#26

 自宅で料理をするのは何カ月ぶりだろうかと、リビングで私物の入った段ボールを広げる律を眺めながら、降谷零はキッチンでボウルの中の生地をかき混ぜている。
 律との再会後、降谷は約一カ月程で律を取り巻いていた悪しき環境を全て切り離し、そうして当の本人は降谷の本宅へ囲い込むことに成功していた。実質それはあまり難しい事では無かったとは言え、ただでさえ多忙な降谷の生活にその面倒事をねじ込むのは案外骨が折れ、思ったよりも少し時間がかかってしまっていた。しかしそれも今日までの事だ、今夜は久しぶりに安眠出来そうだと降谷は込み上げる欠伸を静かに飲み込んだ。

「安室さん、クローゼットに洋服を掛けてもいいですか?」
「もちろんですよ。僕の分は自室へ移しましたから、好きに使ってください」

 パタパタとスリッパの音を鳴らしながら近付いてきた律は、首を傾げながら降谷に許可を求める。それに丁寧に答えてやれば律は御礼を言って、そうしてリビングへ戻り洋服の仕分けを始めた。
 降谷は律を何処に住まわせるかという問題に、大変頭を悩ませた。正直な所、自分の、律の家で暮らしてくれるのならばそれが一番楽ではあるが、身元を調べる調べないの攻防は驚く事に未だに決着がついておらず、花井律の自宅であることを隠して本人を住まわせるなど、まだ安室透を降谷零とすら認識させていない現況下では不可能に近い。風見に頼んで適当に新しいマンションでも見繕ってもらおうかとも思ったが、蕪木のカルテを見る限り律の状態はあまり芳しいものではなくあまり自分の手から離したくはなかったし、記憶の回復のためにも段階的に元の生活に近い所に接触させていった方がいい。結局、降谷は何故か自宅から降谷零の痕跡を消すという茶番を余儀なくされ、この家は安室透の別宅だと偽った上で身元の割れそうな私物は全て自室に放り込み、その部屋には足を踏み入れないという約束の許で律に自宅を明け渡した。あまり帰ることのない家であるから律が気負うこともないだろうし、必要があればこうして簡単に上がり込めるわけだから実際の所は便利ではあるのだが。

「仮屋瀬さん、パンケーキが焼き上がりますので、一旦休憩しましょう」

 フライパンの中でぽつぽつと表面に穴の開いた生地を、降谷は持ち手を返して器用にひっくり返した。部屋の中にはバニラの甘い香りと生地の焼ける香ばしい匂いが立ち込めている。
 あれは律がまだ大学生になったばかりの頃だったろうか、空前のパンケーキブームには律も例に漏れず、降谷は律にせがまれて何度かこうしてパンケーキを焼いてやった。小さな頃から父親と二人暮らしであった彼女は大抵の家事は熟すし料理だって人並みには出来るのだが、零君が作った方が美味しいからと、もちろん本音であろうが半ば言葉巧みに操られて、降谷はしかし律の喜ぶ顔が見たいがために愚直にその要求を甘受していた。
 もう随分昔の事で俺自身も忘れていたなと、律がダイニングにやって来たぴったりのタイミングで降谷は焼き上がった二人分のそれを皿に移す。

「わあ、綺麗!お手本みたいですね!」

 律は丁度いい塩梅の焼き色と寸分の狂いも無い美しい円形のパンケーキを見て、思わず感嘆の声をあげて降谷を見た。
 不意に向けられた心からの笑顔は、降谷の心を直に揺さぶる。安室透として顔を合わせてからだけではない、彼女が公安職員と立場を変えた頃から、もうずっと律は降谷にそうして満面の笑みなど向けてくれたことはなかったかもしれない。しかしそれはあの頃のような、少女と女性の狭間のようなあどけない笑みではなくて、成熟した美しい大人の女のそれだ。律相手に何を妙な心地にさせられているのだろうと、降谷はつい視線を逃がして、お好きなものをどうぞと数種のシロップを差し出す。律は上機嫌な様子で、ハニーポットに手を伸ばした。

「美味しいです。安室さんは本当に料理上手なんですね」
「喜んでいただけて何よりですよ。毎日でも作って差し上げたいくらいです」
「え、それは、大丈夫です」
「ハハ。正直な人だな」

 何てことは無い、錯覚だ。そうやって昔からパンケーキには必ず蜂蜜を選ぶし、馬鹿みたいな量をかける所など以前と全く変わらない。本当に、記憶ばかりを失くしてしまっているのだと、降谷手製のパンケーキを口いっぱいに頬張る律を降谷は目を細めて眺める。
 彼女は何故、過去を知りたがらないのだろう。記憶を喪失などしたことがない降谷はその気持ちに微塵の理解も及ばないが、それでも同じ境遇に陥ればまず一番最初に己自身を明らかにしたくなるものではないかと、そう思う。あれ程聡明で理知的であった律が、降谷のように過去の自分を待ち続けている人間が居るであろうことに一片の想像力も働かないわけがない。それとも、全てを無かった事にしてしまえる程、二十数年間の記憶をかなぐり捨てられる程に、あの忌々しい男が大事だとでも言うつもりなのだろうか。

「荷物の整理は終わりそうですか?」
「はい。あとひと箱開けたら終わりです」
「……二箱に見えますが?」
「え?」

 実際引っ越しの際は、それはもう大変な喧嘩を繰り広げた。
 降谷の自宅を新居として提供することに律は簡単には賛成してはくれなかったが、それは当然のことで予想の範疇である。むしろ知り合って一カ月の男の自宅に容易にホイホイと連れ込まれるようであっては、降谷は別の意味で律に三日三晩説教でもしてやらないと気が済まない。降谷は自宅にはほとんど帰らないし手入れをしてくれたら助かるということ、とりあえずの仮住まいとしてゆっくりまた新居を探せばいいことなどを何度も伝えて、ようやく上手く言い包めたのである。だから本当の意見の衝突はそこからで、永倉の調達した家具など燃やして灰にしたい降谷と、次の新生活を見据えてどうしても保存したい律の言い争いは数時間に及んだ。降谷が降谷零であったならばそんな戯言は一刀両断するのだが、どうしても安室の体裁を崩せないため律には論理的に優しく諭さなければならないからとても面倒だった。現実的ではない律の希望には結局律の方が折れて事は収束したのだが、降谷は非常に疲れ切っていた。

「……いえ、あれは、大丈夫です」
「大丈夫とは?」
「……、」
「中身は何ですか?」
「……それは、その、」
「仮屋瀬さん」
「……永倉さんの、私物です」

 また降り出しじゃないかと、降谷は頭を抱えたくなる。
 パンケーキの最後のひとかけを飲み込んで、律は叱られた子供みたくばつが悪そうにそっぽを向いてしまった。

「あの男の事は忘れた方がいいと、お伝えしましたよね」

 カシャリと降谷が食器を皿に置いた音が辺りに響いて、律はちらりと降谷を一瞥するが、その冷めた表情にまた視線を宙に泳がせる。
 迂闊だったなと、降谷は思った。家具や家電を一掃させて満足していたが、そもそも彼女は永倉と同居生活を送っていたのだ。細々とした身の回り品や日用品まで気が回らず、そうしてその不純物の侵入を許してしまった。何が悲しくて自宅にこの世で一番恨めしい男の遺品などを置いておかねばならないのだろうと、降谷の方こそ視線を遠くへ飛ばしたい。
 そうして律は、その唇を真一文字に結んだまま開く気配もないし、黙っていればやり過ごせるとでも思っているのだろうかと降谷は小憎たらしく思うが、残念なことにその手段は安室透に対しては有用である。彼では律にこれ以上の追及は出来やしない。

「……分かりました。それであなたの気が済むのなら」
「……、」
「クローゼットの隅にでも押し込んでおいてくださいね」
「……はい」

 ほとぼりが冷めたらまとめて可燃ゴミに突っ込んでやろうと、露骨に意気消沈した律を前に降谷は目論んでいる。
 これは仕方のない事だ。律は特殊な病気で、降谷がその病巣から物理的に切り離してやろうとも、その病が途端に消え失せることはないのだ。徐々に、少しずつ、その想いが薄らいで目が覚めるのを待つしかない。時間はかかるだろう。ただ降谷はだからと言って律を諦める気など毛頭ないし、根気強く向き合って治療を施してやるつもりでいる。
 永倉圭の死を、降谷はまだ律に伝えてはいない。確証のある話ではないし、今の状況で律にそれを伝えたって、彼女は混乱どころかその反発の矛先を安室透に向ける可能性がある。それだけは避けたい。

「すみません。責めるつもりはなかったんです」

 安室透は、不便であるが便利でもある。もしも降谷零として律に接していたのなら、こうして素直に謝罪の言葉など述べたはずもない。だからこそあの日、降谷は花井律を失ってしまったし、それを降谷は今でも後悔している。
 降谷は自分の皿に残ったままの歪な形に刻んだパンケーキを、静かに見下ろした。仕事の同僚にさえならなければ、降谷はきっとずっと、律にとって優しい零君のままだった。仕事とプライベートを切り分けようと思えば思う程に降谷は律に厳しく当たったし、それに比例するように律の心は降谷から離れていく。しかし危険な職務には携わらせたくないだなんてとんだ矛盾で、律が反発するのも無理はない。彼女の指摘通り、自分などどうしようもないクソ上司なのだろうなと、そう思う。

「……いえ、私の方こそ。安室さんが心配してくれているのは、分かりますから」

 あの時だってこうやって仲直りできていたのならと、降谷はそこまで考えて、その先を思う事を止めた。今更どうとなることでもないと、かぶりを振る。
 もしも本当に律が記憶を取り戻せずに、そうして本人もそれを拒んだ時は、仮屋瀬ハルと安室透として生きようか。降谷は律にその過去を全て教えてやるつもりでいたが、律がそれを望まないのであればそれは単なる自分のエゴで、また以前と同じ愚行を繰り返してしまうのではないだろうか。
 何より、安室透としてならば降谷はずっと律に優しく出来るし、仮屋瀬ハルとしてならば律はまた降谷に笑いかけてくれるのだろう。安心したように少しばかり頬を緩ませる律を前に、そんな歪んだ未来が、降谷の胸に俄かに生まれる。

「……、まだ悪夢も見続けているんでしょう?」
「……ええ、まあ、それなりに」
「お渡しした薬は服用されていますか?」
「……ええ、それなりに」
「それなりに、ではなくて」

 蕪木のカルテには律とのカウンセリングの様子が事細かに記されていたが、その夢の内容については中年男性の死亡に纏わるものとされ、律はそれ以上は話してはいない。
 しかし律が何度も夢に見るような、関わりの深かった中年男性の死と言えば、十中八九彼女の父親である花井誠一郎のことだろう。彼の死は確かに凄惨たるものであり、今でこそ彼女は平然としているが、それは出来ることならば忘れてしまいたいような記憶のひとつと言える。
 それを、降谷は伝えられるだろうか。その記憶がなくとも彼女を相当苦しめているその過去を、全て話すとなれば降谷は取捨選択などすることは許されない。律にとって都合の悪いことも全て話して、また彼女を苦しめなければならないのだろうか。

「でも、悪いことばかりじゃないんですよ」

 ごくりと紅茶を嚥下した降谷に、律は少し物悲しそうに笑う。
 その言葉の意味が上手く咀嚼できずに、降谷はそのまま聞き返した。

「いつも同じ人を夢に見ます。グレーのスーツの男性です」
「……え?」

 他の人の顔は分かるのに、その人の顔だけが見えなくてと、律は続ける。カップの取っ手を握っていた右手が急に硬直して、降谷の脳裏に律は思い出せない記憶が過る。

 "スーツ、何色がいいと思う?"
 "絶対グレーだよ!髪の色が綺麗に映えるから"

 もう今は他人に譲渡してしまった花井の家で、二人でソファに横並びに腰掛けていた。ぺらぺらとファッション誌を捲りながら春色のワンピースを興味なさげに眺めていた律が、降谷の唐突なその質問には即答した。子供の頃にはよくからかわれていたこの髪が、良く映える色だと、そう律が言った。

「顔も分からないのに、とても大切な人だったような、そんな気がするんです」

 思い出せないはずの過去をしかし確かに回顧するように、律の眼差しは柔らかい。
 つい三十秒前まで、安室透と仮屋瀬ハルとして生きようかなどと安易な思考を繰り返した頭が、横殴りされたかのような衝撃を覚える。たとえ律が全てを忘れてしまっても、降谷は律とのひとつひとつの大切な思い出を、決して忘れ去ることなど出来ないのだ。

「……それは、もしかしたら僕かもしれませんね」
「え?いや、安室さんは、スーツなんて着ないでしょう?」

 安室の冗談だと決め込んで可笑しそうに笑う律に、降谷は無理やり合わせて笑って見せる。
 珍しく今後の道筋がひとつも定まらぬ自分に、降谷はただただ、苛立っていた。


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