檸檬会議(安室&沖矢)

(reset#63読了推奨ですが、あまり時系列を定めていません)

 ――檸檬の旬はいつでしたっけ?
 事の発端は、花井律のその迂闊な一言に遡る。

「花井さんはドリンクは何にされますか?」

 ある晴れた日曜日の昼下がり、降谷宅のリビングで読み終えた短編集を閉じると律は藪から棒にそう尋ねた。まさにその果実の色を切り取ったかのような鮮やかな栞は反動でひらりと床に落ちて、質問の意図を掴みかねたまま降谷は神妙な面持ちでそれを拾い上げる。
 久方ぶりの、穏やかな時間が流れていたように思う。仕事の予定が急遽変更になった降谷は夜まで時間が空いて、読書に耽る律の隣で手持ち無沙汰のその時間をポアロの新作メニューの考案に充てていた。それは本当に潜入捜査官の降谷の職務なのだろうかと律は今でも不思議に思うが、どうやら料理好きの降谷にとっては良い気分転換になるようだからあえて口を挟む事は無い。だから律は、その作業に干渉するつもりは微塵も無かったし、別段その答えを知りたかったわけでもない。たとえばそうして読了後のまだ夢現のひと時に、物語のモチーフに想いを馳せる僅かの時間が律は好きだった。
 ――檸檬ねえ。降谷は書きかけのレシピノートの端をペン先でトントンと叩きながら、ふとその動作を止める。隣町の喫茶店に気になっていた檸檬ケーキがあったなと、律の質問になど更更答える気のない降谷は爽やかな笑顔でそう言った。

「花井さんはカフェオレですよ」

 しかしながら、律は存外にご機嫌であった。特別愛着があったわけでもないありふれたその果実が途端にやたらと愛くるしく、ぱっと心が華やいでゆくのが分かる。
 テイクアウト用に出入口付近のショーケースに整然と陳列されたその洋菓子は、見れば見る程に美しかった。拳大の紡錘形に一切の淀み無くかかるグラスアローは、つるりとした光沢を纏い輝いている。その聖域に大胆に隊列を許された檸檬のコンポートとピスタチオの粒は特に目の覚めるような色彩感で、可憐さと気品を伴って律の心を次第に魅了していく。
 ひとつ風見に買って帰ってやろうと、同じようにショーケースの中身を眺めながら隣で降谷は悪戯っぽく笑った。その様には何の変哲もない檸檬をそっと懐に忍ばせた男の妙な高揚感を思い出すようで、書類の山の頂に設置された黄金色の檸檬に眉を寄せる風見の姿が脳裏に浮かぶ。やや悪質な、その企み。しかし律もあえてそれを指摘する事なく、可笑しそうに笑うばかりである。
 どうやら降谷も、機嫌が良いようであった。米花町から遠く離れた人気の無い小さな喫茶店の隅でならば、降谷も安室透の皮を被り周囲を警戒する必要が無く羽根を休められるのだろう。
 窓辺の席にしましょうかと、律は日差しで明るい二人掛けのソファ席を指差しながらそう言った。同時に背後で、カランカランと来客を知らせるドアベルの音が軽やかに鳴る。反射的に振り返ったふたりの笑顔が、その時、凍った。

「君にではなくて、彼女に聞いています」
「彼女は店ではいつもカフェオレしか頼まないんですよ」

 何をどう間違えて、こうなってしまったのだろう。
 左側から丁寧に差し出された藁半紙のメニュー表は、右側から伸びて来た腕に雑に当人に差し戻される。

「たまには気分を変えてみては?この店は水出しのアイスコーヒーが評判ですよ」

 円卓会議という言葉がある。対立構造にある者同士が歩み寄りの道を見出すために懇談的な意見を交換する会議であるが、出席者は上下関係や席次の差別を無くすためにフラットな丸テーブルを囲むのである。しかしながら最初から歩み寄ろうなどという意思が無く、人数オーバーという機械的な理由で円卓を囲まざるを得なかった彼等にはその平和的象徴など何の意味も無い。大人げないとしても、どうして着席をする前に席順について話し合わなかったのだろうと律は頭を抱えたくなる。
 期間限定の蜂蜜フレーバーも食べてみたいねと、楽しそうにシェアの相談をする蘭と園子を律は恨めしそうに見やった。出来る事ならばこの殺伐とした空気を醸す両隣からそっと脱け出して、律も微笑ましい女子高生らと楽しくメニューを選びたい。

「折角なので、花井さんも僕とシェアしましょうか」
「両方オーダーすれば良いでしょう?あなたは食べ残しでも食べて差し上げたらいかがですか?」
「……ですから、君にではなくて、僕は彼女に聞いています」
「彼女は断れない性格なので、僕が代わりに答えてあげているんです」

 赤井秀一、もとい沖矢昴の居候先である工藤邸は毛利蘭の恋人で幼馴染の実家である。ひとりで管理するには広すぎるその洋館を、時折蘭が園子を誘って掃除を手伝っている事を律は赤井から聞いていた。どうやらその御礼に赤井が二人をお茶に誘った所、以前から気になっていたが足が無く諦めていたこの店の檸檬ケーキを強請られたらしかった。
 しかしこちらは不運などではなく、紛れもない人災である。黙っておけばいいものを、店先でバッタリと出くわし狼狽える律に向かって赤井は「驚きました。実は貴女もお誘いしていたのですがメールは御覧になっていませんか?」と、慈悲も無い笑みを浮かべて律宛の送信済みのメール画面をわざわざ見せて寄越したのである。
 何故そうも露骨に喧嘩を売るのか、そうして何故そうも簡単に喧嘩を買うのか。途切れる事のないふたりの冷めた口論に溜息をひとつ、律は通りがかりの店員を呼び止めると勝手に注文を通した。

「じゃあ安室さんと花井さんは、ポアロの新メニューの参考にこの店へ?」
「ええ。彼女は料理が得意なので、たまにこうしてリサーチに付き合ってもらっているんです」
「なあんだ。もしかしたらデートかもねって、蘭と話してたのに」
「ハハ、違いますよ。あくまで僕達は探偵とクライアントの関係なので」

 やや言い訳がましい口調ではあったが、何の疚しさも孕ませない安室の純真な笑顔を女子高生二人組が疑う事はないから流石である。よもや公安警察である降谷零とその元部下である花井律の関係が簡単に周囲に露呈するとは思わないが、その唯一の綻びとなるやもしれない安室透と花井律の関係は淡泊であるに越した事は無い。しかしながら念を押すように同意を求める降谷に返事をしようとした律より先に、薄ら寒い声音が目の前を横切ってゆく。
 ――へえ、違うんですか?と、明らかな悪意の滲むじとりとした赤井の視線は、怪訝そうに眉を寄せる降谷のそれとぶつかった。

「レモンケーキは、フランスではウィークエンドシトロンと呼ばれる伝統菓子ですからねえ。週末に大切な人と食べるケーキと言われている事をご存じだったのでは?」

 珍しく、赤井の機嫌は最高潮に悪いようだった。そのエピソードに可愛らしく盛り上がる蘭達とは見えない一線を画して、こちらサイドの空気は爛れたように淀んでいる。
 もともと、律は昨晩赤井と交わしていたメールで、今日は予定も無く家で暇をしていると話してしまっていた。恐らく赤井はその事情を汲んで律を誘っただろうに、そのメールにすら気付かずあろうことか天敵の降谷と二人で出掛けているのだからこうして拗れるのも当然かもしれない。予定外の外出であり律は嘘をついたわけではないのだが、赤井の事だから降谷が何かまた妨害工作を仕組んだとでも思っているかもしれないし、不幸な事に以前から赤井を忌み嫌っている降谷のその態度も関係の悪化に益々拍車をかけている。

「深い意味はありませんが?そもそもレモンが食べたいと言い出したのも、小説に感化された花井さんですし」
「ホォー、それはそれは。僕のお勧めした本を楽しんでいただいたようで、嬉しいです」
「……何だって?あなたまさかあの本はこの男から借りたんですか?なぜ?いつ?」
「別に良いでしょう?あなたと違って、僕と花井さんは友人なんです」

 しかしこれではまるで子供同士の喧嘩だなと、虚ろな眼差しで律は遠くを仰いだ。そもそも檸檬ケーキを食べに行こうと言ったのは降谷の方だし、気付かぬ内に人の鞄に勝手に本を忍ばせたのは赤井の方だ。似た者同士話し合えば案外分かり合える部分もあるのではと、とてもではないが律は言い出せない。
 店員がひとつひとつ丁寧な動作で配る皿に乗った焼き菓子は変わらぬ美しい佇まいであるのに、もう当初のように律の心を躍らせる事は無かった。思慮分別。その花言葉を持つ、皿の端に上手くあしらわれた白いレモンの花弁を、彼等に分け与えてやった方がいいのではとすら考えている。

「その小説ってどういうお話なんですか?沖矢さんのお勧めならミステリーとか?」
「何言ってるのよ、蘭。ラブストーリーに決まってるじゃない。レモンは初恋の味なんだから」

 一言の発言すら許されぬ円卓の一席で、甘酸っぱくもほろ苦い檸檬の香りばかりが転がっていった。大して飲みたくもなかった檸檬スカッシュの微炭酸は、ぱちぱちと咥内で弾けて喉の奥へ落ちてゆく。ああでもないこうでもないと黄色い声を響かせる娘たちと、ああ言えばこう言う冷戦を繰り広げる男たちの狭間で、結局檸檬の旬はいつなのだろうと律はそればかり考えている。
 不思議とそうしていると、行儀良く皿に乗った檸檬ケーキが輝きを取り戻すようだった。周囲の騒音がふっと途切れたような気がして、途端に波のようにこの身に押し寄せる期待感は不可解な程に晴れ晴れとしている。律はそれを不気味に思う一方で、しかしどうしても、為さねばならないような衝動に衝き動かされていた。

 ――成程、これが僅かの刺激で見るも無残に弾け飛ぶのだとしたら、私は。

 誰かが呼んだ律の名が、当人の耳にばかり届かない。まだ色濃く残る物語の余韻に思慮分別の欠けた想いで、律は沈黙する黄色の爆弾に銀のフォークを突き立てた。

(ご参考まで。1925年「檸檬」梶井基次郎。)


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