#28

 花井律は、求人雑誌をパラパラと捲っていた手を止めて、徐に顔を上げた。午後二時になり丁度切り替わったテレビの映像には、アナウンサーの永倉圭が映り込んでいる。『東都事件簿〜真実に迫る〜』という番組は隔日で放送されており、未だに次の就職先が見つからない律はリビングで片手間にこうして視聴することが多かった。番組自体は至って真面目なもので、東都で発生した大小の事件をピックアップしてはその詳細や背景を紹介し、犯罪のメカニズムや社会心理学の観点から参加者達が自由に議論を交わしていくものである。
 今日のネタはどうせ先日の毛利探偵事務所銃殺事件だろうなと、律は思っていた。米花町五丁目のその事務所のトイレ内で、男性が拳銃自殺をしたという報道がなされたのは数日前であるが、実際律が事件の発生を知ったのはその翌日であり、既に捜査は自殺から他殺に切り替わっていた。まさか自分が仕事の依頼をしようと思っていた探偵の事務所で銃殺事件が起きるとはと、他に負傷者は出ていないようだが一度だけ顔を合わせた彼の愛娘と居候の少年の安否が律は気にかかっていた。しかし、映像の片隅に映し出された番組タイトルの下には、前年度総集編の文字がくるくるとモーション付きで踊っている。

『そういえば、去年の今頃でしたよねえ。夏葉原駅で爆弾騒ぎがあったのは』

 仕方ない、今日は安室が夜に家に寄ると言っていたし、その時にでも話を聞こうかと思いながら律は頬杖をつく。
 律が安室透、もとい降谷零の別宅に落ち着いてから既に二カ月が経過し、季節はまた春を迎えようとしている。思えば私もこの一年は激動だったなと、夏葉原リセットマン事件の映像が流れる画面を見つめながら律は自分の持つ唯一の一年間の記憶を掻い摘む。
 赤井には結局、再会出来てはいない。もとよりこうして居所を移ってしまったし、葉子に借りていたスマホは契約が切られて通じなくなってしまったため、連絡を待とうにも既にその手段さえない。蕪木とは相変わらず連絡が取れないし、何度か自宅へ足を運んだが彼はいつも不在で、そうして医院を張り込んでもみたがやはり接触は出来なかった。この部屋に持ち込んだ永倉の私物は安室がご丁寧にやたらとガムテープで封をしてクローゼットの奥深くに仕舞い込んでしまったし、強制的に遮断された赤井の記憶と、きっと彼にはもう二度と会えないのだろうなという諦念観に、律の中から僅かずつではあるが執着が薄らぎ始めていた。

『未だにPTSDに悩まれている方も多い。根深いですよ、この事件は』

 何より、新生活の慌ただしさは律を上手く物思いから解放させた。
 あの日、安室の運転する車の中で、律は彼の提案を甚大な不信感を持って聞いていた。家と職と通信手段を一挙に失った律に、それではとりあえず住む場所と連絡が取れるようにスマホを提供しましょうと、安室はそれが大変些細な問題でもあるかのように、にこにこと笑顔すら浮かべてそう言った。

 "ほとんど使っていない別宅があって。スマホもスペアが何台かありますし"

 ご自由に使っていただいて構いませんよと、まるで筆記用具でも貸すかのような手軽さである。なぜ使っていない賃貸の契約を続けているのか、なぜスマホのスペアなどを何台も所持しているのか、律の疑問は職業柄いろいろあっての一言で片付けられてしまいそれ以上は教えてくれない。渡されたスマホは最新型だし、案内された別宅は家賃の高そうな高層マンションの一角であるし、喫茶店のアルバイトをしているはずの安室の資金源が分からず、探偵業とはそれほど儲かるのだろうかと謎は深まるばかりである

『では時系列に沿って、当番組で取り上げた事件を振り返っていきましょう』

 そもそも、律はそこまで安室と懇意な間柄であったわけでもない。安室と律を繋ぐものは仕事の依頼ただそれだけであって、それ以上でも以下でもないどちらかと言えば淡白な関係性である。その安室が一依頼人の自分に自宅とスマホを差し出して、しかも家賃や使用料は一切要らないと言うのだからそれはおかしな話だ。親切過ぎて不自然である。
 これは確実に何か裏があるなと律は思ったが、しかし安室が一体自分に何を期待するのか律にはそれが分からなかった。記憶喪失で身元も分からないような女に恩を売った所で、何の見返りがあるとも思えない。それこそ何やら犯罪に利用されるのではと懸念してみても、やはり無償で家とスマホを引き渡す意味はないだろうとそこに戻ってきてしまう。まさか安室透は花井律に好意でも抱いているのではとも思ったが、安室にそんな気は更々ないようであるし、むしろ自分との間には越えられない一線のようなものを引かれている気さえする。そもそも犯罪者である永倉圭を追いかけている律の事を、安室はあまり良く思ってはいない。
 次々と映し出されていく過去の事件の映像を横目に、律の脳裏には、安室透の横顔がちらりと揺れる。
 しかし散散悩んだ挙句その口車に乗せられて、律はこのだだっ広い家に身を寄せる事を決めた。悩んだ所でもとより、律に選べる選択肢などはない。全てを失った律には、そうして自分に差し伸べられた手を、ただ掴む事しかできなかった。

『近年銀行強盗は減少の一途を辿っていたので、この事件には驚かされましたよね』

 不安視していた程に、しかし律の現状は悪くはない。
 ほとんど家に帰らないと言って毎日のように家に上がり込んでいた当初の赤井と違って、安室はその言葉通りこの別宅に帰ることは稀だ。ポアロのバイトと探偵業の二足の草鞋でとても忙しくしているようで、たまに律を食事に連れ出したり電話を寄越したりはするものの、生活の基盤は全くの別個である。いつか何かを事後請求されるのだろうと思いは捨てきれてはいないが、一度夕飯時に家に立ち寄った安室に料理を振る舞えばとても喜ばれて、たまにこうしてあなたの手料理を一緒に食べることができたら僕はそれで幸せですよと、一体お前は何処の聖人君子なのかと唖然とするようなセリフをさらりと言われてしまった。
 身元を調べる調べないの攻防はいつの間にか収束したようで安室は今は律の意見を尊重してくれているし、永倉の話さえ持ち出さなければ他に言い合いになるようなことはない。一時は人選を間違えたなどと思ってはいたが、路頭に迷うかも分からぬ瀬戸際で安室透に拾われた事は、傍から見れば恐ろしい幸運だったのではないかとすら今では思える。今日は家に寄りますとメールを寄越した彼に、ならお夕飯を用意しておきますねと、そう返信できる程度には安室と律の関係性は良好化していた。

『ああ、帝都銀行の。実はこの日近くの米花百貨店で買い物をしていたので、ヒヤッとしましたよ』

 来葉峠の事件は選抜から漏れてしまったなと、律はテレビのリモコンに手を伸ばした。
 安室に調べさせようと目論んでいたその案件を、律はまだ伝えてはいない。赤井の愛車であったシボレーの炎上、そうして同時期に失踪したまま戻っては来ない彼に、律は永倉の私物を安室に提供して警察で指紋の照合をさせようと考えていた。しかし安室とは永倉の話となると長い間膠着状態であったし、そうしている内に今度は律の方が引っ越しだ転職だ新生活だと、目まぐるしい毎日で二の次となってしまっていた。それに何より、いざそれを実現しようとなると、指紋が不一致であればいいがもしも一致でもしようものなら、律はどうしたって赤井の死を現実のものとして受け止めなければならない。まだ何度も何度も、赤井の留守電を繰り返し聞いていたあの頃の律にとって、それは自分で思っているよりもずっと辛いことだった。

「……え?」

 しかし赤井が姿を消してからもう半年だ、そろそろ潮時かもしれないと、電源ボタンを押下しようとした律の手からリモコンが滑り落ちる。
 テレビには、ちらちらとまだ雪の舞う数カ月前の帝都銀行強盗事件の映像が流れていた。一瞬、ほんの一瞬である。解放された人質の波の中に、彼は、映り込んでいた。一際高い背に、首元に巻かれたマフラーに、相変わらず目つきの悪い顔はキャップで目深に隠れてしまっているがそれでも、それでも律はその群衆の中から永倉圭の姿を見つけた。
 落下したリモコンが、けたたましい音を立ててフローリングにぶつかる。既に次の事件映像に切り替わってしまっているテレビを前に、律は随分と長い間、その場を動けなかった。

「あれ?もしかしてハルさん?」

 可愛らしい男の子が自分の名を呼ぶ声が聞こえて、律は帝都銀行前のベンチで項垂れていた頭をゆっくりと持ち上げた。
 あれから律は着の身着のまま、財布とスマホばかりを放り込んだ鞄を引っ掴み、慌てて東都環状線に乗り込んでいた。件の事件はもう何か月も前の出来事であり、今更現場に向かった所で律が赤井を見つけられるはずもない。しかし、分かっていながらも律は考えるよりもまず先に、安室の家を飛び出していた。逸る気持ちと衝動ばかりを、律は抑えきれなかった。
 帝都銀行強盗事件は真昼間の街中で発生した事件であり、野次馬も大変多かったようだ。ネットで検索すればすぐに複数の投稿映像がヒットして、目を皿のようにしてそれをひとつひとつ確認した律は幸運にも再びその中に赤井の姿を確認した。映像を停止して、拡大して、不鮮明なその画をじっと眺める。本人としか思えぬ程の瓜二つぶりで、違うことと言えばその右頬に広範囲に拡がる目立つ傷のようなものがあることだけだ。

「……あー、えっと、君は確か、」
「コナン。江戸川コナンだよ」
「そうそう、コナン君。久しぶりだね」

 何だ、あの男は生きているのかと、何か月かぶりに胸に溢れた安堵と共に、次には律は大変なショックに襲われていた。
 何があったのかその事情などを知る術はないが、灯台下暗しとはこのことで、赤井は律が数度足を運んだこの街を根城にしているのかもしれない。近くの百貨店に現れたならまだしも、彼が偶然巻き込まれた事件は目の前のこの銀行内で発生している。銀行など十中八九は自分の生活圏内でしか利用をしないはずだ。
 しばらく会えなくなるのではなかったのか、しばらく電話もできなくなるのではなかったのか、こうして律の住んでいた街の目と鼻の先にその身を置いておきながら、何をふざけたことをと律は思う。毎晩その扉が開くことばかりを期待して、玄関先でその帰りを待っていた。何百回と、赤井の遺言となるやもしれないその留守電を聞いては律はその答えを出そうと苦悩していた。それを何をあの男は、平気な顔で銀行などをふらふらとして、事件に巻き込まれて人質になどされているのだろう。
 血が昇った頭を解すように、律は己を髪をぐしゃぐしゃと揉んだ。

「そういえば、毛利さんのニュース、見たよ。大丈夫だった?」
「うん。事件は解決したし、事情聴取も終わったよ」

 コナンは言葉通り平気そうな顔で、律の隣に当たり前のように腰掛ける。
 彼は確か小学一年生だった気がするがと、さらりと事情聴取だなんて年齢の割に難しい言葉を口走ったコナンに律は感心する。あの日、毛利蘭にポアロで安室透を紹介してもらった日に、コナンが毛利の家に居候していることは聞かされていたが、まだ小さいのに親許を離れたコナンは少し大人びているのかもしれない。確かに見た目は子供だが、言葉を交わしている不思議ともっと年を重ねた大人と話をしているような気分にさせられた時があった。
 事務所のトイレも元通り綺麗になったしねと、身近で起きれば律はトラウマにでもなりそうな事件であるが、毛利探偵という殺人事件をいくつも担当している彼の許に居れば多少は感覚が麻痺するのかもしれない。それはそれで不遇なものだなと律は思わず顔を顰めるが、まあでもコナンや毛利蘭が無事であるならばと律は然程その事件には構わない。

「それより、ハルさんは?探していた人は見つかった?」
「ああ……うーん、まあ、ボチボチかな」
「……ふうん。安室さんでも梃子摺る人なんだ」

 コナンとの会話を疎かに、律の思考はもう既に、右頬に傷のある男の映像が瞬いている。
 引き攣ったその頬は火傷の跡のようにも見える気がするが、そうなればやはり赤井は例の来葉峠の事件と何か関係があるのだろうか。しかし、そのシボレー炎上事件ではその男の死亡は確認されているし、まるで辻褄が合わなくなってしまうだろう。ならば、やはり赤井とその事件は何の関係もなく、そうして何か別の事件や事故で彼は怪我でも負ったのだろうか、まさかそのショックで律のように記憶が飛んでしまったというわけでもあるまいしと、律の思考回路は考えれば考える程に収拾がつかなくなってくる。そもそも、その傷のある男が赤井その人である絶対の確証があるわけでもない。世の中には自分に似た人間が三人は居ると言われているし、もしかすると彼は赤井とは何の関係もない別人という可能性もある。
 やはり安室に調べさせるべきだろうかと、悩み始めた律の隣でそれを邪魔するようにしゃべり続けるコナンには、律はひとまず考える事を諦めて、キャプチャ画面を眺めていたスマホを鞄に仕舞いこもうとした。

「あれ?ハルさん、スマホ変えたの?」
「え?ああ、うん」
「……それ、安室さんと同じ機種だね」
「……あー。うん。実は、安室さんに借りていて」
「安室さんに?」

 普段の律であればそうそう真実などぺらぺらとは喋らないが、しかし相手は小学一年生の子供である。
 しかもコナンは安室の師匠である毛利探偵の預かっている子供であって安室とは懇意にしているだろうし、ここで律が適当な事を言って話が食い違ってしまっても妙だろう。そもそも律は絶賛混乱の渦中にあり、正直な所コナンとの話などいち早く切り上げて頭の整理をし始めたい。三カ月前にちらりと目にしただけの律のスマホなどよく覚えていたものだとか、思う所は色々とないわけではないが今はそれどころではない。
 何を見ていたのか、誰かの写真なのかと、多大な好奇心か何かに責付かれたように次は目の端に映ったであろう律のスマホの中身を気にし始めたコナンに、律の表情は強張っていく。

「何でもないよ。前にここで起きた銀行強盗の、」
「仮屋瀬さん」

 映像だよと、律の言葉がそう続くことは無かった。
 もう随分と慣れ親しんだその声は、まるで律を牽制するかのように頭上から降って来る。反射的に持ち上げた視線の先で、ラフな普段着の安室透は、律を見つめてにこりと微笑んでいた。

「安室さん?どうしてここに?」
「それは僕の台詞ですよ。米花町に御用でも?」
「……いえ、別に。気分転換です」
「……成程。コナン君も一緒だったんだね」
「……うん。僕は偶然ハルさんと会ったから」
「ハハ。僕だって偶然だけど」

 何やら珍妙なやり取りだなと思いながらも、律はこれ幸いとさっさとスマホを鞄に仕舞いこんだ。帝都銀行に辿り着いた時には、言っても米花町も随分広いしなと途方にくれた律ではあるが、こうして知り合いの二人と偶然出くわしてしまうのだから案外この辺りを張っていれば赤井まで手が届くこともあるかもしれない。かと言って闇雲にこの辺りをうろつくのも可笑しなものであるしと、赤井への怒りと焦がれが入り混じった雑多な感情に律は空を仰ぐ。
 安室とコナンの間の空気は静電気のような静かな反発力を孕んでいた。コナンの方は安室にそうして律との会話に横やりを入れられたせいであろうが、安室の方は大人げなくコナンにそうして当たる理由がない。おそらく米花町は犯罪率も高く危険な街であるから近付くなと再三言ったにもかかわらず、律がこうして意味も無くこの街をふらふらと彷徨っていたことに対する苛立ちだろう。本当の所は目的もなく歩いていたわけではないのだが、安室はまだ律の目的を知らない。帝都銀行は安室の働く喫茶ポアロから離れた場所にあるというのに、こうしてばったり遭遇するとはツイてはいない。

「用事が済んだのなら、ご自宅までお送りしますよ」
「……あ、はあ。どうも」

 ご自宅と言うか安室の家なのだがと、しかしコナンの居る手前そう言葉を濁したであろう安室に差し出された左手を律は掴む。やや強引に引っ張り上げられた身体は簡単に持ち上がって、やはりこの人は体温が高いなと、手の平にじんわりと直に伝わる刺激にあの日ポアロで似たように手首を捕まえられた事を律は思い出す。

 "必ずあなたの力になります。僕が必ず、その人を見つけ出しますから"

 事件映像の中に永倉圭と思しき人物を発見したと言えば、安室は何て言うだろう。その二つの達成が等号で結ばれるものであったらどんなに良かったことかと律は思う。
 安室透はまだ謎の多い人間ではあるが、それでも律の事情を知り今唯一頼れる人物であるし、そうして不自由のない居場所までをも与えてくれた人だ。友達も居らず話し相手すら居ない律を心配して定期的に連絡をくれるし、家に籠りがちな律を外へ連れ出しては遊ばせてくれる。あなたが望むのならば就職先の口利きをしますよとも、気が変わったのなら身元もお調べしますよとも、それを実現する手段が本当にあるのかどうか定かではないが言ってくれている。
 簡単にはその気持ちを無碍にすることはできない程度には、律と安室の関係は深度を増してしまった。あまり心配も迷惑もかけたくはないし、唯一縮まらない永倉の件でまた衝突もしたくはない。どうしたものかと、帝都銀行の入り口を後ろ髪を引かれる思いで一瞥した後で、律はベンチに座ったままのコナンを見遣る。

「じゃあ、またね。毛利蘭さんに、よろしくね」
「……ああ、うん。またね」

 また近々この街には訪れるだろうしと、そう別れの挨拶をした律にコナンはぎこちない笑みで手を振り返した。
 離す事を忘れている安室の手に律は引かれたまま、人気の少ない歩道を安室と並んで歩いていく。

「仕事は大丈夫なんですか?」
「ええ。思ったよりも早く終わったので。夕飯の準備はお手伝いできますよ」

 そうして夕飯のメニューを相談し始めた律と安室の背が遠ざかっていく様を眺めながら、ベンチに放置されたままの少年は一人、口許に手を当てて訝しげに見つめていた。傍から見れば恋人同士と言われても納得してしまいそうなその距離感に、少年が昔脳裏に過らせたはずの仮定が揺らぐ。
 後ろ姿が完全に見えなくなった所で、彼は徐に、ポケットから使い慣れたスマホを取り出すと、発信履歴を二、三、遡った。

「もしもし?昴さん?……少し、気になることがあって」

 一際強く吹いた仄かに花の香りを纏った風は、続く少年の言葉を辺りから掻き消した。
 出会いと別れの季節である春が、もうすぐそこまで近づいている。


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