#30

『明日は、夕方から局地的な大雨となるでしょう。折り畳み傘があると安心です』

 リビングのソファでテレビから垂れ流れる天気予報を聞きながらスマホを弄っていた降谷は、キッチンから響いたパリンと薄いガラスの割れた音に顔を上げて、シンクの中身を凝視している律を見遣る。やるのではとは思ってはいたが本当にやるとはなと、浅く息を吐いた降谷はスマホを放り投げて席を立った。
 律に持たせたスマホに忍ばせた発信機を頼りに律を米花町から回収したはいいが、彼女はどうにもそれからずっと心此処に在らずといった様子で、夕飯の準備中も降谷はいつ包丁で指でも切るのではないかと冷や冷やとしていた。帰りの車中では何かあったのかと大変優しく聞いてやったつもりであるが律は何も教えてはくれないし、降谷の質問を受け流しては窓の向こうの空を眺めているばかりで、明日の天気でも心配なのだろうかとも思っていたがそれにしては様子がおかしい。降谷が拠点としている米花町にはもっともらしい理由を付けてあれ程近付くなと言っていたにもかかわらず、ふらふらと米花デパート付近をうろついていた理由もよく分からないままである。

「……ご、ごめんなさい。弁償します」
「安物なので構いませんよ。それより片付けは僕が、」

 言いかけて、降谷の唇が固まる。慌てて破片に手を伸ばしたのだろうか、律の右手の甲から流れた鮮血が、ぽたりとシンクに落ちては流水に混じる。降谷の視線を追いかけて、ようやくその痛みを自覚した律の口の端が小さく歪んだ。
 すみませんと一声掛けて持ち上げたその手首は、冷水に晒されていたせいかひやりと冷たい。怪我までされるとは思っておらず、こうなるならば無理やりにでも皿洗いの役を奪うべきだったなと降谷の眉間には皺が寄る。しかし幸い傷はそれ程深くはないし、破片が皮膚に刺さっているわけでもない。自宅の救急箱で事足りるだろうと考えながら、しょんぼりとした様子で再び謝罪する律の傷口から流れ落ちる血を、降谷は水で洗い流した。

「気を付けてくださいね。傷が浅かったから良かったものの」
「……はい。すみませんでした」
「怒っているわけではありませんよ。利き手ですし不便なことがあれば言ってくださいね」
「……、はい」

 ソファで横並びに、その右手に丁寧にガーゼを当てる降谷を前に、律の声は次第に小さくなる。白い肌に綺麗に入った一文字の赤は、僅かにその端が持ち上がりまるで不気味に笑う口許のようで、降谷はどうにも嫌な心地がした。
 それっきり口を閉ざしてしまった律と降谷の間には妙な沈黙が流れるし、律はテレビに映る九州地区の豪雨の映像を、見ているのか見ていないのかも分からぬような上の空のままぼんやりと眺めたままで、一体何に思いを巡らしているのかも定かではない。もしや記憶の片鱗でも掴んだのだろうかとも思うが、それならばそれで沈黙を守る理由もない。相変わらず冷えたままの指先のその温度ばかりが、未だに戻らない。

「何か考え事でもしていたのですか?」
「……はあ、そうですね」
「……明日は東都でも雨のようですよ」
「……はあ、そうですね」
「……、心配なので、今日は泊まっていっても?」
「……はあ、そうですね」
「……」
「……、……え?」
「危なっかしい人だな」

 ワンテンポ遅れて降谷を振り返った律には、馬鹿か、俺でなければ簡単に喰われるぞと、手当をする右手にやや力を込めるのを抑えきれずに降谷は冗談ですよと笑って見せる。ようやく意識をこちらに向けた律はしかし、はあと、また気の抜けた返事をするものだから降谷の額にはうっすらと青筋が浮かんだ。
 降谷は安室透としてこの家に何度か足を運んでいるが、現在は律の自宅であるここで夜を明かしたことはない。もちろん安室の別宅という体であるこの家に安室が帰ったとしても不自然ではないし、安室がここで寝泊まりをしないと律との間に約束をしているわけでもないのだが、しかし律との今後の関係性を決め兼ねている降谷はその辺りの線引きをきちんとしている。以前の降谷と律との関係性を安室とハルの関係性にそのままスライドさせることを、降谷はまだ躊躇っている。

「僕の事をまだ信用できませんか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「ならばなぜ、話していただけないのでしょう?」
「……それは、」

 悲しそうなフリをして少し眉を下げた降谷を前に、律は困ったように言葉に詰まる。花井律は割と平気で嘘をつける人間であるが、こうして溢れる良心に真っ向から当てられると案外弱い事を降谷は学習した。降谷零として理詰めで責め立てるよりも、安室透として情に訴えた方が彼女を切り崩すには随分と早い。
 そうして都合よく、降谷零と安室透の両方を切り替えて使い分けられたらいいのにと、二の句を迷う律を前に降谷は非現実的な事を考えていた。風見が聞けばまた、どういう意味ですかと、頭に疑問符を浮かべながら首を傾げるに違いない。思えば彼との間でも、律の記憶を巡る意見は一致を見ないままだ。もっとも、降谷の中でさえ明確な答えなどまだ定まってはいない。

「……安室さんと、喧嘩をしたくはないんです」

 律はとても言い辛そうに、ボソリとそう、静かに呟いた。
 その言葉の意味にすぐに思い当たり、被覆材を取り出していた降谷の動きが、ぴたりと止まる。ああ、まだ駄目なのかと、降谷はつい険しくなってしまいそうな表情を、やっとの所で優しい安室透の面で覆い隠す。

「永倉圭ですか」

 ぴくりと動作した律の手に、降谷は何でもない事のように手当を完了させた。
 怒るな、腹を立てるな、これは病気の治療の一環なのだからと、被覆材で綺麗に傷口が包み隠された律の右手を眺めながらそうして降谷は心中で独り憂える。永倉圭などこうしたひっかき傷のひとつで、いずれ膿は瘡蓋になって、そうして最期は跡形もなく消えてなくなるのだ。
 一層の事、永倉の死を伝えてしまうというのも一手ではあるのだがと、降谷は思う。当初よりも律は安室透に心を開いているし、今それを伝えたからといってよもや安室に勢い任せの抵抗などはしないだろう。本格的に奴の死亡の証拠でも掴んでみようか、そうすれば彼女もさすがに諦めがつくというものだろうと、降谷は水面下で目論み始める。

「どういう男でしたか?」
「え?」
「あなたにとって、永倉圭はどういう男でしたか?」

 本当は、自然と忘れてくれるのであればそれが一番良い。万が一死亡の事実を知らせてそれに執着されてしまってはまた矯正に時間がかかるし、それが心的外傷となり二次被害を生み出さない保証もない。時間さえかければ解決できるのならば降谷はいくらでも待ってやるが、思っていた以上に永倉圭が律の心に与えるストレスは大きく、ぼやぼやとしていれば次はこの程度の怪我では済まされない可能性もある。まさかとは思うが、そうして思い詰めて道路に飛び出されたりでもすればそれこそ降谷は後悔するだけでは済まされない。
 静かに両の眼を細めた降谷を前に、しかし律はその些か研がれた空気感には気付かず、初めて安室の方から永倉に歩み寄ろうとしているその姿勢に、僅かに頬を弛緩させる。視線を外して考えを巡らした後で、律はゆっくりと、その唇を開いた。

「……無骨な人、でした」
「無骨?」
「はい。洗練されていなくて、あまり器用な人ではありません」
「……、はあ」

 それは悪口ではないのだろうかと、降谷は思うがしかし、律の表情は柔く綻ぶ。
 思えば降谷が律の口から得た永倉の情報は、あのカフェでの長時間の話合いの日以降アップデートされてはいない。例の身元を調べる調べないの攻防時には律は律自身に係る情報だけではなく永倉についても口を閉ざしてしまったし、そもそも律はあれ以降安室透にその後の調査を要請してはいない。何か調べて欲しい事があるとは言ってはいたがそれっきり、無論その頃は降谷が手を回して律の身包みを引き剥がしにかかっていたため、それどころではなかったというのもあるのだろうが。

「ヘビースモーカーで、お酒が好きでした」
「……なるほど」
「家事全般が苦手で、お米も炊けないような人です」
「……、なるほど」
「仕事が忙しくて家に帰らない日もありました」
「……、それは、あまり素敵な男性像ではありませんね」

 聞けば聞く程クソみたいな男だなと、うっかり本心をそのまま口にしてしまいたくなる程度には降谷は死んだ魚のような目でぼやかした感想を伝える。降谷は他人から無骨だなんて評価をされるヘマはしないし、投げかけられる言葉と言えば、眉目秀麗、文武両道、何事も大変スマートに器用に熟す自負すらある。煙草は吸わないし、時間と思考力を奪われる酒も滅多に飲まない。今でも自分と律の部屋の手入れを問題なく行う程度には家事も効率良く出来るし、料理は巷で評判を呼ぶ程の腕がある。確かに降谷も仕事が多忙で家に帰る暇はないが、そう嘯いて夜遊びでもしているだろうその男とは全く別である。
 何でも出来過ぎるというのも嫌味なものだなと、やや口が悪く性格に難がある事には目を瞑ったまま、降谷は永倉圭を遥か下に見下ろしていた。しかし何がおかしいのか、そうでもありませんよと律はへらりと笑う。

「何をするにもいつも、自分よりも私を優先してくれました」

 永倉が還らないとはまだ知らぬその瞳には、確かに降谷の姿が反射しているのに、律は少しも降谷を見てはいない。既に離れた互いの手は数センチの距離にあるというのに、まるで永遠に届かぬような場所に行ってしまったかのような錯覚すらある。
 降谷だって、今は何をするにも律を優先しているじゃないかと、まるで自分を蔑ろにする態度にはカチンと来るものがある。降谷の意見などは殺して、律が縋る仮屋瀬ハルの世界をただ静かに守ってやっている。ほんの僅かな睡眠時間すら削ってこうして律との時間を作り、唯一心を許せた律の前ですらひとつも気を抜けず、他人の皮まで被って笑ってやっている。
 お前は何も知らないだろうがなと、ゆっくりと握り締めた拳の中で、降谷の傷んだ爪が皮膚に食い込んだ。

「上手に気配りが出来ない自分を恥ずかしく思って、気付こうと努力をしてくれるような人です」

 本当に、疲れているのかもしれないと、どうにも嬉しそうに続ける律を前に降谷は思った。
 好きでやっているにも拘わらず、そうしてらしくもない恩着せがましい思考回路に陥ってしまう程度には、風見の指摘通り疲れているのかもしれない。

「とても温かくて安心できる人でした」

 自分の努力がひとつも報われない事が嘆かわしいのか、一向にその病から抜け出す兆しのない律が気に喰わないのか、はたまた全く別の感情に起因しているのか、降谷は己の憤りの理由が掴めない。安室透は非の打ち所のない気遣いをするし、それこそ誰にだって温かくて安心できる男だろうと、表面的な苛立ちに上手く隠れてしまった激情の根に気付けない。
 固く握られたままの降谷の拳とは裏腹に、そういえばと、降谷の手当したその右手をゆるく持ち上げて、律は想いを馳せる。

「……そういえば、永倉さんは左利きです」
「え?」
「いつも左手で煙草を吸っていたし、左手でスマホを操作していました」
「……左利き、」

 ブウンと、その時、降谷が先ほどソファの隅に放り投げたスマホがバイブした。振り返った降谷の目には、画面に表示されたポップアップに、OKのそのたった一単語ばかりが映り込む。
 先日の毛利探偵事務所内で発生した銃殺事件で、降谷は偶然にも赤井秀一の身内である世良真純を視認していた。赤井の死に疑念を取り払えない降谷は、その男に成りすまして周囲の人間に探りを入れており、丁度明日、真純との邂逅を図るためにベルモットに変装を依頼していたのである。同僚の捜査官達からは赤井の死を偽装している感触は得られなかったが、家族となればまた違ったリアクションを確認できる可能性があったからだ。
 降谷は人伝にその死に際の話を何度も聞いたし、キールが撮影した映像もこの目で確認している。しかし、あの周到で狡猾な男がジンの思惑に嵌ってそうして呆気なく死んだなど降谷は信じられないし、どうせ何かカラクリがあるに違いないと降谷はベルモットが呆れ返る程の執着を見せていた。

「……安室さん。実は、調べて欲しい事があります」

 律は、己の手の平をじっと眺めたまま、呟くようにそう口を開く。その様には思わず、赤井秀一といい永倉圭といい、自分が手を下してでも葬り去りたい人間はどいつもこいつも左利きだなと、頭の隅にそんなどうでもいい思考が過った。
 ようやく口を割る気になった律にはしかし、愚直に調べてやってもいいが内容次第と言えるだろう。降谷もようやく血でも滲みそうであった拳を緩めて、珍しく何ともその先の予想が立たなかった律の言葉をただ待った。ゆっくりと、真っ直ぐ降谷を見つめた律の妙な光を宿した瞳と、刹那視線が交わる。

「来葉峠で焼死体が発見された事件です」

 まるで時が止まってしまったかのように、降谷は瞬きすら忘れて律を見つめ返した。
 変わらずテレビから垂れ流れる天気予報は、東都の中継に切り替わっている。逃れられない暗雲に、侵食されるように東都の街が包まれていく。


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