#31

 立退料を受け取りに来て欲しいと業者から電話を受けたのは、昨晩の事である。
 件のアパートからは律以外の元住人も皆無事に引っ越しを終えたようで、聞けば彼等には多額の金銭が既に支払われたようである。当時律も同じく立退料の打診を受けてはいたのだが、そもそもその賃貸の契約者は律ではなくて赤井であったし、しかも彼は非合法な手段でその契約を結んでいたものだから話は行き詰っていた。てっきり反故にされるかと思いきや、しかしやはり実害を受けた律に相応の対価が支払われることで決着し、貰えるのならば貰っておこうと律は久しぶりに赤井と暮らした街へ向かおうとしていた。銀行振込が出来れば何てことは無いのだが、口座を持てない律はそうして現地まで現金を受け取りに行く他ない。

「雨用のカバーはお付けしますか?」

 しかし東都環状線に乗り込んだ律は、次は米花町ですと間延びした声で流れた車内アナウンスに導かれるように、ふらりとまたその街へ寄り道していた。
 別に理由もなく足を踏み入れたわけではなくて、私は昨日うっかり粉々にしてしまったグラスの替えを買い求めていたのだと、別にまだ何を言われたわけでもないのに頭に過った安室透に必死の言い訳を繰り返す。彼には安物だから気にするなとは言われたがそういう問題ではないだろうと、店内の時計を確かめながら律は店員の申し出を断った。昨晩の天気予報では雨は夕方からだと言っていたし、それまでには家に帰れるはずだと律は手頃なグラスの二つ入った紙袋をそのまま受け取り店を出た。

 "その事件が永倉圭と何か関係があるのですか"
 "関係があるかもしれないし、関係がないかもしれません"

 あの時、何故か表情を凍らせた安室の様子が頭にこびりついて離れないのに、それでも律は赤井の姿を探して米花の町を彷徨い歩くことをやめられない。傷のある男が本当に赤井であるのかどうかも分からず、来葉峠の事件が赤井に関係があるのかどうかも定かではなく、律はそうして可能性をひとつひとつ潰していくしかない。しかしこれで安室に託した赤井の私物と件の焼死体の指紋が不一致となれば、例の男が赤井であるという仮定にリーチがかかる。

 "結果が分かったらご連絡します"

 彼は静かにそう言い放ち、思えば珍しくそれ以上の追及をすることはなかったなと、どんよりとした空を眺めながら律は歩いていく。
 丁度一年前もこうして律は、グラスを買った。渡す相手ばかりは違っているが、彼はあの時大して値も張らない何の変哲もないそれに、大層喜んだ様子で嬉しそうに笑っていた。安室はそうはいかないだろうと、元はと言えば律が安室宅のグラスを割ってしまった事が原因なのだから当たり前ではあるのだが、律の脳裏には安室のあの貼り付けたような綺麗な笑みが、浮かんで消える。
 結局のところ、律には安室透の善意の根源が分からぬままだ。まさか本当に、律の手料理を一緒に食べることができたらそれで幸せだなどと思っているはずもないだろう。
 何と言っても、あの行儀の良すぎる人格がどうにも相容れない。安室は基本的にいつもにこにことして人好きのする笑顔を絶やさぬし、律と永倉の話で対立しようとも彼はいつも上手に話をはぐらかしては穏やかに律を諭すばかりである。安室だって人間なのだ、心から笑ったり腹を立てたりすることがあるはずなのに、それがひとつも露見せず、どうにも自己を抑圧しているようにも律の目には映る。いや、と言うよりは、むしろ彼は。

 ――まるで、別人になったような気で仮屋瀬ハルを蔑ろにしていた、いつかの私のようだ。

 思わず立ち止まり、律は俄かに沸いた思考を鼻で嗤った。何を馬鹿な事をと、紙袋の持ち手をぎゅっと握り直す。

「おい、何だよ!?バーベキューって!」
「……そういえばコナン君、お昼は子供達とバーベキューをご馳走になるって言ってたよ?」

 瞬間、聞き覚えのある少年の名前と女性の声音に、律はハッとして振り返った。
 歩道の端を通過していく女子高生三人組の内、顔見知りである毛利蘭は大声でスマホに向かって喋りかけているショートカットのボーイッシュな女性を注視し、律の姿には気付かない。茶髪にカチューシャの女性もまた、興味津津といった様子でその様を覗き込んでいる。

「そういう事は早く言ってくれよ!」
「あ、ゴメン……」
「なに?なに?蘭家に行くのはあの眼鏡のガキンチョが目当てなの?」

 学校帰りだろうか、仲睦まじく大通りを歩いていくその後ろ姿は次第に小さくなって、すぐに律にはその会話すら聞こえなくなった。
 記憶を喪失して以来、律にはああして他愛ない会話のできる友人がいない。もちろん記憶を喪失する以前にもいたかどうかは分からないが、普通に生きてさえいれば友達のひとりくらいはいたのだろうと思っている。蕪木や葉子は確かに距離の近い存在であったが、それでも友人とカテゴライズするには彼等との関係には捩じれがあったし、今はもう彼等とも連絡すら取ってはいない。何のしがらみも無く、何の気兼ねもなく、そうしてただ楽な言葉を交わすことのできる友人が律は欲しい。この年になると友達ひとり作るのにも苦労するのだなと、もう見えなくなった三人の背に律は踵を返して歩き出す。

 "あなたにとって、永倉圭はどういう男でしたか?"

 だから昨夜はつい、安室相手に喋り過ぎてしまったのかもしれない。律にとって唯一遠慮なく話のできる相手は赤井であったが、まさか赤井への想いを当の本人に吐露するわけにもいかず、律にはそうしてずっとその想いなどを聞いてくれる誰かなど居なかった。もっとも、今まで赤井に対する感情を言語化してこなかった律は、安室に話をする傍らでようやく己の気持ちの整理をし始めたのではあるのだが。
 指紋の提供のために、クローゼットの奥底から引っ張り出した段ボールに収まっていた赤井の私物の数々には、律はどうしようもなく心臓が揺さぶられていた。記憶に染みついたその煙草の香りが懐かしくて、使用できなくなったスマホにまだ残っているであろう留守録の声が恋しくて、久し振りに蘇った赤井と繰り返した毎日に、律は昨晩一睡もすることができなかった。あの時テレビで赤井に似た姿などを見つけなければ、昨晩そうして赤井の事など思い出さなければ、律はもしかしたらあのまま赤井の事を忘れられたのかもしれない。しかし今となってはそう思えた事すら不思議な程に、ただ赤井と会って話がしたいと熱に浮かされている。聞きたい事も話したい事も、山ほどあるのだ。律はもう、赤井を見つけ出した所でその頬を引っ叩く事など、きっとできやしない。

「……、え?」

 横断歩道の赤信号で、律は足を止めた。
 ふと目を遣った疎らに自動車の行き交う車道の向こうで、濃色のジャケットを羽織り黒のキャップを目深に被る男は、同じように視線を持ち上げた。
 あまりの驚きに目を丸くした律と、ぱちりと、確かに意識は交差した。十数メートルもない距離に、その双眸が驚きに見開かれたのが律には確かに分かる。刹那忘れていた呼吸を呑み込んで、上手く吸い込めぬ息を吸う。律は人目も憚らずに、ただ、声を張り上げた。

「永倉さん!」

 思わず飛び出そうとした律の目の前を、牽制するかのように車がエンジンを鳴らして走っていく。
 慌てて身を引っ込めた律の視界の端で、しかし、男はゆっくりと後ずさると、何故か身を翻して足早にその場を立ち去ろうとしているものだから律は狼狽した。

「ま、待って……!行かないで!」

 律の悲痛な叫びが、あの男に届いていないはずがない。
 同じく信号待ちをしていた群衆が何事かと好奇の目で律を眺める中、当分変わりそうもない信号にその波を慌ててかき分けて律は歩道橋を駆け上がる。既に裏道へ入ってしまった男の姿を律の眼はもう追えていないのに、絡まる足に縺れそうになりながら只管にそうして走った。
 律がやっとの思いで階段を駆け下りた時、丁度信号が変わって、横断歩道は人の波に揉まれていく。男が消えた路地裏の入り口で、律は膝に手を付き肩を上下させながら、足りない酸素を吸い込んだ。

「……っ、どうして、」

 零れ落ちた言葉は、コンクリートの塀に虚しく木霊するばかりである。
 あの男が赤井に似た別人だとするのならば、こうして律を見て逃走するなどあり得ない。あれは赤井だ、半年前に律を置いて雲隠れした赤井に他ならないのだと、しかしそう確信してしまったからこそ律の足は動かない。
 律は今までこうして、赤井に露骨な拒絶をされたことはない。待っていろと言われたのに大人しくしていなかったらいけないのだろうか、それともそんな言葉はただの方便で赤井に捨てられただけなのではないだろうか、私は本当はずっと、彼の重荷だったのではないだろうか。何か事情があるのかもしれないと頭の片隅には過ぎるのに、どうしてもマイナスに振れる思考が先行する。
 再び何処かへ姿を消したその背が律の瞳に焼き付いたように離れずに、熱くなる目頭を痛いくらいの力で抑えた。もう二度と赤井とは会えなくなるような悪い予感が現実のものとなってしまったような気がして、律は人気のないその路地裏でひとり、声を殺して、泣いた。

「ではこちらにサインを……ええ、結構です。お手続きは以上になりますので」

 こじんまりとした不動産屋の店内で、律は職員に言われるがままに書類を記入し立退料を受け取った。
 どうやってここまで辿り着いたのか良く覚えてはいないし、目の前の女性が何を話していたのかも良く分からない。降りそうですねと、窓ガラスの向こうを眺めながらそう呟いた声に、一体あれからどれくらいの時間が経ったのだろうと、時計すら探せずに律は頭を下げて席を立った。

「傘はお持ちですか?」
「……ああ、はい。大丈夫です」

 お気をつけてと背に投げられた声に、律はふらふらと覚束ない足取りで慣れ親しんだ街を歩いていく。鉛のように重い足を引き摺るのが億劫で、そうしてぽつりぽつりと身体に当たり始めた雨粒には、律は大変恨めしそうに暗い空を見上げた。
 ビニール傘を差し出した彼女には大丈夫だと断ったものの、実際律は傘など持ってはいない。借りた所で返すためには再びこの街に足を踏み入れなければならないが、律には更々その気がなかった。きっともう二度とこの街に戻ることはないし、出来ることなら今は赤井の居るこの東都からも離れたい。幸い手元にまとまった金があるし、このまま何処か遠く離れた場所へ、誰も律を知らない場所へでも行ってしまいたいと思っている。突如強まる雨脚には豪雨の予感がして、律は表通りでタクシーでも拾おうと裏道を横切った。

「!」

 開けた視界に、律の目には、ブルーシートで覆われた解体中のアパートが映る。衝動的に、何かに手でも引かれるように、律はエントランスに向かって、そうして立ち止まった。
 つい数か月前まで確かに律が生活をしていた建物はすっかりと生き生きとしたその色を失って、まるでもうずっと誰も住んではいなかったかのような寂れた気配すら漂っている。外壁は崩され剥き出しになった骨組みはぱたぱたと風に舞うブルーシートの隙間から雨に晒されており、役割を奪われた残骸はこうも生命力を失ってしまうものなのだろうかと、心底疎ましい雨にしとどに濡れ始める律もぽっかりと心に空いた穴にその場を動けない。

「……、どうして、」

 何故、こうなってしまったのだろう。花井律を巡る数寄な命運を、律は呪う。 

 "全て知らないフリをして、俺と生きてくれるか?"

 今この瞬間に同じ言葉をかけられたのなら、律はその手を取っただろう。あの頃の日常が何物にも代えがたい幸福であった事に気付いた今ならば、律は己の二十数年間を全てリセットして、そうして仮屋瀬ハルとして生きる道を選んだだろう。しかし、知らぬ過去をかなぐり捨てる決断をしようとも、もうその手が律に差し伸べられる事は永遠にない。
 こんな思いをしなければならないのなら、あの時、テレビで赤井の姿など見つけなければ良かった。そうして彼の消息を追って、あの街に足をなど踏み入れなければ良かった。
 じわりと滲む景色に、最低の気分だなと律は思った。降りしきる雨は更に勢いを強め、全身に与えられる刺激と冷めた温度が疎ましくて、雨水を吸った洋服は肌にへばりつく。気持ちの悪い感触と意識の遠のきそうな具合の悪さに、律はそっと瞼を閉じる。

「風邪を引いてしまいますよ」

 ふわりと、その時、律の記憶の一番底に沈み込んだ香りがした気がした。咽返るような雨の匂いの中で、どうして、その香りばかりが鋭く尖る。ばちばちと叩くように律に降り注いでいた雨がふっと止んだのは、傘が差しだされたせいだと、澄んだ視界にようやく気付いた。
 縋るように振り返った瞳に映るのは、しかし、律が焦がれた人物とは別の男である。無造作に跳ねた薄茶の髪は雨に濡れ始め、細目を囲う眼鏡には所どころ雨粒が飛んでいる。自分が雨曝しになることを少しも厭わないのだろうか、彼はそうして色の白い左手で差し出した傘で、律ばかりを包み込んでいる。

「……泣いているのですか?」

 律の頬を伝っていく玉のような水滴に、彼は心配そうな声色でそう訊ねた。煩い雨音が耳を劈くのに、その言葉は不思議と律に良く届く。
 赤井がこうしてこの場所に舞い戻るわけなどないのに、一体何を期待しているのだろうと律は己を嗤った。惨めで、無様で、救いようがない。排水溝に流れ込んでいく雨水のように、自分もそうして吸い込まれて消えてしまえたらいいのにと律は徐に唇を開く。

「いいえ……雨のせいだと、思いますよ」

 言いながらも涙に濡れた掠れた声には、律の双眸からは再びぼろぼろと大粒の雫が伝い落ちる。見知らぬ男の前で恰好の付かない醜態に、震える身体を律は自分の両腕できつく抱いた。しかしどうにも嗚咽を我慢出来ずに、アスファルトに崩れ落ちた律の身体は再び激しい雨に晒される。
 堰を切ったように咽び泣く律には、ただの通りすがりであろうその男も身を屈めて、躊躇いなく汚れた地面に膝を付く。彼はそうして、ただ無言で、律に傘を差し続けていた。


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