#33

 降谷零は、鳴り響く電話の着信音に、重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。自宅マンションの地下駐車場に車を停めたまま、降谷は随分と長い間その場を動けずにいた。
 警察庁からどういった経路で帰宅したのかを上手く思い出す事が出来ず、よくもまあ事故のひとつでも引き起こさなかったものだなと、やや投げやりな思考のままスマホの画面をタップした。

『頼まれていた件、照合が終わりました』
「結果は?」
『アンマッチです。例の遺体と永倉圭は別人ですね』
「……ああ、そう」

 きついネクタイの結び目を緩めながら、そういえば安室の服に着替えるのを忘れたなと、ルームミラーに映り込んだスーツ姿の自分に溜息を吐く。しかし降谷には着替えのためにもう一度車を走らせる気力など残っておらず、言い訳などいくらでも立つだろうと重い腰を上げた。風見は降谷の脱力した返事に言葉を詰まらせ、端末を媒介して二人は互いに沈黙する。
 来葉峠の事故で発見された遺体と永倉圭の私物に付着した指紋の照合を、降谷は朝一で風見に依頼していた。その遺体が降谷の天敵である赤井秀一の偽装死体である可能性をもちろん風見は降谷から聞いてはいたが、一体何がどうなったらそれが永倉圭だという話になったのかが分からない。何故ですかと思わず首を傾げた風見には、何故だろうなと降谷も首を傾げて見せた。

『……降谷さん、大丈夫ですか?』

 慣れ親しんだ通路の蛍光灯がやけにちかちかと目に眩しいものだから、降谷は足早に通り抜けるとエレベーターのボタンを殴るように押し込む。いつもと変わらぬ速度で地下へ降りてくるそれが嫌にもたついているような気さえして、降谷は舌打ちしたくなる衝動をグッと堪えた。大丈夫なわけがないだろう、猛烈に吐きそうだと、しかし自分を案じてくれている部下にそう八つ当たりするわけにもいかず、かと言って誤魔化すための適当な言葉も用意できずに降谷は黙る。
 そうしてしばらくして軽やかなチャイムに合わせて徐に開いた扉に、降谷はエレベーターに乗り込んだ。微細な振動すら降谷の気を立てるその小さな箱の中で、奥の鏡面に映った降谷零の姿を、降谷はじっと凝視する。

「妙な事を調べさせて悪かったよ。忘れてくれ」

 あの時、あの横断歩道越しに律は降谷と視線を交わらせたが、それよりコンマ数秒、降谷が律を見つけるのが早かった。
 降谷は律のスマホに発信機を忍ばせてはいるが、何もそれをリアルタイムで随時監視できる程降谷も暇ではない。昨晩不動産屋から掛かってきた電話には、律は今日は以前住んでいた町に立退料を受け取りに行く予定だと話していたし、何故また米花町をふらついているのだろう、しかし世良真純との接触のため赤井秀一の姿でいる降谷は昨日のように声を掛けるわけにもいかないしと、ぼんやりとそんな事を考えていた。まさか、赤井の姿に扮している自分に向かって、永倉と、そう呼び止められるだなんて降谷は夢にも思ってはいなかった。

『……あの、花井は、赤井秀一と何か関係があるんですか?』

 律のあの必死の形相が瞼の裏に焼き付いて、その悲痛な叫びが耳の奥で木霊する。とりあえず降谷はその場から逃走を図るほか選択肢がなく、自分を追って路地裏まで息を切らして駆けてきた律を一度だけ振り返ると、そうして表通りに戻って人混みに紛れてしまった。
 何かの間違いだ、永倉圭は既に死んでいるのだと、しかし思えば思う程に律から持ち出された来葉峠の事件がその仮定に妙に絡まり合う。何故織枝葉子は永倉圭が死んだと認識していたのか、何故花井律は赤井秀一の姿を見て永倉圭と認識したのか、明確な結論からはしかし降谷が目を逸らす。

「……、あるわけないだろう」
『いや、でも、』
「また連絡する」

 丁度降谷の住むフロアに到達したエレベーターには、風見の言葉を遮って、降谷は強引に通話を切った。通路を歩きながら確かめたスマホの受信ボックスには、律からのメールの返事ばかりが届かない。不安視していた律のGPSはしばらくその場を動かなかったものの、その後諦めたのか米花町を離れ当初の目的地へ向かって行ったし、一時間前には無事に降谷の自宅へ戻っている。
 ドアノブに手を掛けて、降谷はしばし、静止した。切り替えよう。俺は、安室透だ。仮屋瀬ハルにただ優しいだけの、私立探偵の安室透だ。動揺するな、降谷零として都合の悪い事は受け流せと、まるで暗示のように胸中で何度か繰り返した後で、ゆっくりと扉を引く。実の所、降谷の表情からはまだ、困惑の色が抜け切れてはいない。しかし降谷はそれに気づかないフリをして、そうして今すぐにでも確かめずにはいられない真実を知るために、律の居る自宅へ足を踏み入れた。

「……仮屋瀬さん?」

 玄関には、珍しく脱ぎ散らかされた律のパンプスが転がっている。室内には居るはずであるが、しかし部屋の明かりは一切灯っていない。
 しんと静まり返る部屋には訝しげに眉を寄せると、降谷は些か性急に靴を脱いで上がり込む。時刻はまだ午後八時前だ。眠りにつくにはまだ早い。降谷の全身を撫でつけるような悪い予感に、薄く開いたままのリビングの扉を押し開けた。引かれてすらいないカーテンから洩れる月明りが、窓辺に寄り掛かったその小さな身体を綺麗に照らしている。
 降谷は一瞬動きを止めて、次にはハッとしたように慌てて律に駆け寄った。まるで事切れているかのようだと、安らかなその表情に、床に散らばった睡眠薬に、濡れた服の下で冷えた身体に、降谷は全身の血の気が引いた。しかし近付いて見れば、その胸は呼吸のために小さく上下して、鼻からは微かな寝息が漏れる。ただそうして眠っているだけの律に、降谷は脚の力が抜けて思わずその隣に座り込み、ぐしゃりと己の髪を乱雑に揉んだ。

「勘弁してくれよ、」

 よくよく見れば薬の空は一粒分で、ただ眠りたかっただけなのだろうと、降谷はそのボロ雑巾のような姿を眺める。
 傘も差さずに帰ったのだろうか、少しずつ乾き始めてはいるが雨は深部まで侵食している。スカートの裾や脚は所どころ土に塗れているし、昨日手当してやったはずの被覆材は剥がれ落ちてまだ赤く腫れた右手の傷跡が目に痛い。あの邂逅が、律にはそれ程ショックだったのだろうか。確かにあれでは、律はずっと探し続けていたその人物に突き放され裏切られた格好になるが、それでもここまで律を追い詰める程、永倉圭の存在は彼女の中で大きかったのだろうか。

 "身元を知りたいわけじゃありません。ただ、家に帰ってきて欲しいんです"
 "とても温かくて安心できる人でした"

 ただの病気なのにと、降谷は憂える。律の永倉圭に対する執着は、心をときめかせるような類の情愛ではない。疾患による錯覚だ。しかしそれに、本人ばかりがいつまで経っても気付かない。
 降谷は照合の結果が出る以前から、律に永倉の指紋が来葉峠の焼死体の指紋と一致したと嘯くつもりでいた。律が何故その事件を持ち出したのかは定かではなかったが、いずれにせよ律に永倉を諦めさせるいい機会だと思ったし、それが治療の第一歩になるだろうとさえ降谷は考えていた。しかし米花町でのあの邂逅が、降谷のその目論見を全てぶち壊しにしてしまった。

 "結果は?"
 "アンマッチです。例の遺体と永倉圭は別人ですね"

 ならば一層の事、本当に一致してくれた方が良かった。降谷は赤井秀一が死んだとは信じていないし、あの焼死体は入念に偽装された別人のものであると思っている。施された仕掛けにはまだ降谷は辿り着けてはいないが、FBIが持ち込んだ指紋は赤井ではなくてその別人のもので、だからそちらの照合結果は一致したと考えている。
 もしも永倉圭が赤井秀一に大変外見が似通っていたとして、そうして律が永倉圭を赤井秀一だと誤って認識していたとして、その焼死体が永倉圭だったのだとすれば、今度はこちらの照合結果が不一致であるのはおかしい。シンプルに永倉と来葉峠の事件は全くの無関係だと強引な論に片付けてしまうのも一考の余地があるが、むしろ永倉圭とは赤井秀一本人であって、律の持ち込んだ指紋が偽装を怠った赤井本人のものだったからこそ、その別人の遺体のそれとはマッチングしなかったと考えた方が浮遊したままの全ての疑惑を鮮やかに満たす。

「……、何だ?」

 しかし、その帰結を、降谷は絶対に許せない。
 ただでさえ律はあの夏葉原の事件のショックで記憶を失い、それまでの過去やキャリアも捨てさせられて、仮屋瀬ハルという全くの別人として生きることを強いられた。記憶が無いのをいい事に、見知らぬ男に好き勝手に弄ばれて、篭絡されて、懐柔されて、挙句の果てにはこうしてボロボロにさせられてまるで使い捨てのような扱いだ。それが本当にあの赤井秀一の手による犯行となれば、降谷の中に残っている一縷の理性などは秒で千切れる。殺人を犯す者の気持ちなど露ほども分からないはずなのに、奴に限ってはこの手で八つ裂きにでも火炙りにでも、とにかく苦しめて殺してやりたい。
 降谷は、律の両耳から繋がる細いコードを静かに辿った。その身体の向こうに落下していたのは、随分と前に織枝葉子に解約させたはずの彼女のスマホである。律は現在は安室透が貸与したスマホを使用しているはずであるが、音楽か何かでも聞いていたのだろうかと、その左耳からイヤホンをそっと引き抜くと自分の顔を寄せて、降谷はそれを己の耳に押し込んだ。何も聞こえぬ音声には、降谷はその先代のスマホに手を伸ばす。画面をタップすればそこには、留守録が一件、残されていた。

『一件の保存したメッセージがあります』

 軽快なガイダンスの音声に、降谷はメッセージの保存日時を確かめる。半年以上前の、それこそ来葉峠の事件が発生する数日前の日付である。
 もうとっくの昔に電池など切れていただろうに、彼女はそれをわざわざ引っ張り出して充電までして、その身体すら温める事を疎かに何よりもこの音声を聞きたかったのだろうか。一体何をそうまでしてと、降谷は右耳に流れ始めた音に目を細めて意識を集める。

『……何度も悪かったよ。君に伝えたいことがあって』

 瞬間、降谷の表情から、色が消えた。たとえ機械越しでも、大嫌いだった独特な低音域のそのトーンを、降谷は忘れることなど決してできない。
 降谷はその時まで、まだ心の何処かで、永倉圭が赤井秀一とは別人である可能性を信じていた。既に詰まれた盤上を前にして、それでもまだ何かを見落としているのではないかと活路を見出そうとしていた。その真実を呑み込む事が、屈強であるはずの己の精神を殺す事を、降谷は無意識の内に理解していたせいだ。
 しかしもうどこにも、逃げ場などない。よせばいいのに、降谷はその留守録を最後まで聞いた。赤井秀一が花井律に宛てたメッセージを、降谷は、最後まで聞いた。

『メッセージの再生が終了しました』

 ピーッと高い音を鳴らして止まった音声に、降谷の耳には、また唐突に降り出した雨が窓をパチパチと叩く音が響いた。無造作に開いたレースのカーテンの隙間から見えていたはずの細く撓った三日月は、分厚い雲に覆われ始めたせいで律と降谷の間に届かせていた光を消失させていく。
 狂った天気だなと、降谷は思った。降谷はこれまでに何度も律の言動に振り回されて、そうして何度も思考回路を宙に放り投げた事があるが、今回ばかりはその比ではない。繋がれたコードの先で穏やかに眠る律の横顔に、降谷は静かに、手を伸ばす。

「……、弱ったな」

 俺の気も狂いそうだと、降谷はもう己を嗤う事すら出来ない。降谷零はいつも、いつも、いつも、そうして赤井秀一に奪われる。
 花井律を返してくれよと、律を包み込んでいた手に伝播した情動は、上手く力の抑制が効かない。俄かに与えられた痛みには、ゆっくりとその瞼が持ち上がって、二、三、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。思わぬ近距離に降谷を認識すると、律はその身体を反射的に退こうとするが、降谷がそれを許さない。

「……あ、安室さん?」

 掠れた声でそう呼んだ律の目元を、降谷は親指の腹でなぞった。涙の跡は、まだ真新しい。
 仮屋瀬ハルと安室透として生きようかなどと、どうして思えただろう。全て知らないフリなどして、この先もずっとそうしてまま事のような状態で生きていけるわけなどない。第三者の言葉はこうも簡単に批評できるのに、全く同じ思考に陥っていた自分を今日まで降谷は正せなかった。
 過去を帳消しにする事などできないし、してはいけない。だからここからもう一度、正しい道を歩み直す事から始めなければならない。降谷はもう、躊躇わない。

「律」
「……え?」
「花井律。それがお前の本当の名前だよ」
「……、」

 窓を叩く雨の音が、一段と耳に煩い。
 ようやく口に出来たその名は降谷にはよく馴染むのに、当の本人ばかりが上手く咀嚼出来ずに身体を強張らせる。暗がりで僅かに見張ったその瞳には、もう安室透は映らない。

「俺は降谷零。公安警察で、律の上司だった」

 数秒後じわりと浮かんだ大粒の玉のような涙が、ゆっくりと零れ落ちて、そうして降谷の手を濡らしていく。それを拭おうとして動作した降谷の腕は二人を繋ぐコードに引っ掛かり、音もなく律の耳からイヤホンが抜け落ちた。
 もう決して、後戻りなど出来はしない。降谷は確かな覚悟を持って、呆然とする律の頬を伝うその涙を拭った。賽は既に、投げられた。


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