#34

 ピピピと鳴った電子音に、花井律は脇に差していた体温計を緩慢な動作で引っ張り出す。早朝よりも些か軽くなった身体には、少しは熱も下がった事だろうと表示を確認しようとしたが、それよりも先にスッと目の前に伸びてきた腕が律の手から体温計を攫っていく。片手に小鍋の乗った盆を持ったまま、降谷零はその表示に眉を寄せた。

「三十八度か。まだ高いな」

 言いながらサイドテーブルにそれを戻すと、降谷はベッドの縁に腰掛ける。持ち上げた鍋の蓋には薄黄色の卵粥から湯気がふわっと立ち昇り、空っぽの胃袋には今は一体何時なのだろうと、随分と寝入ってしまったような気もする律は明るい陽の入る窓辺に目を遣った。昨夜と打って変わってすっかりと晴れ渡った空に、網戸から入る風はカーテンの裾をゆらゆらと揺らしている。思えば半年前もこうして風邪を患わせて織枝葉子に看病をしてもらったなと、ふとそんな事を思い出しながら、渡されたコップに入った水を律はこくりと嚥下した。

「ほら、口を開けろ」
「……あの、自分で食べられます」
「いいから。俺がお願いしている内に、口を開けろ」

 スプーンに一匙粥を掬えば、降谷は熱々のそれを冷ますように数度息を吹きかけて、律の口許に差し出した。
 開けろと言っている時点でお願いでも何でもないと思うのだが、熱の回る頭と重だるい身体には大した抵抗力も無く、律は言われるがままに口を開く。差し込まれたスプーンから咥内に滑り込んだ丁度良い温度のそれを奥歯で食んで、律は再び、こくりと飲み込んだ。

「美味しい?」
「すみません、味が、良くわかりません」
「……勿体ないな。いつも以上に上手く出来たのに」

 スンと詰まった鼻を啜った律を横目に、降谷はやや残念そうに、味を確かめるように自分も同じスプーンで掬った粥を一匙、口に放り込む。
 その横顔は律の記憶にまだ濃く残る安室透のそれと完全に一致するのだが、人格ばかりが百八十度別人のものと成り果ててしまった。降谷零。それが彼の本当の名前であり、安室透は潜入先の偽名のひとつであることを律は昨晩聞かされた。突拍子もない話である。理解しろと言われてすぐに理解できるものではないし、むしろ安室は二重人格か何かの障害を抱えているのではないかと律の胸にはそんな不安すら生まれたものだった。

「風邪、移りますよ」
「移らないよ。昔から身体は丈夫だから」

 気にせず降谷はまた一匙スプーンに粥を掬うと律に差し出し、律は再び、口を開く。
 この一年で騙されるということに大変過敏になっていた律には、降谷は自分の警察手帳を差し出して、それを目を丸くして眺めていた律には続けて、花井律の警察手帳を開いて見せた。花井律。それが仮屋瀬ハルの本名であり、正体である。信じられないなら望む証拠を全て用意するし、職場にだって連れていくよと降谷は言った。
 否応なしに、突然突き付けられた真実に、律は一声も発することが儘ならなかった。ただそこには最早嘘がない事だけがまざまざと伝わって、きっと降谷の言っている事は本当なのだろうなと、ぼんやりする頭でそう思った。事の経緯を説明するからまずは風呂に入って身体を温めて来いと言われて、そうして停滞した思考力では何を考えることも出来ず、律は本当にただ風呂に入って言われた通りに降谷の元へ戻った。気怠い身体がぐらりと傾いたのは、その時だった。

「これは、あれだな」
「あれ?」
「雛鳥に餌をやっているような気分になって面白い」
「……、それは、妙な性癖に目覚めてしまいましたね」
「ハハ」

 そういえば雨に打たれたままタクシーに乗って、間違えて家から離れた場所で降車し、そこからはまた土砂降りの中歩いて帰って来た気がしますと申告すれば、お前は馬鹿かと、安室透であったならば口が裂けても言わないようなセリフを浴びさせられた。しかし結局朝になっても高熱が下がらずに、降谷には仕事を休ませ病院に連れて行ってもらい、院内での手続き諸々を含めこうして身の回りの全てを降谷にやらせているのだから、本当に極致の馬鹿かもしれないと律は泣きそうになりながら帰宅早々ベッドに潜り込んでいた。やはり安室透ですら、同じセリフを言ったかもしれない。

 "風邪を引いてしまいますよ"

 通りすがりの彼にも悪い事をしてしまったなと、律は記憶の隅に残っているその顔を思い浮かべた。自分を心配してそう声を掛けてくれたのに気が付いたら彼の車に乗り込んでいたものだから、何を言われていたのかも定かではなく、そうして無言で立ち去ってしまった。社会人として恥ずべき行動である。いくら茫然自失としていたからと言っても、せめて彼が戻って来るまでは待っているべきであった。まるで天罰のように、予言通りの事態となってしまっている。

「降谷さん」
「なに?」
「もう平気なので、仕事に行ってもらって大丈夫ですよ」
「……行かないよ、今日は。有給も取ったし」

 最後の一口を呑み込んでそう言えば、降谷はやや視線を泳がせた。軽口を叩いてくれてはいるが、降谷の料理中にベッドの中で目覚めた律は、片手間にしていた電話の声を拾ってしまっていた。会議は欠席、その案件は明日やる、書類の提出は遅らせろ、明朝までにはメールすると、次から次へと仕事を繰り越すその言葉には、律は本当に悪い事をしたなと己を省みた。
 結局昨晩話の続きが出来ていない律にはまだ、降谷零と花井律の関係すら分かってはいない。お前は花井律だと言われた所で突然記憶が蘇るわけでもないし、自分が警察官だという自覚なども全く芽生えないのだから、もちろん降谷を上司として慕っていた記憶もない。しかし記憶喪失という特殊な身の上であったとは言え、こうして自宅に住まわせ甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのだから、案外仲良しだったのかもしれないと思っている。
 不思議と、がらりと変わってしまった降谷の人格に違和感はない。むしろ安室透と仮屋瀬ハルの間にあったはずの妙な蟠りはふっと消失し、憶えのないはずの降谷零と花井律の距離感は、どうもこの身によく馴染む。

「今、目を離したら、また何処かへ消えそうな気もするし」

 カチャンと音を立てて鍋の蓋を閉めると、降谷は真っ直ぐな眼差しで律を見つめた。
 まさか、どこへも行けやしないと返事をしようとして、律はその時ようやく思い至った。ああ、私はこの人をずっと蔑ろにしていたのだなと、その瞳に宿った光から目を逸らせない。
 自分が天涯孤独の身であるなどと思っていたわけではない。家族がいるかもしれないし、友達がいるかもしれないし、同僚だっていただろうと考えたこともある。しかしそうして目に見えないものは、目に見えてしまうものよりも大切には扱いづらい。全て知らないフリをして生きていこうと赤井の手を取る事まで考えていたのに、律は全てを葬り去るという事を現実問題として直視できていなかった。

 "私は身元を知りたいわけじゃありません"

 あの時、降谷はどう思っただろう。
 今となってようやく律は、あの日ポアロで安室が律を幽霊でも見るような顔をして眺めた理由も、あの日カフェでどうしても律の身元を調べることに固執していた理由も、良く分かる。赤井が律の前から突然姿を消したように、律もまた降谷の前から突然姿を消したのだろう。生死すら分からない人間を探さなければならない苦痛を、律は誰よりも理解することができる。知らずの内にきっと律は、降谷零を傷付けていた。

「消えたりしませんよ。約束します」

 僅かに開いたその双眸に、律はゆっくりと、リビングのテーブルの上で口を開けたままの段ボールを見遣る。
 降谷からはまだ、依頼した指紋の照合結果を聞いてはいない。聞いてはいないが、それを聞いた所でもう、どうなるものでもないのだろうなと思った。きっともう頃合いなのだろう、これが花井律の命運なのだろうと、今ならばそう全てを受け入れる事ができる。

「永倉さんの事は、もう忘れます」
「!」
「我儘ばかり言って困らせて、すみませんでした」
「……律、」

 心にぽっかりと空いたままの穴も、時間が解決してくれるのだろう。そうして赤井との記憶も思い出になって、ああそんな事もあったなと、振り返ることのできる未来がきっとくる。いつまでもそうして壊れてしまったものを嘆いていたって、前に進めるわけではない。ただもしも、もしももう一度だけ、会えるのだとしたら。本当はその手を取って、全てを捨てて生きようと思った時もあった事を、伝えたかったとそう思う。心残りが綺麗に昇華したわけではない律の瞳は、切なげに揺らぐ。
 もしもあの時遭遇した沖矢にその正体を打ち明けられていたのなら、律は迷わずあのまま赤井と生きる未来を選んでいただろう。しかし既に、律の心は移ろいでしまった。捻じ曲げる事の出来ない運命の悪戯である。

「花井律として、やり直そうと思います」

 ご迷惑をお掛けしますが色々と教えてくださいと、律は降谷にぺこりと頭を下げた。
 戻らない記憶はひとつずつ埋めていくしかあるまい。赤井を完全に失った今、これから先ひとりでも生きていける力を養わなければならない律には、たとえそれがハリボテの記憶でも構わない。そう、きっと、花井律には家族が居ない。

 "可哀想にね。――ちゃん、身寄りがいないって"

 何度も夢に見たその映像は、やはり花井律のものなのだと思う。それにもしも家族と呼べる近しい存在が居たのならば、いくら律が身元調査を拒否したと言えど、こうして職場の上司の家に転がり込んでいる現況がまかり通っていたとは到底思えない。
 警察官などという特殊な職業に復職が果たせるかどうかは分からないが、難しいならばそれはそれで、自分に出来る次の職を探さなければならない。今までネックになっていた身分証明が可能となれば、それだけでも可能性は大幅に広がる。そうして生活力を蓄えて、きちんと社会に復帰しよう。こうなった以上はもう引き返すわけにはいかないし、いつまでも降谷に甘えているわけにもいかない。
 そう胸中で意気込んでいた律の頭を降谷は軽く押し上げ、起こされたかと思えばそのまま律の身体はベッドに転がされる。

「分かった。でもまずは身体を治すのが先だ」

 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、降谷の頬は穏やかに緩んでいた。
 掛布団を手繰り寄せたその手はそのまま、律の髪をくしゃりと撫ぜる。

「……降谷さんは、出来た上司ですね」
「……ふうん。前の律には、このクソ上司って言われたけど」
「ええ?冗談ですよね?」

 降谷は何が可笑しいのか、小刻みに肩を震わせて笑っている。
 安室透の時には見せてはくれなかった顔だなと、綺麗に笑う降谷零の顔に律はふと目を奪われる。

「ああ、冗談だよ。今日はずっと傍に居るから、ゆっくり眠りな」

 再び伸ばされたその手は、律の頭をそっと撫でた。随分と眠っていたような気がするのに、窓から差し込む陽が温めた空気は心地よく、静かな室内に、味の無い粥で膨れた腹に、程なくして律は再び眠りに誘われる。

 "律、"
 "俺がいる。俺がずっと傍にいるよ"

 夢うつつの微睡みの中で、今までどうしても聞き取れなかったその名前が、聞こえたような気がした。
 いつも傍から眺めていたはずの少女に律はいつの間にか成り代わっていて、繋いだ手の先に居るその男の顔ばかりはまだ黒く塗りつぶされている。ただ、その手から伝わる少し高い体温を、律はもう随分と前から知っているような気がした。現実で律の頭を柔く撫ぜ続けるその体温と、似ているような気がした。


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