#01

「納得できません」

 花井律が不躾に放り投げた一言は、風見裕也の額に脂汗を浮かばせるには充分過ぎるものであった。自分の浅い呼気ですら室内の張り詰めた空気を震わせてしまいそうで、呼吸すら儘ならないままに、風見は視線だけをそろりと右方へ向ける。長い長い一拍を置いて、書類から離れたそのアイスブルーの瞳は、彼女の視線と交わった。
 まるで聡明な狼のようだ――と、風見はゴクリと生唾を飲み込む。僅かに細められた双眸は今にも獲物の喉笛を食い千切ろうと構える獣のようで、ゆっくりと頬杖を解いたその動作ですら、これから始まる狩りの準備に思えてならない。小さく揺れた金髪に、一文字に結ばれていた唇が薄く開く。

「……悪いな。よく聞こえなかった」

 一切の表情を変えずに、一音一音を噛みしめるよう、しかし口調ばかりが穏やかで。
 じわりと再び滲んだ脂汗の感触に、風見は静かに視線を彼女へと戻した。これは降谷の、自分と彼女の上司である降谷零の、最大の譲歩であり最終通告であると、そう鬼気迫る念を込めたアイコンタクトを必死に送りながら。
 何故なら事の発端である当人ばかりが、この焦げ付いた空気を物ともせずに、毅然とした態度を守り続けているからだ。

「納得できませんと言いました」

 きゅっと、風見は己の首が締まるような感覚を覚えた。ああ、終わった。あまりにも正直で率直な単語が頭を過ぎった。聞き間違えようのない、それどころか嫌味な程に堂堂と発せられた文句に降谷の纏う空気が三度は冷えた、ような気がする。あまりの恐怖で視線を戻せずに、風見には降谷の様子を捉えることができない。
 彼女は、花井律は、降谷が怖くはないのだろうか。肝の据わった、自分と五つも年の離れた小娘に、風見は降谷とは別の意味での恐怖を覚える。入庁前からの顔見知りだとは聞いていたが、長い間彼の仕事の伴侶であった自分ですら、彼に楯突いた事など無い。

「……花井、」

 せめて、先輩として後輩を窘めなければと、制するように呼んだはずの彼女の名は思った以上にこの口から弱弱しくこぼれ落ちる。
 聞こえているのか否か、彼女は自分に一瞥さえくれやしない。何と格好のつかない事だろうか。

「風見。いい」

 それどころか返事をしたのは降谷の方で、反射的に見遣った先で、やはり降谷も彼女を見つめたままだった。
 開きかけた唇を、風見は次は何も発することなく、静かに結ぶ。最早、自分にフォローできる事など残されてはいない。

「私が担当を外される理由が分かりません」
「力不足だと伝えたつもりだったが」
「力不足?部内トップの実績をご存じありませんか?」
「……君は、自分が精神的に未熟だとは考えなかったのか?」

 ピシリと、狭い会議室内の空気に亀裂の入った音がした。
 小馬鹿にしたように、言葉に少しの驚きすら孕ませた降谷に、花井律の頬がひくりと震える。
 風見はとうとう事態を直視することが出来ずに、ふらりと視線を窓の外へやった。凍てついた室内をあざ笑うかのような、麗らかな良く晴れた日である。窓辺に近く植えられた立派な椿の木の枝には、一輪だけ桃色の花が美しく咲いていた。ああ、そういえば。そういえば、彼女が入庁したのも、こんな暖かな春の日だった。

「……この、クソ上司」
「ほら。そういうところ」

 その職務の性質上どうにも殺伐とした警視庁公安部で、彼女はそれこそ一輪の花のようだった。細っこい身体に人懐こい笑みで希望に溢れた着任の挨拶をした際には、おいおい配属先を間違えているんじゃないかと、同僚の表情が漏れなく死んだ事は記憶に新しい。何を隠そう、部内恒例の新人デッドラインレースでは自分も迷わず彼女の三日以内の離職に賭けてしまった。普段であれば見向きもしない遊びにうっかり参加する程度には、彼女は職場に不似合だった。
 そう、彼女の言葉通り、部内トップという輝かしい成績を叩きだす少し前の話である。

「俺の命令が聞けないのなら、公安を辞めたらいい」

 降谷を除いて、だから花井律に対する評価は高い。
 仕事は確実で卒が無い。地頭が良いのだろう、飲み込みは速いし、応用力に富んでおり機転も利く。実戦経験はやや浅いが、それでも平和ボケした彼女の同期に比べれば遥かに機動力に優れている事だろう。何よりも、人一倍素直なその人格は、いい芽の育つ証拠である。先輩である自分の教えを良く守り、自身の高い能力を奢らず、目標達成のために努力を惜しまない。降谷さえ相手にしなければ、という大きな大きな但し書きはつくのだが。

 ――バンッ!!

 何かが叩きつけられる音に、風見は驚いて振り返る。
 己の顔の前で黒光りする警察手帳を受け止めている降谷と、恐らくそれを力の限り放り投げたのだろう律は、まさに一触即発といった状態で。

「どうもお世話様でしたッ!!」

 吐き捨てるように、鬼のような形相で言い放つと、その小さな背はくるりと踵を返す。
 なす術もなく彼女の退室を呆然と眺めて、数秒後、禍禍しい雰囲気に導かれるように上司の様子を窺った風見は後悔した。律の手帳は降谷の拳に形が変わる程に握り潰され、彼女が消えた扉を眺めるその瞳は完全に据わってしまっている。願わくば自分もこの部屋から、いや、上司である降谷の視界から、退出したい。しかしどうにも両の足裏が床に縫い付けられたかのように、一ミリとて動かす事が儘ならない。

「……、これで三度目か」
「……え?」

 緊張のあまり掠れた声で、降谷の独り言のような言葉に風見は一応の反応を返す。
 降谷が深く長い溜息を吐くと、まるでそれが合図であったかのように、金縛りのような拘束が少しばかり楽になった。ゆっくりと手帳を開けて、律の写真を眺めながら、降谷は何故か哀しげに目を細めた。

「あのじゃじゃ馬が俺に警察手帳を投げつけた回数だよ」

 あのセリフを聞くのも三度目だな、なんて。続けた言葉には最早先程のような肉食獣の鋭さは失われている。
 風見は、彼女の手帳を内ポケットに仕舞い込む降谷と、彼女の飛び出していった固く閉ざされた扉を順に眺めた。三度目ということはつまり、風見の知らない所でもう二度も、降谷と彼女は似たようなやり取りをしていることになる。

「追いかけなくて、大丈夫でしょうか?」
「君は子供の癇癪にいちいち付き合うのか?」
「……いえ、」

 彼女を降谷の担当に推薦したのは紛れもない、風見である。降谷の膨大な仕事量をぎりぎりの所で捌いてきた風見であるが、今後例の組織の案件で潜入先をひとつ増やすことになると聞いた時には、作業員の増員を進言した。降谷にとっても手足となる優秀な駒は多いに越したことはないし、律にとっても降谷の下で職務を行った経験は必ず将来のキャリアに繋がっていくだろう。風見なりに、尊敬する上司の利益と、大切な後輩の未来を想っての人事配置だったのだ。

「彼女は雨が苦手だからな」

 ぐるぐると思考し続ける風見を他所に、降谷は庁舎から出て行く律の後ろ姿を窓ガラス越しに見つけ、そう静かに呟いた。
 その横顔が、風見にはどうにも形容し難い。自分にも降谷のような観察眼や洞察力があったとしたのなら、その思考や意向をもっと汲んでやれたのだろうか。
 降谷の言葉で今朝の天気予報を思い出した風見は、まだしばらくは降りそうもない青い空を見つめる。彼女の姿は既に見えない。

「?」

 その時窓枠のフレームが切り取る景色に、風見は微妙な違和を感じて首を傾げた。
 暖かな春の日に、青い空と椿の木に――ああ、そうだ。花が、落ちたんだ。

「どうせすぐに戻って来る。報告を続けてくれ」

 耳に届いた降谷の声色は、もう既に、いつもの『降谷零』に戻っていた。
 しかし隠しきれない苛立ちを絡ませたその声色に、慌てて返事をする傍らで、風見はまるで斬首されたように地面に落ちたであろう椿の花が頭から離れない。どうせすぐに戻って来ると、全幅の信頼を寄せる上司のその言葉に、どうしようもなく、嫌な胸騒ぎを覚えた。



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