#25

「建物取り壊しによる退去のお願い?」

 花井律は、アパートの掲示板に貼付された一枚の紙切れに目が点になり、思わずそう声に出して内容を確かめた。
 時刻は午後七時を回った所であり、辺りはすっかりと暗く廊下の蛍光灯ばかりが煌々と明るい。両手に抱えていた私物の入った紙袋を床に下ろすと、律は食い入るようにそのたった数行の粗末な文章を何度も目でなぞった。足許でバランスを失った紙袋はぐらりと倒れて、職場で律が愛用していたエプロンが転がり落ちる。何を隠そう、律は今日付けで喫茶リーフのアルバイトを解雇されていた。

「老朽化が著しく維持管理が困難なため解体します?」

 確かに築年数は古いが取り壊す程ではないだろうと、律はとてもでないが現実を受け入れ難く頭に疑問符を浮かべたままその場を動けない。
 つきましては誠に申し訳ありませんが二カ月以内の退去をと、社会通念上どう考えてみても良心的とは言えないその期日を指で擦ってみるが、印字された文字が変わるわけでもない。律の思考回路は完全にそこで途切れて、床に落ちたままのエプロンを拾えもせずにただそれを眺めている。

 "店を畳む?来週ですか?"
 "ええ。田舎の母の体調が悪くて帰ること決めたの。だから悪いんだけど、"

 葉子は胸の前で手を合わせて、律にそう謝った。あまりにも突然の事ではあるが、そののっぴきならない事情に律がとやかく言えるわけもない。過去の記憶の無い自分とは違って、葉子には守るべき大切な家族が居るのだろうと、律は放心しながらもそんな事を考えていた。
 最終営業日は常連客に惜しまれながらも一昨日迎えており、今日で引っ越し作業の終えた喫茶リーフは既にもぬけの殻だ。次にランチに時間が取れた時は、久しぶりに因縁の生姜焼き定食が食べたいなと、そう笑っていた赤井との約束もとうとう果たせなくなってしまった。がらんとした店内で彼の座る定位置を眺めながらそんな事を考えていた律に、葉子はやっぱり、ごめんなさいねと、また、謝った。

「あれ?仮屋瀬さん?」
「え?……ああ、今晩は」

 声を掛けてきたのは、コンビニ袋を片手にラフな服装をした、ひとつ挟んで右隣りに住む律と同い年くらいの女性である。面識はあるが把握しているのは顔と名前ばかりで、アパート内で顔を合わせれば挨拶を交わす程度の間柄だ。生活リズムが似通っているのだろう、朝も晩も、こうして出くわす事も多かった。

「読みました?それ」
「ええ、たった今。驚いてしまって」
「ポスト確認した方がいいですよ。詳しい通知が入ってますから」

 女性の物言いに、律は俄かにその退去勧告が現実のものとして沸き上がった。夢でもドッキリでも何でもない、自分は近くこの住まいを出て行かなければならないのだと、律はまたひとつ増えた難題に気が遠くなる。
 職と住居を、同時に失ってしまった。喫茶リーフが閉店を決め込んだ日から、律は次の就職先を見つけようと焦り始めたが、そう都合良く同程度の待遇の働き口が見つかるわけもない。こうなるリスクがあった事を律は何処かでは分かっていたはずなのだが、どうにも最近の自分はそうした危機管理を疎かにしてしまっていた。今までの律の生活は律自身の力で築いたものではなく、全て赤井が整えたものだということを、いつの間にか忘れてしまっていた。

「……次のアパートの相談とか、乗ってくれるんですかね」
「うーん。どうでしょうね。立退料はかなり払われるみたいですけど」

 仕事は妥協さえすれば何とかなるであろうが、住まいの方は妥協云々の問題ではない。
 しがないアルバイトであった律には貯蓄など無いも同然であるし、その立退料でホテル暮らしをしようものなら数カ月と持たぬ内に破産する。ネットカフェか何かを使えば多少はその寿命が延びるだろうが、今やネットカフェですら身分証の提示が求められるし、やはり次のアパートを見つけようにもどうしたって身分確認の壁が越えられない。時間や金の問題ではなくて、律の抱える問題はあまりに根源的である。
 そこまで考えて、はたと律の脳裏に、例の探偵の顔が過った。あの男は、永倉圭が仲介業者に金を掴ませたと言っていたなと、ふっとそんな事を思い出す。

「私はこの際、彼氏の所に転がり込んじゃおうかなって思ってます」

 それではと、彼女は些か上機嫌で、律を残し手前の階段を上っていく。その軽い足取りに律は思わず重く溜息を吐くと、そこで漸く落ちたエプロンを拾って、再び紙袋を持ち上げた。
 自宅のポストを確認すると、彼女の言う通り退去に関する封書が入っていたが、律はそれを確かめる気分にもなれず机上に放る。この部屋ともあと少しでお別れかと、電気もつけずに月明りの差し込む部屋でしばしセンチメンタルに浸った。二人で住むには窮屈な部屋だったが、それでも、赤井と律が愛した間取りだった。洗濯済みの気に入りの服も、僅かに毛先の開いた歯ブラシも、愛用の煙草とマッチも、律のあげたロックグラスも、所定の位置に鎮座したままだ。引っ越し先が決まらなければ全て処分しなければならないのだろうかと、律は毎晩二人で眠りについていたシングルベッドに腰を下ろす。そういえば当初律はまだその間に距離を拵えて、良く赤井はこの縁から落ちそうになっていたなと、思い出し笑いをした律の声は静まり返った部屋に虚しく響く。それにふっと表情を暗く落とした律は、特に宛てがあるわけでもないのに、ふらりと部屋を後にした。

『お客様のお掛けになった電話番号は、現在使われておりません』

 葉子から借り受けていたスマホは近日中に解約される予定であり、そうなればもしも赤井が律に電話を寄越したとしても、律にはそれを知る術がない。せめて自分のこの状況だけでも伝えられたら良いのだが、やはり、赤井の電話は繋がらない。
 葉子も律と全く同じ状況で赤井とは連絡が取れないと言っていたし、葉子よりも懇意でありそうな蕪木も以下同文である。蕪木、そういえば彼はと、律は赤井への発信を止めて、蕪木医師の番号を呼び出す。通院の日時の折り返しがあるはずが、待てど暮らせど律のスマホは着信せず、こちらから催促の電話をしたのがつい数日前である。しかし、蕪木が電話に出ることはなく、二度目の発信で律は連絡が欲しい旨の留守録を残したが、うんともすんとも返事はない。蕪木は赤井との関係性を偽っていたし、もしかすると赤井の失踪について本当は何かを知っているのではないか、だからこうして自分との連絡を絶ったのではないかと、藁にもすがる思いでその番号をタップする。しかしやはりコール音が鳴り響くだけの電話に、律はとうとうひくりと頬を引き攣らせて、そうかそれならば自宅まで乗り込んでやろうかと、もちろんアポなど取らずに行先を決めた。

「仮屋瀬さん?」

 しかしながらそうして意気込んだ律を、その声が呼び止める。
 振り返った先では律が仕事を依頼した探偵の男が、にこりと柔和な微笑みを浮かべて喫茶リーフの店先で佇んでいる。

「安室さん?どうしてここに?」
「あなたが評判だと言っていた生姜焼き定食を、食べてみたくて」
「ああ、」
「でも、お店、閉店されたんですか?」

 扉のガラス窓に貼られた閉店のお知らせを見つめながら、安室は律にそう訊ねた。
 律が安室探偵を雇ったのは、数週間程前の話である。毛利蘭の紹介で出会った彼に、律は当初、仕事を依頼する気などは起きなかった。警察に懇意な毛利探偵の一番弟子という話はもちろん、出会い頭からトレーは滑り落とすわ、蘭のお冷の水は溢れさせるわで、このポンコツに自分の素性を明かすわけにはいかないとそう思ってしまっていた。
 しかしあの瞬間、席を立った律を引き留めた安室の瞳にだけは、どうにも翻弄される。律はその澄んだアイスブルーの瞳などは決して知らない。知らないはずなのに、どうしようもなくこの心を奪われる。手首から伝播する安室の体温がやけに熱くて、律はまるでその熱に浮かされたように、安室の手を振り払えはしなかった。

「すみません。折角来ていただいたのに」
「いいえ、とても残念ですが。仕方ありません」

 しかし冷静になって落ち着いて振り返れば、あれは彼の営業テクニックか何かだったのではないだろうかと、律は思っていた。この端麗な顔立ちで、その曇りない綺麗な瞳で、必ず力になるから行かないでくれと必死な懇願をされれば、大抵の人間は心が揺れるし律とて例外ではないのだ。自分を上手く丸め込めば彼には依頼料が入るわけであるし、何も律だけが特別というわけではない。私はうっかり不出来な探偵と契約をしてしまったのだろうかと、あのカフェで安室と再び邂逅を果たすまでは、律は本気でそう悩んでいた。
 それが払拭されたのは、律が小手調べのために安室にやった僅かな情報で、永倉圭の核心に迫り結論までも引っ提げて寄越した時である。あれにはたまげた。バイト感覚の探偵にしては八面六臂の活躍と言っていい。ポアロでの不手際は何だったのかと、そう問い質したくなる程に安室透は別人であった。仕事は早いし抜かりがなく、報告は先見の明を持っている。機知に富む会話回しは品性を感じさせるし、何より永倉の犯罪行為を明け透けな正義感で揶揄せずに、クライアントである律の利益を守るところには好感が持てた。

「それより、何処かへお出かけでしたらお送りしますよ?車で来ているので」

 だから律は、安室透に身の上を暴露した。その手腕と仕事への姿勢を買って、そうして律の物理的な制限を分かった上で頼みたい事があったからだ。
 律のコミュニティはとても狭い。自分のこの境遇を詳しく知っている人間は、赤井と、赤井の息がかかった蕪木と葉子だけだ。あの二人を信頼していないわけではないが、信用しているかと言われたら首を縦に振るには待ったがかかる。赤井の行方を追う上では、何を偽られるかも分からない彼等には頼み事はできなかった。

「いえ。気晴らしに散歩をしようと思っただけなので」

 安室は律の突飛な話にも耳を傾けたし、解決策まで提示した。しかし、身元は調べなくていいという律には難色を示す。
 律だって何も、過去の自分について一抹の興味もないと言えば嘘になるし、身元不詳のまま生きていくのが難しいことは経験してみて良く分かった。せめて人間らしく日常生活を送るためだけに必要な情報くらいは欲しいとも思う。しかし、律には赤井との約束がある。返事もさせてはもらっていない、約束とも呼べないようなそれであるが、過去を知るとしたらあの男の口からだとそう思っている。それに、律が今それを誰かに知らされてしまったら、何も知らずに赤井と生きていくという選択肢そのものが潰されてしまうのだ。
 どうしても自分の身元については調べて欲しくはない律と、何故か無理やりにでもそれを明らかにしたい安室の大人げない話し合いは、大変な長時間に渡った。

「でしたら、一緒にドライブでもしませんか?」
「いえ、だから、私は散歩を、」
「ドライブも気晴らしになりますよ。それに、女性の夜歩きは危険ですから」

 あの時から、どうも安室はその穏やかな笑みを浮かべながら律に有無を言わせない。
 調べなくていいということをどうして調べたがるのか、探偵の性か何かなのだろうかと、律はとても不思議だった。しかし赤井の件では絶対に折れたくはない律は、安室の追及をのらりくらりと躱して、最終的には自分の身元に繋がるような情報には黙秘を決め込んだ。それこそ、バイト先のランチが美味しいですよとどうでもいいような世間話を繰り返している律に安室は、分かりました、話し合いはまた後日にしましょうと、三杯目のコーヒーを飲み終えた所でそう言った。話し合う余地などないだろう、クライアントが調べるなと言っているじゃないかと、一転して不信感を募らせた律は少し前に届いた安室のメールを返信できずにいた。

「どうぞ。足許に気を付けて」

 形ばかりは紳士なのだがと律は助手席にエスコートされながら、もしや私は今からこの密室であの話し合いの続きをさせられるのだろうかと、遅い名答に思い当る。夜歩きと言ったってまだ時刻は午後八時前で、そもそも律は気晴らしがしたかったのではなくて蕪木医院へ行きたかったのだ。蕪木の事を伝えてはいない安室にはそれを詮索されたくはない手前ああ言ってしまったが、それが断念された今、律は家に帰って今後の算段でもしたいところである。
 やっぱりと、そう言いかけた律にはしかし、どうぞと、また安室がにっこりと笑う。何かに背を押されるように重い足取りで車に乗り込んだ助手席の扉を、安室はほんの僅かな力で容易に閉めた。

「何かありました?」
「え?」
「ずっと眉間に皺が寄っているので」
「……ああ、少し、考え事を」

 律の住む街を出た安室の車は、東都を適当に走っていた。逃げる事を諦めた律は一変して話し合いに構えていたが、いつまで待っても安室の口から依頼の件について言葉が漏れることはない。それどころか沈黙を守る安室を隣に、律はもしかして本当にただのドライブだったのだろうかと、そんな心地すらして車窓から東都駅のイルミネーションを見ていた。煌びやかなそれにカメラを向けて、自撮りする浮ついたカップルの隣を通り過ぎる。その姿には先ほどアパートで彼氏の所へ転がり込むつもりだと話していた彼女の姿が思い起こされて、律は次の住まいや職をどうしたものかと、そんな事を考えていた。

「安室さん」
「はい」
「永倉さんがやったように、お金でどうにかなる仲介業者を知りませんか?」
「はい?」

 その表情は今日初めて俄かに歪み、変わらぬ信号を確認してから怪訝な顔で律を見遣る。
 出来れば今のアパートの近くがいいんですけどと、そう続けた律には安室の眉がぴくりと動作した。

「僕はあなたに犯罪に手を染めさせるわけにはいかないのですが……引っ越しをご検討ですか?」
「……ええ。今のアパートが、取り壊されるみたいで」
「成程。それでお顔色が冴えなかったんですね」
「はあ、そうですか?まあ、他にも不幸が立て続いて。もう誰かに恨まれているとしか思えないような」
「ハハ。まさか」

 口を尖らせる律の言葉を、安室は笑って流す。こちらは笑っている場合ではないのにと、しかし律の身の上を知った上で話を聞いてくれる人物など、葉子と蕪木を失った今ではこの男しか居ない。人選を間違えたのだろうなと、心底思って、律は小さく息を吐く。全く気晴らしにも何にもならないドライブに、再び車窓から外を見遣れば、飛び込むネオンばかりが目に痛い。

「お困りでしたら、僕に相談してくれたら良かったのに」
「……はあ、だから今、こうして相談を、」
「いえ、そういう血迷った類のものではなくて」

 血迷ったとは失礼なと、顔を顰めて律は安室を振り返るが、丁度青く変わった信号に、安室は前を向いて緩やかにアクセルを踏んだ。
 すぐに見えなくなったネオンを反射的に振り返ると、その時律の鼻腔をとても微かな芳香剤の香りが掠めていく。妙な心地がした。それが何の香りであるのか律は決して知らないのに、何故かどうしようもなく懐かしいような、酷く焦がれるような、頭を揺さぶられるような妙な心地だ。しかしやはり律にはそれが何か分からず、前を向いて薄暗い街灯ばかりが灯る道路に視線をくれる。

「仮屋瀬さんにご提案があります」

 成程、話し合いの次はご提案ときたかと、律はその物言いには身構える。
 安室は何が可笑しいのかその形の整った唇の端を持ち上げて、ご提案の内容を口にし始めた。


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