#32

 沖矢昴、もとい赤井秀一は、あまりにも長い赤信号に苛立つと焦燥感を掻き消すように煙草を一本口に咥えた。沖矢昴の姿で外で喫煙することは自粛していたのだが、こうも腹の虫が治まらないと少しでも気を落ち着けなければ凄惨な交通事故か何かでも引き起こしそうだと、まだ僅かにその身に残る冷静さを掻き集めて煙草に火を点す。
 先代の愛車とは全く別物の感触のハンドルを握り直して、赤井は再び信号機を見た。まだまだ、赤井にアクセルを踏ませようとする気配が無い。

 "ポアロの安室さんの話は前にしたよね?"
 "聞いたよ。毛利さんの弟子だろう?"

 数少ない沖矢昴の正体を知る江戸川コナン少年から着信があったのは、昨日の事である。阿笠博士と灰原哀の前で込み入った話は出来ず、赤井は工藤邸に帰ってから電話を折り返した。
 安室透はコナンが目下のところバーボンと疑う人物の一人であり、実際その推理が的中していることを赤井は知っているのだが、その情報を彼には与えてはいない。キールの件で共闘してからは協力体制を敷いており、今も当時の作戦が水面下で進行中ではあるが、だからと言って互いにその過去まで全て曝け出しているわけではない。コナンは赤井に秘密があるし、赤井もコナンに秘密がある。だから時折腹の内を探り合うような遊びに興じており、今回もその一環だろうと赤井はそう踏んで余裕すら漂わせていた。

 "三カ月前に人捜しの依頼を受けていて"
 "ああ。それで?"
 "実はその依頼者が"

 しかし、続けられた言葉には、どうも話の要領を得ずに赤井は電話口で首を傾げる。彼ならばその頃は丁度、俺の死を確かめるために俺に扮して周辺の人間に接触を図り始めた頃だったなと、赤井は三カ月前の記憶を遡っている。組織で大変優秀な探り屋として機能しているあの男には、油断すれば赤井秀一の死の偽装を見抜かれかねない。その動向には注意していたが、米花百貨店での事件以降は赤井秀一成りすましごっこも止めてくれていたようだったし、てっきり本来の目的にシフトしたのだろうと思い込んでいた。シェリーに近しいと疑われる毛利探偵に近付くために、私立探偵と身分を偽り事務所近くの喫茶店でアルバイトなどをしているようであるが、その身分を確立するために当時から実際に探偵の仕事も受けているのだろうか、赤井には定かではないが、そもそもカモフラージュのためのそれならば赤井はさして興味も無い。

 "仮屋瀬ハルさんっていう、二十代半ばくらいの女性なんだけど"
 "……、え?"

 興味も無いと、胸中で断言した赤井の思考回路が、その時ぶつりと切断される。
 赤井の予想の遥か斜め上を行ってしまったその話の展開には、赤井はサッと全身の血の気が引いたような気がして、工藤邸のソファにだらしなく寄りかかっていた身体を思わず起こす。久しく口にすることも耳にすることもなかったはずのその懐かしい名前を、何故コナンの口から聞かなければならないのか、頭の回転が完全に止まってしまった赤井には推測すら儘ならない。じとりと嫌に汗ばんだ左手で掴んだままのスマホをもう一度しっかりと握り直して、若干の沈黙の後で、急に乾いた唇を開く。

 "……仮屋瀬ハルと、言ったのか"
 "その反応だと、やっぱりあの夜電話していたハルさんなんだね?"
 "……それは、"
 "だとしたら、聞いておきたい事があるんだけど"
 "待て……、少し、待ってくれ。話がまるで見えない"

 赤井は一度スマホを耳から話すと、スピーカーにして机上に放った。自由になった利き手の指で、トントンと静かに机を一定のリズムで叩く。
 律にとっての三カ月前と言えば、赤井が行方を暗ましてからも丁度三カ月くらいの頃である。彼女が人捜しなどを始めるとして十中八九それは赤井秀一を探しているのだろうとは思うが、まさかあの律が探偵まで雇って自分を探そうとは赤井も予想だにしていない。
 沖矢の姿で確認した律の日常は何の滞りもないように見えていたし、実際律の周囲にはこれといった不自由もない。金を出して抑えた賃貸物件の契約はあと一年は有効であるし、織枝と約束した律の雇用もあと半年の猶予がある。最近は夢見も落ち着いていたし、体調に何かあれば蕪木を頼るだろう。まさか何か不測の事態でも発生したのだろうかと思うが、赤井にそれを知る術は残されていない。

 "なぜ彼女は安室君に依頼を?"
 "偶然だと思うよ。本当は小五郎のおじさんを訪ねて来たけど留守にしていたから、蘭姉ちゃんが安室さんを紹介したんだ"
 "……、何のために俺を探している?"
 "……さあ?僕は依頼の内容は聞いていないし。でも、"

 話しながら手元に手繰り寄せたラップトップで、赤井は蕪木のPCにアクセスする。しかしやはり、カルテの更新は止まったままだ。
 探偵などこの世に星の数程いるだろうに、何故彼女はよりにもよって安室透に関わってしまったのだろうと鈍く痛む蟀谷を赤井は抑える。そもそも奴の本業はバーボンとしての組織の活動であって、実際の所は探偵でも何でもないというのに。
 赤井を赤井だと認識できていない律はどうしたって永倉圭の消息を追うしかないが、永倉圭など架空の人物であってどう足掻いた所で辿り着けやしないのだ。その結論に安室が満足してくれさえすればそれで事は済むのだが、下手に興味でも持たれてこねくり回されれば最悪永倉圭と赤井秀一を結び付けかねない。そうなれば事態は破滅の一途を辿るだろうし、それこそ赤井と関係を持った律の身が無事で済まされるとは思えない。

 "恋人よりも大切な人だったかもしれないって、そう言ってたよ"

 とりあえずは情報調達をと、赤井秀一とは別人を装ってやむを得ず織枝葉子の仕事用のアドレスにメールを打ち始めた赤井の手が、その時、止まる。
 無機質な端末から響いた少年の声はしんと静まり返った室内に良く響いて、赤井はどうにも通話中のそのスマホから目を離せない。

 "死ぬのは赤井秀一だから構わないって言ってたけど、ハルさんも本当にそう割り切れているのかな"

 僕が口を挟むことじゃないけどさと、姿は見えない少年が確かにそっぽを向いたのが赤井には感じ取れる。割り切るも何も律は赤井秀一を知らないのだよと、しかしろくな返事も疎かに赤井は織枝へのメールを書き上げると送信ボタンをクリックした。
 高い天井を仰ぎながら、赤井は再びソファに深く沈み込む。そう言えば低気圧が近付いているらしく、明日は東都も雨だったなとふとそんな事が頭を過ぎって、以前電話の向こうで泣いていた律の声を思い出した。あの娘が自分を恋人以上に大切だと評価していたなど赤井は俄かには信じられず、もしや探している人物というのは俺ではないのではとすら思ってしまう始末である。しかしもしも、もしも律が赤井を追って、そうして生死すら定かではない自分を想って涙を流す事があったとしたのならば。
 赤井は己の不甲斐なさに、苦虫を噛み潰したような顔で握り潰した拳をソファに叩き下ろした。堰を切ったように溢れる負の感情を、どう逃がせがばいいいのか持て余す。

 "……、それで、ボウヤは何が気掛かりなんだ"

 腹を立てた所で、自分の蒔いた種である。半年間、律をほったらかしにしてしまった時間が巻き戻るわけではない。
 こんな状況下でなければすぐにでもあの街に向かって、あのアパートに帰って、その身体を抱き締めてやれるのにと、消灯したラップトップの画面に映る沖矢昴の相貌から赤井は目を逸らす。

 "安室さんとハルさんって……何かあるの?"
 "何かって?"
 "安室さん、ハルさんには特別執着しているように見えるから"
 "……、どういう意味だ"

 聞き返しながらも赤井の脳内には既に、最悪の展開が構築され始めている。
 もしや既に仮屋瀬ハルと赤井秀一の繋がりまで見出されてしまっているのだろうか、三カ月という期間はあの男にとって人間一人を調べ上げるには長すぎる。確かに律は永倉圭が赤井秀一である事は知らないが、彼女の前では姿形や嗜好まで偽っていたわけではない。永倉の外見や特徴、失踪時期や関係のありそうな来葉峠の事件を洗いざらい吐かれようものなら、赤井は完全に詰みである。
 安室透、もといバーボンには、スコッチの死の件で赤井は個人的に大変深く恨みを持たれているわけで、思わずして手に入った好カードには、それはさぞ執着もすることだろう。律を囮や人質に使って赤井を炙り出すつもりならば、赤井は白旗を上げて自分の身などいくらでも差し出すのだが、そうなれば組織に送り戻したキールの生命に関わるものなのだから一筋縄ではいかない。想像していた以上に、事態は赤井秀一に劣勢である。

 "悪いな。また連絡する"

 コナンの返事を待たずに、赤井は切電した。
 兎にも角にも、今後の算段を立てなければならない。何よりもまず律を安室透から引き剥がさなければならないが、闇雲に引っ掻き回せばそれこそ返り討ちに合う恐れもある。コナンの口振りからは律に喫緊に迫った危険があるわけではないようであるが、しかし仕掛けられるのを待っていては手遅れになりかねない。事情を知るジェイムズに相談すれば律の保護には一役買ってくれるだろうが、そうなればそもそも全てを秘密のままというわけにはいかず、律には赤井の素性を知らせることになる。言っている場合でもないのだろうなと、しかし赤井はそうして天井を見つめたまま動けず良案を思いつけないまま、時間ばかりが過ぎていく。
 普段であれば仕事の内容如何に拘らず、メールを確認した旨の返事をすぐに寄越すはずの織枝葉子からは、待てど暮らせど返信がなかった。

『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになってお掛け直しください』

 再びタップした番号から予想通りの音声が流れ終えると、ようやく青く変わった信号に、赤井はアクセルを踏んだ。強くなった雨脚には、ワイパーの速度を一段階速くする。
 コナンから連絡を受けた翌日の今日、赤井は現状把握に東奔西走していたが、結果は散々なものであったと言える。結局音沙汰の無い織枝には、沖矢の姿を晒すリスクも充分に分かった上で、律の様子見も兼ねて赤井は喫茶リーフへ直に足を運んだ。しかし定休日でも何でもないはずの今日、店内は暗くひっそりと静まり返っており人影もなく、扉に貼られた風化した知らせに目をやれば店は二カ月以上前に閉店しているというのだから赤井は目を丸くした。通りかかった元常連客の婦人に話を聞けば、店主の織枝葉子は田舎の母親の看病のために店を閉めて東都を離れたというのだから赤井の眼鏡はずり落ちそうになる。あの女に病気がちな母親などは元から居ない。

 "看板娘のハルちゃんって子がいたんだけど、次のお仕事は見つかったのかしらねえ"

 迂闊であった。確かに些か冷徹な女ではあったが、これまで仕事上の約束を踏みにじられた事は無い。行方を追おうにも店は随分前からもぬけの殻であるし、今は何処へ雲隠れしたかも知れぬ織枝を追いかけている場合ではない。婦人の指摘通り、律は一体今どうやって生計を立てているのだろうかと、慌ててその住居を訪ねて見れば今度はそのアパート自体が解体中であるのだから赤井は呆然とした。素性を偽り不動産屋で話を聞けば当時赤井が違法な手段で契約を交わした担当者は既に仕事を辞めており、こちらはこちらで契約不履行であるが今更それをどうこう言った所でどうしようもなく、件のアパートは家主の意向で土地を引き払い老人ホームになるというのだから、赤井は開いた口が塞がらない。
 唯一居所のはっきりしていた蕪木は不運にも一昨日から海外の学会に参加中であるようで、午前中に自宅まで足を運んだが結局捕まらなかった。しかし織枝が消えたとなれば律が頼れる人間は蕪木しか残らないわけで、手がかりを求めて留守中のその宅に忍び込ませてもらおうと、赤井は現在表通りを引き返している。

「……、何処へ隠した」

 これで律が蕪木の元に居てくれたならばいいのだが、しかし、どうにも事が上手く運び過ぎており赤井は作為的な影を感じずにはいられない。
 よもや躊躇している場合でもないと、回線が抑えられている事を危惧して手に入れたばかりの足の付かないスマホで、記憶していた律の番号に連絡を試みたもののコール音すら鳴らないのだから既に手が打たれている。
 まさかあの男はそうして彼女から生きる術をひとつずつ奪って、そうして自分に依存させるように仕向けたのだろうか。卑劣だ。やり方が汚い。記憶が無いのをいい事にやりたい放題だ。実際第三者から見れば赤井も過去に似たような仕打ちを律にしているのだが、熱の昇った頭では赤井はそこまで行き着かない。

「!?」

 再び目の端に映ったブルーシートに、赤井は目を見張って、思わず急ブレーキをかけた。
 大粒の雨が横殴りに流れる視界の悪い車窓の向こうで、女が一人、傘も差さずにアパートのエントランスで佇んでいる。縋るような気持ちで開けた窓から吹き込む雨が、己を濡らすのを厭わずに赤井は目を凝らす。その見慣れた後ろ姿に赤井は、次の瞬間にはもう、助手席に立てかけていた傘を引っ掴んで道路に飛び出していた。沖矢昴として接触することが余計に彼女との関係を拗らせてしまうことを分かっていながらも、赤井はその震える身体に傘を差し出さずにはいられなかった。

「とりあえず僕の車へ。雨の当たらない場所で休みましょう」

 律は箍が外れてしまったかのように、声を上げて泣き続けた。ピークを過ぎて雨が小降りになった頃にようやく律の涙も枯れたものの、そうして今度は壊れてしまったかのように虚ろな瞳のまま動作をしない。あれ程嫌っていた雨に全身を濡らして、泥に塗れて、立たせようと触れた身体は氷のように冷えている。少し痩せたなと、小さくなった体躯は以前より頼りなく、手を引いてやれば抵抗する気力すら残っていないのか律は沖矢昴になされるがままである。
 全てを話そうと、赤井はその時心に決めた。このまま後手後手に回った所で事態は好転しないだろうし、何が引き金となったかは定かでないがこれでは律の精神が持たない。何よりこの姿でさえなければ、赤井は律のその肩を抱き寄せて、この胸をいくらだって貸してやれる。もう大丈夫だからと、安心していいからと、そう言ってやりたい。立ちはだかる数多の障害など自分の手で排除して、そうして彼女の居場所を作り直してやりたい。
 今ここで律を拾えた事は願ってもない幸運であったが、こうなる前にどうしてもっと早く気付いてやれなかったのだろうと赤井は傘の柄を握る手に力を込める。

「そこのコンビニでタオルを買ってきます。ご自宅までお送りしますので、待っていてくださいね」

 律を助手席に押し込めると、赤井は車の暖房を入れてその手にハンカチを握らせた。ぽたぽたとその髪から流れ落ち続ける雫も気にせず、律は赤井に返事のひとつも寄越さない。後ろ髪を引かれるような思いで赤井は扉を閉め、足早にコンビニに向かって歩き出した。
 前者は本当の事であるが、後者は真っ赤な嘘である。安室に把握されているであろう現在の自宅になど送り届けるつもりは更々ないし、言ってしまえばもう二度とその家に足を踏み入れさせる気などもない。今後の事についてはジェイムズも交えて話をしなければと思ってはいるが、今晩は何処か手頃なホテルにでも部屋を取ろうと考えている。

「八百九十円です」
「……あ、すみません、この絆創膏も」

 そういえば律の右手の甲の絆創膏が剥がれ落ちそうだったなと、大判のタオルと温かいお茶にレジ横に丁度並んでいた絆創膏を追加し、赤井は支払を済ませた。コンビニの自動ドアを潜ればまた雨脚は強くなっていて、どうにも不安定な天気には赤井は嫌な気分で再び傘を差し、通りを一度右折すれば沖矢昴の愛車が視界に入る。
 さて、何から話せばいいのやらと、赤井は思案していた。沖矢昴が赤井秀一である事実を理解させるために、まずは永倉圭と赤井秀一が同一人物であることを告げなければならない。現況が任務であることを話すためには自分がFBI捜査官であることも伝えた方がいいだろうが、それを話せば律の過去だって有耶無耶なままでは済まされないかもしれない。律を混乱させないためには何から順序立てて話してやるのがいいのだろうか、彼女は一体どこまで知ることを望むのだろうか。赤井の思考回路さえ混乱しそうな程に、赤井秀一と花井律の間には、あまりにも嘘が多すぎる。
 じわりと靴の底から雨水が浸水した不快な感触に、赤井が異変に気付いたのは、その時だった。

「……ハル?」

 決して沖矢の成りでは口にしてはいけない名を、赤井は呼んだ。
 車窓から覗いた助手席は空っぽで、慌てて開けた扉の向こうにもやはり律の姿はない。後部座席にも勿論、車内には人の気配がなく、律は忽然とその姿を消してしまっていた。赤井の手から滑り落ちたコンビニの袋がぼさりと音を立てて落下し、温いペットボトルが冷たい道路を転がっていく。それが赤井の爪先に到達してやっと我に帰った赤井は、当てもないのに傘すら放り投げて走り出していた。
 たったの五分。赤井が律から離れた時間はたったの五分だ。まだ僅かに温度の残っていた助手席には、夢ではなく確かに律はそこに居たのに、赤井の渡したハンカチばかりを置いて当の本人が消えてしまった。油断した己の手落ちだ。最早動く気力さえ残っていないだろうと思い込み、待っていろというその言葉の鎖ばかりで繋いだ自分の不手際だ。

「ハル!」

 表通りに出た赤井は、目を見張る。通りを挟んだ向こう側でタクシーに乗り込む律の姿を捉えて、人目も憚らずに声を張り上げた。しかし既に閉まった扉の中で、律が赤井の声に気付くはずもない。丁度赤く変わった横断歩道の信号機に、タクシーの方はスピードを上げて道路を北上していく。 
 つい先程まで声の届く距離に居たのに、この秘密を全てを打ち明けようと決めたのに、もう二度とその手を離さないと思っていたのに。再び叫んだその名は、一段と激しくなった雨の音に虚しく掻き消える。目の前に差し出されて掴みかけた律の手を、赤井秀一はこの日、見す見すと逃してしまった。


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