心っていう意味もある」
「……変わらぬ、心」
「律は律だ。記憶が無いくらいで別人になんてしてやらないよ」

 その言葉にハッとしたように、律は思わず目を見開いた。まるで心を透かされたような心地にたじろぐ律を他所に、降谷の表情は僅かにも揺らがない。
 まだ安室透であった頃の彼には、律の記憶に関してそれでも多少なりとも迷いがあった。均衡していた花井律と仮屋瀬ハルの天秤に、やや後者に傾きかけた事もあった。しかし、今の降谷にはそれがない。人間、何かを決断したとしてもその選択を何度も振り返りたがるものであるが、降谷は己の決めた道を突き進むことばかりを考えている。

「幻滅なんてしない。するわけないだろ」

 律の手から花束を奪って、空いた右手は降谷の左手に強く握られる。
 駐車場までの長い一本道を、そうして律はまるでこの道が正しい道なのだと教え込まれるように、降谷に手を引かれて歩いていく。行き過ぎれば戻されて、道を誤れば正されて、きっと降谷はこれからもそうやって、目的地の定まらない律の道案内をしてくれるのだろう。
 私は、一体この人の事をどう思っていたのだろうか。あれだけ過去を調べるなと騒いでいたにもかかわらず、律は今、確かに心に抱いていたはずの感情を一片も思い出せぬ事がどうにも口惜しい。与えてくれるばかりの降谷のために、せめて何か力になれる事があれば良いのだが、今の律はあまりにも無力である。
 花瓶を何処で買って帰ろうかと思案し始めた降谷の言葉にはろくな返事も出来ないままに、降谷の瞳の色に似たそのスターチスの花弁を、律はじっと見つめ続けていた。


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