#03

「それで、思わず投げた警さ……じゃなくて、社員証が!上司の顔面に向かって飛んで行っちゃって、」
「ハハッ」
「笑い事じゃありません!」

 赤井秀一は、事の顛末を話し続ける花井律を前に、果たして腹から声を出して笑ったのは何時以来だったろうと、遠い過去の記憶を遡る。プライベートで電車を利用するのは随分と久し振りのような気でいたが、それとは比べようもない程にずっと、ずっと昔の事だったように思う。
 赤井の移動手段と言えば、専ら愛車のシボレーであるが、生憎それは明日の昼までメンテナンスに出していた。公共の交通機関はあまり好きではない。同僚のジョディが送迎を申し出てはくれたものの、気持ちばかりを有難く受け取った。偶には高い車窓から、生まれ育った懐かしい街並みを眺めるのもいいかもしれないと、そんなただの気紛れだった。

「辞める時はパワハラ裁判をふっかけようと思っていて。唯一、あの人に勝てる自信があります」

 律の表情がそこで初めて、希望に爛と輝く。くるくると良く表情の変わる娘だと、赤井はその愛らしい様を眺めている。
 眉間に深く皺を刻み浮かない表情をした女が隣のシートに座ったのは、赤井が電車の微妙な揺れを心地良く感じ始めて三分と経たない内だった。薄く開いた片目をまた瞑り、赤井の思考は逡巡する。東都発、東都着の、環状線一周切符。ちらりと見えた彼女の左手には、それが握り締められていた。傘一本と切符一枚しか持たない彼女は、観光客というわけでもなければ、その死んだような顔で鉄道ファンというわけでもないだろう。それでは一体、彼女は、何のために。
 そっと、再び、赤井は律に目を忍ばせる。ああ、何かに思い当り、後悔をした。雨が嫌いなのだろうか、降り始めた空を恨めしく見つめている。そうして次は、何かを憂えて、自分までも泣き出しそうな顔をして。たった一駅の間で随分な百面相を繰り広げる彼女から目が離せなくなってしまいそうな気がして、これは自分の悪い癖だと、また、静かに目を瞑る。赤井の脚に勢い良く傘が落下したのは、その僅か十秒後のことだった。

「彼の仕打ちを何かに書き留めておくといい。裁判で有利な証拠になる」
「大丈夫です。ちゃんと日記をつけているので」
「ホォー。君は意外と周到だな」

 ふふんと、彼女は少しばかり得意げにはにかんだ。
 第一声を発した際の震える小鹿のような律の姿を思えば、この短時間で良く手懐けたものであろう。心のはずみで乗車した電車で、見知らぬ小娘に、その鬼のような上司の鬼畜っぷりを力説されるのだから、縁とは面白いものである。
 ただ同時に、彼女を取り巻いていた、東都発、東都着の環状線一周切符の謎はあっさりと解けてしまい、赤井は些か口惜しくも感じていた。生まれたばかりであった律に対する好奇心が、突如失速し、消えてしまう。その秘密さえ明かされてしまえば、赤井には律の考えている事など手に取るように分かってしまうのだから。
 彼女は詰まるところ、と、赤井は思考を整理する。情感豊かな彼女から感じ取れるものは多々あれど、その男に対する嫌悪ばかりが当初から微塵も感じ取れはしない。

「それでも、戻りたいんだろう?」

 赤井は全てを見透かしたように、まるで親心のような寛大さを持って、諭すように優しく言った。
 彼女は上司そのものが気に入らないのではない。上司に認められないことこそが、気に入らないのだ。だからそうやって己の心を騙しては、環状線一周分、たったの一時間程度の麻疹のような反抗期を繰り返している。
 律は赤井の言葉に、僅かに目を見張った。そうしてしばらくして、虚勢を諦めたのだろうか、困ったように笑って見せる。

「戻りたいですよ」

 吐露された本心に、聞き分けの良い可愛らしい雛鳥だと、赤井も微笑する。

「――でも、」

 しかし、律は瞬間、ふっと赤井から視線を逸らした。
 豪雨で白み始めた窓ガラスの向こう側をじっと見つめて、そこに、何が見えるわけでもあるまいに。

「戻りたいって気持ちと同じくらい、このまま誰も知らない所へ行ってしまえたらとも思います」

 その大人びた横顔は、彼女には酷く不釣り合いで、しかしそうであるからこそ、赤井は妙に惹きつけられる。
 物見やぐらから見下ろしていたはずの律を、急にすぐ近くに感じて、不意に心臓がどきりと鳴る。ゆるりとこちらに視線をくれたその所作すら、とても優美なものに思えて。

「そんな風に思うこと、ありませんか?」

 まるで哀願するようにそう問うた律に、赤井は一瞬言葉に詰まる。
 少しの振動を伴って電車は次の駅に到着し、車内には到着のアナウンスが鳴り響いた。乗客が降車し終えると、ひとつ先の扉からは細身の若い男が乗車する。その男の肩に無造作にかかったギターケースは、赤井の記憶を強引にほじくり返した。
 開扉と共に強くなった雨脚の音が耳に劈いて、律の左手に握り締められたままの切符が、やけに目に痛い。咄嗟に律をはぐらかす上手い言葉のひとつも、思いつかずに。

「……ああ。分かるよ」

 軽快なチャイムと共に扉が閉まり、東都環状線は再び発車する。赤井がひとつ嘆息すると、律はそれ以上会話を続けようとはせずに、赤井から上手に視線を逃がす。突如訪れた沈黙はしかし、不思議と嫌な気はしなかった。
 赤井秀一には、どう足掻こうとも、戻らなければならない場所がある。このまま誰も知らない所へ行ってしまいたいなどと、思ったことは無い。ただ、そうだとしても。

 "大君"
 "もしもこれで組織から抜けることができたら"
 "今度は本当に彼氏として付き合ってくれますか?"

 返事の出来なかった宮野明美からのメールの字面が、鮮明な映像となって眼前に揺らぐ。

 "自殺は諦めろ、スコッチ"
 "お前はここで死ぬべき男ではない"

 守るべきもののために自決した仲間の死に顔が、焼き付いたように脳裏から離れない。
 このまま誰も知らない所へなどと、思ったことは決してない。そうだとしても、この手で救えなかった人間の事を、後悔しなかった日などはない。
 
『次は夏葉原〜夏葉原〜』

 間延びしたアナウンスに、赤井はちらりと、電子表示板を確かめる。次が赤井の乗換駅である。
 俄かに膨らんだ律に対する興味に、もうしばらく彼女と話をしていたかったような気もしたが、彼女も、自分も、帰るべき場所へ帰らなければならないことを分かっていた。
 再び窓の外の雨に視線をくれている律の表情には、既にあどけなさが蘇っている。終着駅の無い環状線というレールに乗り合わせた者同士、またいつかどこかで、巡り合うこともあるだろうか。そんな日がもしも訪れるとするのならばその時は、彼女の上司の話などではなくて、彼女自身の話を聞いてみたいものである。

「お嬢さん」
「?」
「君の名前を教えて欲しい」

 赤井の意図が分からないのだろうか、律は間の抜けた顔をして見せる。
 しかし別段拒む理由も見当たらなかったのだろう、赤く色付いたその桜唇をゆっくりと開いた。確かに音となったその名はしかし、車内に突如響き渡った悲鳴によって掻き消え、赤井の耳に届くことは無かった。



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