#29

 沖矢昴、もとい赤井秀一は、己の手料理にグチグチとつまらぬ文句を繰り返す少女を前に、込み上がる溜め息をやっとの所で飲み込んだ。
 コンロに置いた鍋には優に三人分は上回るであろう量のカレーが収まっているが、以前生煮えだと言われたそれを今度は煮込みすぎ、うっかり野菜類が消失してしまっているのである。まあ別に食えれば問題ないだろうと、分かっていながらその不出来な作品をそのまま阿笠邸に持ち込んだのが彼女の癇に障ったようで、もうかれこれ十分程度はそうして説教に似た嫌味を浴びせ続けられている。

「いい年して本当に不器用ね」
「……はあ、すみません」

 年齢など関係はない、経験値とセンスの問題だろうと赤井は思う。思うがしかし、そうでも反論しようものならますます火に油だろうと赤井は只管にその熱が冷めるのを待っている。それこそいい年をして見た目は小学生の少女にこうして本気で叱られなければならない大人の気持ちも、少しは察して欲しいものだなと赤井は遠くを見遣った。

「まあまあ、哀君。彼も料理は修行中なんじゃから」

 そうして宥める阿笠博士にもツンとした態度で、しかしそのカレーを口にする気持ちはあるのだろう、杓文字で皿に白米をよそい始める。その優しさがあるのならば自分にももう少し穏やかに注意してくれればいいのにと、赤井は再び零れ落ちそうになった溜め息をもう一度のみ込んだ。
 これがあの娘だったならばと、赤井は灰原哀に料理の腕を叱られる度に頭の隅に過ぎる花井律の姿に肩を落とす。律ならばきっと赤井がそうして失敗作を持ち込もうとも、赤井が料理をしたというその事実だけで喜んでくれたに違いない。何せ料理などしたこともなかった赤井はあの頃、手伝いすら儘ならずに律に提供される料理を食ってばかりだった。
 料理とは単純なように見えて、完成までは大変複雑な工程を辿る。普段から料理をし慣れない赤井にとっては、スーパーでの食材の調達ですら億劫だ。完成品を思い浮かべる事は出来ても、果たしてそれにどの食材とどの調味料が使われているのか、どんな調理器具が必要であるのかが分からない。何が常温で良く何が常温ではいけないのかすら分からず、調べる事すら面倒に全てを冷蔵庫に突っ込んでいたら、ジャガイモは冷やさなくていいのよと工藤有希子に笑われてしまった。そうしてレシピというものはいちいち指示が細かいし、次にこれをやれあれをやれと、言われるがままに従っていればキッチンが酷い騒ぎになった。洗い物で溢れ返ったシンクと散らばった野菜の切り屑に、丁度鳴った炊飯器を開けてみれば水の分量を間違えたのか粥が出来上がっていて、呆然とした赤井の鼻には何かが焦げた匂いが掠めていき、ああ料理人とは偉大だなと、虚ろな目でそんな事を考えていた。

 "こういうのは役割分担ですから、得意な方がやればいいんですよ"

 その言葉を鵜呑みにして甘え過ぎていたのだと、赤井は律と離れてようやく反省をした。料理ひとつで半日が潰れた赤井とは違って、日中はバイトで忙しくしていたはずの律は大変手際よく毎日家事をこなしていた。確かに赤井の方が家に帰るのは遅かった。しかしそうは言っても、赤井が家に帰れば当たり前のように温かく美味しい食事が用意されているし、掃除を終えた部屋は綺麗に整頓され、陽の匂いのするシャツにはアイロンがかけられている。うっかりベランダで食後の一服をしようものならその間に皿は洗浄されてしまっているし、せめて風呂くらいは準備しようかと思えば既に湯は張っている。当然のように甘受していたそれが今では魔法か何かのように思える程度には、自堕落な独り身に慣れていた己の生活力が大変な低レベルを記録している事に気付いてしまった。
 律は役割分担だと言っていたが、それならばあの家での自分の役割とは何だったのだろう。共に生きるという事は、ただ隣に居ればいいわけではないし、どちらか一方に寄り掛かるという事でもない。互いを補い、協力し合い、そうして同じ歩幅で前に進むという事だ。煙草を吸う暇があるのならば皿を洗えば良かったし、出来ないならば出来ないなりにサラダのレタスくらい千切ってやったら良かったのだ。いくら仕事が忙しいとは言え、毎日彼女より三十分でも早く起きれば、洗濯機を回してやることだってできただろう。しかし、赤井はそれをしてこなかった。
 このままではまたいつか律との二人暮らしを再開できたとしても、一人の方が楽なので出て行ってもらえませんかと言われかねない。目から鱗が落ちたかのように発覚した己の不甲斐なさには、本当にいい年をしてと、赤井は項垂れる。

「これじゃあ彼女が出来てもすぐに愛想尽かされるわよ」

 哀はそんな赤井の胸中など露ほども知らず、赤井の皿にカレーをよそった。
 仮にも自分の姉の恋人だった男に向ける台詞ではないが、少女はまだその事実を知らない。宮野明美とは律のように同居生活を送っていたわけでもないし、あくまでも仕事のために近付いた彼女の前にはそうして自分の無能ぶりを自覚するまでには至らなかった。大君、大君と、素性を知っても好意を寄せ続けてくれた彼女にも、もっと優しくしてやれば良かったと赤井に純粋に恋をしていたその横顔がふらりと過ぎるが、いくら後悔しようとも彼女はもう戻らない。
 ぐさりと心臓に刺さるその言の刃には、赤井は至極その通りだと巨大な鈍器で頭を殴られたような気分のまま、少女がカウンターに置いたカレーの皿を持ち上げた。

「それは困りましたね……女性には好感を持っていただきたいのですが」
「あら。あなたでもそんな事を考えるの?」
「そりゃあ、まあ。何かアドバイスでも頂けませんか?」
「はあ?自分で考えなさいよ。頭の良い大学に通ってるんだから」

 ごとりと、最後の一皿をわざと大きな音を立てて置くと、哀は赤井を睨みあげた。生まれたての仔猫が全身の毛を逆立てて威嚇しているかのような錯覚に、赤井はもう何も言うまいと静かに阿笠の隣に腰掛ける。
 姉とは対照的に随分と気性の荒い女だが、その元凶となったのは紛れもなく自分であるのだから赤井の胸中はとても複雑だ。こんな状況でなければ面と向かって謝罪のひとつでもさせてもらいたいのだが、赤井秀一を殺して沖矢昴として生きている以上、全てが綺麗に片付くまではそういうわけにもいかない。もっとも、彼女の心の傷は相当に深く姉を篭絡した赤井の顔など見たくもないはずであるし、その報復にナイフで腹を一突きされたとしても赤井は何も文句は言えない。宮野姉妹には、赤井はそれだけ酷い事をした。
 仕事で犠牲にしてきた命はいくつもあるし、そのひとつひとつに贖罪などしきれない。だがせめてそうして消えゆく故人の遺志くらいは、尊重してやりたいという想いもある。だからもう少しばかり沖矢昴に心を開いて少女が幸せになれる時までは、その身を守らせてくれれば随分と楽なのだがと赤井は具の無いカレーをスプーンに掬う。

「気になる女性でもいるのかの?」
「……ええ、まあ、そうですね」
「ほーう。どんな子なんじゃ?」
「……とても、可愛らしい人ですよ。僕には勿体ないような」

 実は赤井は、律の前から姿を消してから一度だけ、その様子が気掛かりであの街へ足を運んでいる。もちろん、赤井の姿のまま周辺をうろつくことなどはできず、沖矢昴に変装した上ではあるのだが。
 律の日常は、毎日ほとんど変わらない。出勤時刻も、帰宅時刻も、喫茶リーフで働く姿も、全て同じ事の繰り返しだ。行動範囲はとても狭く、当時から赤井と一緒でなければ遠出をするような事もなかった。友人も居ないからわざわざ誰かに会うこともないし、特別趣味というようなものがあるわけでもない。訪れる日々を、淡々と過ごすばかりだ。
 そうして赤井を失った彼女の一日も、全く何も変わらなかった。律は平気な顔をして、アパートを出て通りを挟んだバイト先へ向かって行き、本当は手の届く距離にいる赤井になど気付くはずもない。どうせこの姿であれば律には分からない、沖矢昴として遭遇すればその声だけでも聞くことができると、赤井は一瞬その背に声を掛けようとして、そうして、やめた。律をこちらのエリアに引き込む気などは毛頭ないし、それに何より、赤井は律にこれ以上の嘘を重ねる事を躊躇った。結局、律が元気でいることだけを視認して、そうして職務のために米花町へ舞い戻った。

「きっと、僕よりも彼女を幸せにできる男が、山のように居るでしょうね」

 律の心など、赤井には知る術がない。
 一方的に残したままの留守録には返事がないまま、そのスマホは楠田の遺体と共に燃やしてしまった。赤井の死は近親者と同僚には伝えられたようではあるが、そもそも普段は永倉圭として接触していた律や蕪木、織枝などにはその情報の一片すら届きはしない。事件のニュースを見た所で律は警察とはコンタクトが取れないし、万が一蕪木や織枝を通して赤井の指紋を提供したとしても、あくまでそれは楠田の死体なのだから一致するわけもない。
 もとより、赤井が消えたからと言って律がそうまでして自分を追いかけるだろうかと、赤井にはその自信がまるでなかった。露骨にメソメソと泣いてくれるような娘であったのならば分かり易いものを、ああも平然と日常を過ごしてしまわれれば赤井にはその本心など余計に見透かせない。赤井から解放されて案外清々とした気分でいるのかもしれないし、そもそも赤井が必死の想いで残した留守録なども、最後まできちんと聞いてくれたのかどうかさえも定かではない。

「そう思うのなら、手離してあげなさいよ。退くのも愛情なんだから」

 哀はちらりと赤井を一瞥して、そうしてその小さな口にカレーの乗ったスプーンを運んだ。
 手離すねえと、考えもしなかった発想に赤井は一人思いを巡らせる。赤井秀一はもう既に引き返せない所まで、花井律という人間の人生を狂わせた。仕事に利用しようとして、自分の恣に手懐けようとして、これでは少女の姉にした仕打ちと全く同じである。無責任に放り出せはしないだろうと思う程には彼女達には情が湧いてしまったし、それに、律の方には、それ以上の情愛を抱いてしまった。

「ふうむ。哀君は難しい事を言うのぉ」

 傍から見れば歪み切っているであろうその関係性が、今はどうにも恋しくて仕方が無い。
 蕪木や織枝に何と言われようとも、このままでは居られない事が分かっていようとも、それでも赤井はこうして律と引き剥がされるまで、律との関係を矯正しようとはしなかった。永倉圭と仮屋瀬ハルとして過ごしたあまりにも普遍的な日常は、おそらく赤井秀一の人生の中で最も幸福なひと時であったからだ。赤井はどうしたって願ってしまう。律の望む未来に、自分の姿がある事を。
 律の幸せばかりを模索していた当初であれば、彼女を元の場所へ戻してやることだって出来たかもしれないがと、赤井は嗤う。

「……簡単に手離してやれない程度には、溺れてしまっているのかもしれません」

 律が過去を知ることを望もうとも、はたまた全てを闇に葬り去ることを決めようとも、赤井はその選択には口を出すことは出来ない。過去を知れば花井律から全てを取り上げてしまった赤井を律は心の底から恨むかもしれないし、かと言って全てを捨てて生きることになったとしても律がまた赤井の手を取る保証もない。
 自分はどうしたらあの娘の隣に居る事を赦されるのだろう、彼女に見合うような相応しい男にでもなれば多少は違うのだろうか、そもそも律は俺の事を何だと思っているのかと、人生で初めて抱えた難題に、もうずっと赤井は頭を悩ませている。
 馬鹿みたいと、哀はもう赤井の方すら見ずにそう言った。

「身を滅ぼす程の恋なんて、しない方が幸福なのよ」

 少女が誰を想ってそう俯瞰するのか、分かってしまうからこそ赤井は返事ができない。
 宮野明美が諸星大に恋心を寄せていたように、永倉圭も仮屋瀬ハルに恋をしていると言うのだろうか。自分がこうして律を回顧する姿は、他人の目にはそう映るのだろうか。

 "秀一は、彼女の事が好きだろう?" 

 赤井だって、年頃の健全な男なのだ。いくら女に無頓着なまま生きてきたとは言え、過去に付き合っていた恋人達とはキスやセックスだってしたし、そうして欲望のままに抱き潰した夜は一度や二度ではない。女の肌というものは吸い付くように滑らかで柔らかく心地が良いし、その絶頂には酒や煙草とはまた違った格別の快感がある。
 しかし生活を共にし、況してや毎晩のように同じベッドで眠りについていた律との間には、蕪木が憂慮したような身体の関係は一切無かった。律に異性としての魅力がないというわけでもないのに、不思議とそんな衝動に駆られた事はない。あの情欲が恋心の根幹をなしていたのだとするのなら、自分が律に抱いていた感情は恋とはまた別のものなのではないだろうかと、第三者から見れば鼻で笑われそうな事を赤井は真剣に考え込んでいる。律に焦がれる心が、本人も知らぬような奥底の深度に根付いたプラトニックな愛の芽生えから来るものであった事が、今の赤井にはまだ、分からない。

「ちょっと、博士。お代わりはダメよ」
「ええ?!でも、もともと少なかったし……」
「少な目に盛ったのよ。最近また体重が増えたんだから」

 綺麗になった皿を手に席を立った阿笠には、すかさず哀がそう釘を刺す。仲睦まじい様子を横目に眺めながら、赤井は最後の一口をスプーンに掬った。
 脳裏に過った蕪木の言葉には、そう言えば随分と彼の電子カルテを見てはいないなと思い返す。赤井秀一として接触の出来ない蕪木の書き留める律のカルテを、赤井は自宅のPCから偶に盗み見ていたが、それが二カ月以上前から更新が止まっていた。しかし律はもともと通院に積極的ではないし、二カ月程度間が空いたとしても特段不自然というわけでもない。最後のカルテには睡眠薬が良く効いていることや、体調も変わりないことが記されていたし、赤井はそれに安心しきっていたのである。
 しかしそろそろ薬も底を尽きる頃であろうし、カルテの更新もされることだろうか。几帳面な蕪木は律の様子を大変詳細まで文字に起こすため、それは赤井が今唯一律の様子を垣間見る手段であった。今夜は久しぶりに蕪木のPCに忍び込もうと決めて、空になった皿をシンクへ運ぼうと赤井は席を立つ。江戸川コナンからの着信があったのは、まさに、その時であった。


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