水曜日のメロドラマ(降谷)

「今日は水曜日だった」

 ぽたぽたとまだ水の滴る髪のまま風呂場から戻った律に、降谷は驚いて書物のページを捲ろうとしていた手を止めた。
 仕事帰り、まだ降谷が人間らしい生活を送っていた頃、まだ律の父親が生きていた頃、降谷はこうして度々花井の家に足を運んでいた。誠一郎からはなかなか家に帰れない自分の代わりに律の相手をしてやって欲しいと頼まれているし、降谷がメールを一本送れば律は健気に夕飯を準備して待ってくれているわけで、降谷は自宅よりも居心地の良いこの家に帰ってきてしまうことが多かった。
 そうして夜は、他愛もない話を繰り返したり、律の学校の課題を見てやったり、隣に並んでテレビゲームに興じたりする。仕事でずっと気を張っている降谷にとって、律と過ごすこの何気ない時間は、とても大切な安らぎだった。

「髪、濡れてるけど」
「うん。でもドラマ始まるから」
「すぐに乾かさないと傷むだろ」
「うん。でもドラマ始まるから」

 馬鹿の一つ覚えみたいにと、降谷は隣に座ってテレビのリモコンに手を伸ばす律に溜息を吐いた。水気を切ることすら疎かにされた髪から流れた水滴は、律の薄っぺらいパジャマをしとどに湿らせていく。思えば律が風呂に向かったのはついさっきのことで、どうせゆっくりとその身体も温めてはいないのだろう。今日は折角、律の気に入りの入浴剤を入れてやったのにと降谷は機嫌を些か斜めらせて、始まったドラマの映像に齧りついている律を横目に席を立った。
 洗面所の棚から使い慣れたドライヤーを引っ張り出して、確かこの辺りにと、引き出しをふたつ程開けた所で延長コードを見つける。ふわふわとまだ辺りに漂う微熱と石鹸の香りには、今日はこのままこの家に泊まっていこうかなどと、思わず甘えたことを考えながら降谷はリビングまでの道のりを歩く。

「わ、やだ、前見えない」
「十秒だから我慢しな」

 放り投げたタオルは律の頭にボサリと落下し、まるで仔犬か何かのようにその中でふるふると小刻みに左右に振れる頭を、降谷はタオル越しに掴む。がしがしと雑な手付きでその乾いた生地に水を吸わせれば、律は心地が悪いのか身じろいだ。
 世話の焼ける妹でも持った気分だと、降谷は思う。実際の所、他の男がこうでもしようものならあの親バカが黙ってはいないだろうし、そもそもこうして遅い時間に彼女一人の自宅へ降谷のような若い男を引き入れることすら良しとはしないはずだ。どうもこの能天気な花井親子は、降谷を昔からの馴染みの身内か何かだと勘違いしているように思えてならない。降谷がそう呆れ返る程度には、誠一郎の降谷に対する信頼は格別に厚いし、律も大変良く降谷に懐いている。

「暑いから冷たい風がいい」

 ようやく頭からタオルが離れた律は一瞬表情を明るくしたが、降谷が次に持ち出したドライヤーを目にすると頬をひくりと歪めた。
 私はドラマが見たいのにと呟きはしたが、しかし降谷がやると決めたことを遂行しなかった試しがないことを律は経験則から分かっているようで、静音モードで静かにその髪に風を当て始めた降谷に、律はそうささやかな要求をしただけだった。
 全く手のかかると、降谷はやはり呆れながら、手元のボタンを切り替える。リクエストが上手く受理されたことに気を良くした律はそれ以上降谷に文句を言うことはなく、なされるがままにそうしてまた、テレビの画面に視線を戻す。ありきたりなドラマの台詞が、静かな室内に流れ始めた。

「ドラマ好きだっけ?」
「あんまり。でもこれは学校で流行ってるから観てる」
「ふうん。どういう話?」
「ラブストーリーだけど……あ、この人。この女の人が事故で記憶喪失になるの」

 律は画面の中の女優を指差して、ドラマのあらすじを話し始める。
 何てことは無い、事故で記憶を失った女に恋人が出来たが、本当は過去の自分には別に愛した恋人がいたことを知ってしまうという、まあ使い古された設定だ。そもそも降谷はドラマなど見ないし、たまに気晴らしに足を運ぶ映画館ですら、ラブストーリーなどは選ばない。他人の恋愛模様などを垣間見て一体何が面白おかしいのだろうかと、降谷は大変疑問に思う。
 もともと恋愛に苦悩する性質ではないから共感などできないし、世の中に転がっている恋愛の多くはもっと淡白で身軽なものだ。誠一郎はこうして家庭を持ったが、降谷は公安の仕事に人生の全てを捧げるつもりでいる。だから降谷にとっては恋愛など仕事のツールとして利用することはあっても、降谷零として身を滅ぼす程の障害に成り得るわけもなかった。

「今彼が一歩リードしてるから、元彼を応援してるの」
「それなら次は元彼がリードするよ。俺が脚本家ならそう仕掛ける」
「いいの。そしたら今彼を応援するから」
「……、お前は本当に思う壺だな」

 湿気を飛ばして軽くなった髪の先が、ふわりと宙に靡く。細く柔らかい髪の束は降谷の指から零れては流れ、零れては流れていく。さらりとして気持ちが良いなと、降谷は無駄に何度も何度も律の髪を梳いた。
 時折覗く白く細い首はどうにも降谷の目に眩しくて、また少し髪が伸びたなと、降谷は視線を逸らして言った。そうかなあと、律は頬にかかった髪を一束持ち上げると、不思議そうにその毛先を眺める。

「零君、美容師さんみたい」
「……、お客様、乾かし足りない所はありませんか?」
「ありませんが、続けてください。とても気持ちが良いので」
「ハハ。何だよ、それ」

 打って変わってご機嫌な様子の律には、手元のボタンを切り替えて熱風を当てた。ぎゃあと突然の暴挙に可愛げのない悲鳴を上げた律は、驚いて身体を跳ねさせる。甘やかすとすぐに調子に乗るからなと、降谷はその様子を鼻で笑いながらドライヤーのスイッチを切った。
 剥れた様子の律を放ったまま、ドライヤーのコードをくるくると本体に巻き付けていく。しかしどうにも癖になりそうだと、まだ右手に残ったままの冷えた熱と心地の良い感触を思い出して、ぎゅっとその拳を握り締めた。週に一度くらいはこうしてまた、彼女の髪を乾かしてやるのもいいかもしれないなんて、三秒前の言葉とは裏腹に降谷は既に律を甘やかす気でいる。

「あ、」
「うん?」
「本当に、元彼がリードした」
「ほらな。そうだと思った」

 しかし降谷にとって唯一の安らぎである律との時間が守れるのならば、降谷は仕事では決して見せない甘い顔をいくらでも曝け出してやるつもりでいる。
 それで今度は今彼を応援するんだっけと、別に何の興味もない質問を投げながら降谷は律の神妙な面持ちを横目に画面を眺めていた。降谷がいくらそうしてこの場所を守っても、しかし律は、彼女はそうしていつかここから出て行ってしまうのだろうか。降谷がいくら甘やかしても、そうして誰とも知らぬ男の手を取って、結婚でもして家庭を持って、そうして降谷と過ごした時間など過去のものとして、生きていくのだろうか。
 画面の中で今彼を振り切り元彼の手を取った女の様を眺めながら、降谷は何故か、今まで考えた事もなかった未来について思いを馳せている。

「どうかなあ。やっぱり元彼を応援しようかなあ」
「へえ?どうして?」
「だって、やっぱり悲しいよ」

 恋人に全てを忘れられちゃうなんてと、誰を想っているかも知れない瞳が切なげに揺れた事に、降谷は僅かに動揺した。
 この場所に留まる事を決め込んでいる自分と、前に進んでゆく律は違う。まだ恋愛のれの字も滲ませないと思っていた律だって、すぐにそうして大人になって、きっと誰かに恋をする。
 記憶喪失など寂れたメロドラマの定番だよと、しかし今の降谷にはその言葉がどうしても吐き出せない。きっとそうしていつの日か、律は降谷の事を忘れて生きていく日が訪れるからだ。

「……そうだな。俺も悲しいよ」

 珍しく降谷の口から零れた弱音に似たそれには、律はゆっくりと降谷を振り返った。
 心配そうに揺れる律の瞳に、降谷は眉を下げて哀しく笑う。テレビから垂れ流された恋人への愛を囁く台詞が、二人の間に妙な温度を含んだまま浮遊していた。


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