#02
 花井律は、東都の街を宛てもなく彷徨っていた。
 春の陽気と言えど、陽が落ちる頃になれば風は冷たく肌寒い。せめて上着を引っ掛けてくれば良かったと思いながらも、しかし、熱の籠った自身の頭を冷やすには丁度良かったのかもしれないと思い直す。外苑沿いに咲く桜は若干見頃が過ぎてしまっているが、道を行き交う人々は花見目的で賑やかであり、どうにも居たたまれなく律はメインの通りを外れた。

「また、やっちゃった」

 後悔の言葉は誰の耳にも届くことは無く、コンクリートの道路に吸い込まれて行く。
 上司である降谷零に対する暴挙は、これで三度目となる。前回、もう二度としませんと降谷に誓い頭を下げたはずが、早々に何故か記録更新を遂げてしまった。その場で即座に謝れたならまだ挽回の余地はあったものの、あろうことか以前と同じ捨て台詞を吐いて逃走を選んでしまった。
 だって、怖かった。まさか勢い任せに放り投げた警察手帳が降谷の顔面を目掛けて飛んでいくとは思わなかった。決して狙ったわけではない。狙ったわけではないのに、あの時の降谷の顔には私に対する殺意が浮かんでいた。仏の顔は三度までとはよく言ったものであるが、降谷の顔は二度が限界なのだろう。彼はもうきっと私を許さない。

「……向いてないのかな」

 立ち止まり、目の前に鎮座していた小石を蹴っ飛ばす。建物の壁にぶつかった小石はすぐに勢いを殺して、大して離れてもいない場所にまた転がった。
 その様に律は小さく吐息し、再びローヒールの音を鳴らし出す。このままこの靴が、降谷の居ない世界へと運んでくれたらいいのに。

「昔は優しかったのにな……降谷さん」

 律は降谷を嫌っているわけでは決してない。むしろ幼い頃は、父の仕事の同僚であった降谷に、恋心にも似た憧れを抱いていた事すらある。零君、零君と、律はとても良く降谷に懐いていたし、降谷も律をまるで本当の妹でもあるかのように甘やかしていた。
 今ではもう、あの頃の記憶は全て幻だったのではないかと疑いたくなる程に、降谷は律に対し辛辣である。
 分かっている、分かっているのだ。降谷が厳しいのは、私が降谷の要求するレベルに到達できていない証拠だと。それを他人の所為にして、クソ上司などとぼやいているから、精神的に未熟だなどと言われてしまうのだ。

「帰り、電車?」
「うん。東都環状線」

 信号待ちをしていると、目の前のカップルがそう仲睦まじく言葉を交わした。
 降谷の言う通り、転職でもした方がいいのだろうか。そうして定時で上がれる仕事について、恋愛でもして、結婚して家庭でも持った方が幸せなのだろうか。ぼんやりと人の波に押されるようにして、信号の変わった歩道を律も歩き出す。
 一度目に手帳を投げつけた時は、その足で空港に向かい大阪行きの便に乗った。二度目に手帳を投げつけた時は、その足で夜行列車に乗り込み北海道を目指した。別に何の目的があるわけでもない。どうも自分は、交通機関での移動によって頭を冷やそうとする癖がある。

「あ、」

 しかし、はたと思い当る。
 何せ今回は会議中の出来事であった。財布はおろかカードの一枚すら持ってはいない。

「えー……」

 慌ててスーツのポケットをまさぐってみたものの、出てきたのは、小銭がたったの七百六十円分である。
 しかもそれは、先ほど自販機の前でばったり出くわした降谷に、無理やり奢られた飲み物代のつり銭であった。釣りはやる、いりません、とっておけと言っているだろう、いりませんと、何度か交わしている内に降谷の堪忍袋の緒が切れそうになったため、とりあえずポケットに突っ込んだだけだ。たいへん癪に障るため後で突っ返そうと思っていたのだが、件のくだりでそれどころではなくなってしまった。

「…………」

 律は、思わず足を止めて手中の小銭を見つめる。
 使いたくはない。何が悲しくて降谷から逃げるために降谷の資金を使わなければならないのだろう。決して使いたくはない。しかし意地を張ってみても、この七百六十円が無ければ私は一文無しだ。このままではのこのこ来た道を戻って、君は馬鹿か?と降谷に笑われるのが関の山だろう。
 背に腹は代えられないと、律はぎゅっと拳を握り締める。

「え?今日って雨だっけ?」
「天気予報見てないの?」
「やだー。折りたたみ持ってたっけ?」

 人ごみに紛れて、律は東都駅に向かう。
 東都環状線は一周約一時間。乗車券は五百円程度で、再び東都駅に戻って来ることが出来る。
 辺りはまだ明るいが、じわじわと急速に生まれる湿気は豪雨を予感させる。ちらりと空を眺めた律は些か顔を顰めた後で、コンビニに入り百円の傘を購入した。

『十四番線に、電車が参ります』

 ホームで電車を待つ人の列は短く、案の定到着した車内も程よく空いていた。
 辺りを見回して人の出入りの少なさそうな端の三人掛けを見つけ、空いていた左端のシートを選んだ。一席分の間隔をあけて、右端のシートには既に、ニット帽を目深に被った長身の男性が座って居た。両腕は固く組まれており、やや前掲した頭部と閉じられた瞼を見れば、うたた寝の最中かもしれない。
 律がなるべく音を立てないように静かに席に腰を下ろすと、丁度扉が閉まり、電車は程なくして次の駅へ向けて発車した。

『次は徳浜町〜徳浜町〜』

 久し振りに聞くアナウンスが、車内に響く。
 マイカー通勤の律は、普段は電車を利用しない。しかしあと十五分も乗車していれば、この電車は律の最寄り駅に到着する。律儀に警視庁などに戻らず、今日はこのまま帰宅してしまってもいいのかもしれないと、自宅の鍵すら所持していない律の杜撰な目論みはすぐに破綻した。
 せめて、スマホぐらいは持って出るべきであっただろう。連絡手段は必ず携行するようにと降谷に口を酸っぱくして言われてきたにもかかわらず、それは今私のデスクの上で鋭意充電中である。降谷にバレたらまた大目玉をくらうだろうか、いや、もう既に、彼は私の事など見放しただろうか。

「あ」

 車窓を、大粒の雨が叩いて、流れる。
 次第にポツポツと数の増えていく雨粒に、律は露骨に嫌な顔をした。

 "君はこの案件からは外れた"

 降谷が何でもないような世間話に似た口調で放った命令が、頭の中で反芻する。
 降谷のチームを降ろされたわけではない。そうではないが、大本命である例の組織の案件から外れるとなれば、チームを降ろされたも同然と言っていい。
 一体、何故。詳細さえ既に私の所まで下りてきてはいないが、あの案件はこれからひとつの山場を迎えようとしている。降谷も、降谷の周りの人間も、今までの比ではない程仕事に忙殺され、かつ身の危険も増えることだろう。チームに貢献できるだけの力は蓄えたつもりであったし、それを発揮できる土壌も整えてきたのだ。それを、一体、何故。
 律には、降谷の考えている事が分からない。まさか、本当に私の精神が未熟だからとでも言うつもりだろうか、あの男は。

『徳浜町〜お出口は右側です』

 到着の合図と共に、車体は大きく揺れ、律は慌てて近くの手すりを掴む。
 しまったと思った頃には、もう遅い。視線の先で、スローモーションで倒れ行くビニール傘は、反射的に伸ばした右手をすり抜ける。思わず両目を瞑った律の耳には、思った以上に大きな衝突音が届いた。
 ああ、今日は何て日だろう。泣きそうになりながらも、律は恐る恐る瞼を持ち上げる。視界の端に映った傘は、隣で安眠していたはずの男の脚を直撃していた。

「…………」
「…………」

 開ききった扉から流れ込んだ湿気た空気と、ホームに鳴り響く電車の到着を知らせる愉快な音楽が、沈黙する二人の間に滞留する。男は表情を変えぬまま、その瞳ばかりがしかと開かれて、傘には目もくれず律をただ真っ直ぐ見つめていた。
 何と澄んだ瞳だろうと、律は思った。淀みひとつ無いその美しい眼差しをいつまでも眺めていたいような気にさせられて、どうにも男から目が逸らせない。
 どれ程時が移ろいだろうか、小さく届いた発車のアナウンスに律がハッと我に返ると、同時に電車はゆっくりと加速していく。

「あ、あの……ご、ごめんなさい」

 全身からやっとのことで絞り出し、蚊の鳴くような声で律は言った。
 別段小心者というわけではないのに、その時確かに律は男に対して恐怖した。つい先ほどまで弛緩しているように見えたその身体は実際一切の隙が無く、まるで美しい毛並みで息を殺して獲物を見定める、高度に訓練された番犬を彷彿とさせる。下手に手を出せば返り討ちにされるに違いないと、頭の天辺から足の爪先まで、律の身体が固く強張る。
 しかし、刹那、男はまるで律の思考を見透かしたかのように、緩慢な動作で開口した。

「そう怯えるな。取って食ったりはしない」

 品の良い薄い唇が柔く弧を描いて、何が可笑しいのか、男はクツクツと笑って見せる。
 そうしてその脚に倒れかかった傘に手を伸ばし、ゆっくりと拾い上げると、律に手渡そうとして、ふと車窓に目を留める。

「……降ってきたな」

 果たしてその言葉が自分に向けられているのか、ただ独り言ちているのかすら分からないままに、律も窓の外に視線を誘われる。
 一層強くなった雨脚が叩く窓ガラスに、男の横顔が薄く反射していた。律はやはり、男から目が離せなかった。



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