#27

「退屈な会議だったな。議題の焦点が最後まで分からなかった」

 風見裕也は、躊躇いもなくそう愚痴をこぼした降谷零に、お偉方の耳にはいってはいないだろうかと冷や冷やしながら辺りを見回した。実を言えば風見も降谷と全くの同意見なのであるが、この人は本当に周りに遠慮がないなと、長い脚でさっさと廊下を歩いていくその背中を追いかける。
 昼時で皆出払っているのだろうか、本庁は人影も疎らでひっそりと静まり返っている。窓辺の向こうに見えた椿の木には、まだ固そうではあるがぽつぽつと蕾が付き始めていた。その様子にはふと、あれからもう一年近く時が経つのかと、上司に警察手帳を叩きつけたまま失踪した後輩の顔が思い浮かぶ。風見はまだ、彼女との邂逅を果たせてはいない。

「降谷さん、花井の調子はどうですか?」
「花井じゃない。仮屋瀬だ」
「す、すみません」

 花井律の発見からもう随分と月日は流れたように思うが、彼女は未だに休職中だ。直属の上司にも伝えておらず、律が記憶喪失で仮屋瀬ハルと名乗り生きている事実は、降谷の手で握り潰されている。
 風見には、降谷が何を考えているのかさっぱり分からない。律を巧みに篭絡したとされる永倉圭という人物が、非合法な手段で律をあのアパートに閉じ込めていたことを突き止めたのは風見である。DNA鑑定の結果、仮屋瀬ハルと花井律が同一人物であることも判明したし、風見は一刻も早く律を保護するべきだと思っていた。しかし、その後律に関する降谷の指示はぱったりと途絶える。何か不測の事態でも発生したのだろうかと不安に思っていれば、仮屋瀬ハルのアパートの取り壊しが決まっており、これは一大事だと風見は慌てて降谷にその報告をした。

「別に、元気にしているよ」
「……そうですか。記憶の方は?」

 しかし降谷は何故か、その報告を取るに足らないものでもあるかのように一蹴した。おかしい。あれだけ律に執着していた降谷ならば確実に何かしらの行動に出るはずだと思っていたのに、風見に放られた返事は、ふうん、というただの一言だった。ふうんじゃないだろうと、風見は珍しく引き下がらずにいたのだが、やはりどうにも降谷の反応が鈍い。花井律の記憶を失った仮屋瀬ハルなどどうでもよくなってしまったのだろうか、ならば自分の方で手を打ちましょうかと持ち掛けた所でようやく降谷は重い口を開いた。

 "心配ないよ。花井は今、俺の家に居るから"
 "俺の家に居るから?"

 風見は己の耳を疑って、思わずそう聞き返した。普段の降谷であれば、二度同じ事を言わせるなと叱咤が飛んできそうなものではあるが、その時の降谷はどうにも居心地が悪そうに風見から視線を外した。そうして追及を免れないと悟ったのか、風見にだけは話しておこうと決めたのか定かではないが、降谷は不本意そうに、しかし風見に白状した。結論から先に言えば、仮屋瀬ハルのアパートを潰したのは、降谷零その人である。

「相変わらず。自分の名前すら思い出さないよ」

 実は件のアパートはここ数年入居率も悪く、経営状態は好ましいとは言えなかった。辛うじて僅かな収益は出ていたものの、建設費の借入金の返済とトントンという状況であり、右肩下がりの現状には大家は将来的にどうしたものかと考えあぐねていた。例の仲介業者は永倉の違法契約の件で降谷達には頭が上がらず、そうして彼等がぺらぺらと話した実情である。
 そこで降谷は、大家に土地の売却を提案した。あの街はその周辺一帯も含め高齢化が顕著であり、単身者向けのアパートなどもとより流行らない。有料老人ホーム建設のために手頃な場所を探していた業者を降谷が引っ張り、そうして両者の間を実に上手く取り持った。独り身で身寄りもない大家は、誰に遺すわけでもない利益の出ぬ土地など買い手があるのであれば早々に売っぱらってしまいたかったし、借地を想定していた業者は、立地条件を大幅に満たしたその土地をしかも安く購入できるということで、交渉はとても円滑に進んだ。入居者には一般的な立退料の倍の金額が支払われ皆円満に退去したそうであるし、降谷は実に合法的に、かつ各々の利益に貢献した上で、大変穏便に仮屋瀬ハルのアパートを潰した。
 風見はその話に、目ん玉が飛び出るかと思った。一個人のために一個人が行う域を、遥かに超越している。風見は今までに何度も降谷という人間を怖いと思ったことがあるが、今回は殊更強烈だ。凄まじい執念である。

「俺も君も、忘れられたままだ」

 確かに不幸は重なった。律が夏葉原の事件で過去を失ってしまったことも、永倉圭という犯罪者に拾われて彼に執着してしまったことも、降谷が別人として彼女に再会してしまったことも、恐るべき運命の悪戯だ。捩じれた糸は複雑に絡まり合い、どの糸を引けばどこに作用するのかそれすら当たりをつけるのが難しかった。
 だから風見は、ひとまず律をその異常な環境下から遠ざけたい降谷の意見には賛同した。記憶を教える前に、安室透が降谷零だと教える前に、まずは正常な生活に戻してやることが先決だった。永倉圭に固執するその心を和らげる前に下手に刺激すればこちらに敵意を向けかねないし、その不安定な精神状態でパニックでも起こされたら治療はより困難を極めるだろうと思ったからだ。
 しかし、律をその異常環境から引き剥がしたはいいが、そうして何故か降谷零が動かない。それどころか仮屋瀬ハルと安室透の癒着が深まるばかりで、その絡まりあっていた糸に無理やり捻じ込まれた安室透というより厄介な糸が、余計に事態をややこしくしてしまっているように風見は思う。一体いつ次の段階へ駒を進める気でいるのだろうと、風見はそればかりが気がかりだ。

「大学時代の知り合いに、記憶の疾患に実績のある精神科医がいます」
「精神科医?」
「はい。一度、花井を診せてみませんか?」
「だから、仮屋瀬」

 降谷はそうしてまた律の名を訂正すると、足を止めてエレベーターのボタンを押した。風見の提案には答えを寄越さないつもりだろうか、己の解法が間違っているのだろうかと、瞬くエレベーターのボタン点灯を目で追っている降谷の横顔を風見は眺めている。
 当初の降谷は、まだ律の記憶の回復に関心があった。それとなく律にその過去を仄めかす話をしてやったり、律が良く出掛けていた街へ連れて行ったり、そうして裏では暇さえあれば記憶喪失に関する文献や症例を調べていたはずだった。それが日を追う毎にその頻度が減って、そうして何故かいつの間にか、ぱたりと止めてしまった。

「思い出せないのなら、こちらから話してやっては?」

 降谷は律を異常な環境下から解放したと思っているだろうが、仮屋瀬ハルと安室透の関係もまた随分と歪だ。降谷の行いを第三者の目で見れば、その過去を知りながら別人として接し、思うがままに自分に都合の悪い障害を排除して、そうして彼女を自分の手元に匿っているわけである。永倉圭と大差ない、下手をすれば人権問題にさえ発展しそうな案件だと風見は思ってしまう。
 だからどうしたって、降谷はやはり、彼女の記憶の回復に努めなければならない。いくら本人が過去を知ることを拒もうとも、そうしてこの先の人生をずっと己を偽ったまま生きていくことなのできないのだ。まさか彼女の要求を鵜呑みにするわけでもあるまいしと、風見の視線の先で降谷はポケットから取り出したスマホを操作し始めている。
 数秒後、やや重たく、その唇は徐に開かれた。

「記憶を取り戻してやらないといけないだろうか」

 ―記憶を取り戻してやらないといけないだろうか?
 降谷の言葉が、呆気にとられた風見の頭の中で反芻する。頭のネジが一本どころか十本は吹っ飛んでしまったであろうその発言に、風見は露骨に眉間の皺を深めた。
 確かに最近の降谷は律の記憶の奪還にはまるでやる気がなかったのだが、そうして口に出されてしまうともう後戻りはできない。風見にはその理由が露ほども分からないが、降谷零は花井律の過去に蓋をしようと目論んでいる。

「……、それは、どういう意味ですか?」
「……言葉通りの意味だけど」

 降谷は何食わぬ顔で、スマホを一度タップした。
 風見は思わず、降谷を頭の天辺からそうして足の爪先まで、視線でなぞる。傍から見た感じではいつも通りの降谷零ではあるが、降谷はいつ見ても大体いつも通りであり、風見が露骨にその調子が可笑しい事に気付いたのは彼が律に再会した時くらいものだ。
 平静を装ってはいるが頭の具合でも悪いのだろうかと、そのまま口にでもすれば視線で殺されそうだなと思った風見は、遠回しに言葉を置き替える。

「降谷さん。最後に寝たのは何日前ですか?」
「……別に、疲れてなどいないよ」
「いえ、疲れています」
「……、だから、」
「疲れているということにしましょう」

 強引な風見の言い分には、降谷はようやく、風見をちらりと一瞥した。しかし次の瞬間にはもう、降谷の関心は手元の画面に戻っている。
 思えば、降谷が疲れていないはずなどないのだ。結局降谷は律の件をほとんど一人で収束させてしまったが、その間風見がその行動に気付けなかったように、降谷は他の業務を一切疎かにしてはいない。降谷零として公安の仕事をこなし、安室透として喫茶店のアルバイトをこなし、バーボンとして組織の任務をこなしている。サイボーグが何かなのかとさえ疑うような働きぶりである。
 そうして律が花井律ならまだしも、仮屋瀬ハルに安室透として接しなければならない降谷には、心の休まる時などないはずだ。降谷があと二人程居てくれたのなら降谷も少しは楽になるのだがと、ここ最近疲れ気味の風見の思考回路も少々故障気味である。

「近くに美味いカツ丼屋があるので、一緒に昼食でもどうですか?」

 兎にも角にも、降谷は疲れているのだ。だからそうして、気の狂ったような事を口走ってしまうのだ。
 ああ、そうだなと、大変興味なさ気ではあるが、一応の肯定の返事を寄越した降谷には風見はホッと胸を撫で下ろす。律の今後については要話し合いであるが、身体が資本だと常々言っているはずの降谷にまずは、栄養のあるものでも食べさせて、充分な睡眠をとらせ、そうして少し休息させた方がいい。律に引き続き降谷までをも失ったら、風見はもう目も当てられない。
 幸運にも、午後に予定されていた会議はリスケになり、久し振りに降谷に空白の時間が出来ていた。急ぎの案件を抱えてはいないし、今何か急な仕事が舞い込んだとしても、風見は降谷には渡さないつもりでいる。偶には徹底的に降谷から仕事を排除しようと、慎ましい部下の配慮には、しかし隣で上司の表情が俄かに歪む。

「……米花町?」

 不穏な単語にぴくりと風見の目の端が痙攣する。反射的に見遣った降谷のスマホの画面に、風見は嫌な予感がした。
 あれは公安御用達の追跡アプリだと、思うや否や風見の脳裏にはその対象の人物が思い浮かぶ。なるほど、確かにまた失踪でもされたら叶わないし、そうして監視下に置く事に利点がないわけではない。しかしその不安な気持ちは風見も良く分かるが、おそらく彼女はそれを知らされてはいないだろうし、どうにも行動が犯罪染みてきたなと風見の表情は次第に曇っていく。

「悪いな。急用が出来た」

 風見に開口を許さず、降谷の目つきは既に変わっていた。
 到着の遅いエレベーターを待ちきれずに、降谷はスマホをポケットに突っ込むと、足早に階段へ向かって行く。風見はカンカンと降谷の靴が床を蹴る音を背後に聞きながら、これなら議題の焦点が分からぬ会議に出席させておいた方がその心身が休まったのにと、不謹慎な事を考えていた。
 あの男は、一体彼女をどうしたいのだろう。降谷の狙いの焦点が、風見にもまるで定まってはいない。


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