#24

 織枝葉子が赤井秀一の死を確信したのは、ひと月程前に遡る。
 別段赤井と普段から連絡を取り合うような仲でもない葉子は、赤井が行方不明であるその事実を律の口から聞いて初めて知った。確かに喫茶リーフでその姿を見かける事はなくなっていたが、あの花火の夜以来二人は一緒に暮らし始めていたようであるし、わざわざ以前のように昼時まで顔を出さずともよくなったのだろうと葉子は勝手にそう思っていた。だから日に日に元気を失くしていく律の姿には、また下らない痴話喧嘩でも繰り広げているのだろうかとその程度の認識だった。

 "来葉峠で事件があったみたいよ"

 だから私は忠告したのにと、葉子は憤慨した。赤井の失踪と件の車両炎上事件を造作もなく結びつけた葉子は独自の情報網を駆使し、FBIの女が警察に持ち込んだ指紋が焼死体のそれと一致した事までを掴んだ。俄かには信じ難い、あの男にしてはあっけなさすぎる死であるが、如何にもな峠で銃殺された挙句業火に焼かれるなど到底善良な一般市民の迎える最期ではないし、何やら危険な組織を追っていた赤井の死に様としてはしっくりくる。
 結局そうして残された律を、赤井は自分にどうしろと言うのだろうか。暗にその死を仄めかしたところで彼女は希望を捨てきれないし、葉子の本業を知らない律に確たる証拠を差し出してその死を諭すわけにもいかない。そうして二度と戻らぬ男の帰りを、彼女は待ち続けてしまう。過去も亡くして、唯一心を許した人間も亡くして、果たして彼女はこの先どう生きていけばいいのだろう。赤井を失った律には最早、葉子にとって価値は無い。同情はするが現実はシビアだ。果たしてどうしてやるのが互いのためになるのだろうと、葉子はもうずっとそんな事ばかり考えている。

 ――カラン、カラン。

 カウンターで独り温めたサングリアを飲んでいた葉子の耳に、その時、扉のベルの鳴る音が聞こえた。
 もちろん営業時間はとうの昔に過ぎていたし、その扉の鍵は律が帰り際に閉めていったはずなのだがと、葉子はゆっくりと振り返る。店内を煌々と照らす橙の照明が、そうして佇む青年のシルエットをはっきりと浮かび上がらせた。若い。やたらに造形の整ったその顔立ちはやや幼く見える。しかし歪な三日月のように撓った双眸に、今晩はと静かに唇を動かしたその泰然自若とした態度に、どうにも嫌な感じのする男だと葉子は目を細めた。

「ごめんなさいね。今日はもう店仕舞いなの」
「ええ、そうでしょうね。施錠されていましたから」

 その返答には葉子の眉間に皺が寄る。断りもなく男が店に足を踏み入れると、ひとりでに閉まった扉がガチャンと大きく音を立てた。
 職業柄、人から恨まれることは多々あれど、実際こうして身の危険を感じたことは今まで無かった。赤井に続いて自分にも焼きが回ったのだろうかと、葉子はこの危機的状況下でぼんやりとそんな事を思いながら、傍らにあったスマホに手を伸ばす。
 どうせ狙いは自分の溜め込んだ膨大な情報なのだろう。こういった場合に備えて葉子には、ボタンひとつで己の持つデータを全て抹消する用意がある。みすみすこの男に全てを奪われるくらいならばと、それは葉子の指がその冷えた端末に触れた瞬間だった。

「売って欲しい情報があります」

 しかしはたと、葉子は動作を止める。
 ―売って欲しい?強引にでも奪い取れそうな癖に?と、そうして俄かに葉子の瞳に宿った疑心には、男は弄ぶような不気味な笑みで応えて見せる。
 葉子は男に、見覚えなど無い。もともと取引の粗方をネットに依存している葉子には、その面を把握している顧客の方が遥かに少なく、万が一取引先の人間と対面したとしてもそれを感知することはできない。もっとも、そのような繋がりの薄い輩には、現実の自分の居所などを晒すようなヘマはしていないはずではあるがと、葉子は男を静かに睨みつける。

「……、貴方は?」
「同業のようなものですよ」
「……同業、ねえ」

 それにしてはこうして突然顔を突き合わせるなどルールの逸脱も甚だしいだろう。情報屋は同じ釜の飯を喰う者同士、案外と各々が持ちつ持たれつの関係を築き横の繋がりが強いものだが、しかし葉子は男を微塵も知らない。片足どころか両足どっぷりこの業界に浸かり切った葉子の耳に、男の噂がひとひらも舞い込まないとは思えない。
 客でもなければ、同士でもない。それこそ一体何処から自分の情報を得たのだろうかと、未だ男の正体に辿り着けず分の悪い葉子は大変居心地が悪い。男はそれをあざ笑うかのように余裕すら纏って、葉子の椅子から二つばかり席を空けた左隣に腰を下ろした。

「永倉圭という男を追っています」
「……、突然、不躾だとは思わないの?」
「ええ。貴女は大変合理的な人物だと伺っていたので。無駄話はお嫌いでしょう?」
「……そうねえ。アンタみたいなのはもっとお嫌いね」

 葉子は左手でグラスの酒を揺らして、そうしてこくりと一口飲み込む。一旦逃がそうとした会話を男は器用に絡め取り、葉子にじっくりと思考する隙を与えない。
 葉子の知る永倉圭とは赤井秀一その男に他ならないが、この男が何故赤井を探るのか葉子にはその理由が少しも見透かせはしなかった。よもや例の事件の関係者でもあるまいしと、葉子の脳裏には炎上後の彼の愛車がふと過ぎる。

「貴女の望む対価をご用意しますよ。情報が欲しければ提供しますし、金が良ければ言い値で支払いましょう」

 どうにも上から目線なものだなと、葉子はやはり、憤慨した。この若造に掴めて自分に掴めない情報などあるわけもないし、たかだが永倉圭の情報ひとつに大金をふんだくれる価値など更にない。葉子は男から視線を逸らすと、音を立てて手中のグラスを置いた。
 そもそも、葉子は近々この稼業から足を洗うつもりでいる。最近は専らその準備に明け暮れて、副業の喫茶の運営も疎かだ。赤井が死んだ今となっては、その約束など反故にしたところで誰も何も文句など言えないのだが、律を雇い入れてからもうすぐで一年となるし、機は整いつつある。一昔前の葉子であったなら、男の話に乗ったかもしれない。しかし今となっては欲しい情報など残っていないし、余生を楽しむに十分な資金を持つ葉子は、これ以上多くなど望まない。

「結構よ。差し出して欲しいものなんて、無いもの」
「……ふうん。それは困りましたねえ」
「あらそう。他を当たったら?」
「では、差し出すのではなくて、引き取るのではどうでしょう?」
「引き取る?」
「ええ。貴女の不良債権を」

 男の言葉の意味が分からず、葉子は反射的に男へ顔を向けた。
 相変わらず何を思考しているのか分からぬ癪に障る笑みで、ひとさじの困惑すら滲まないその表情には、まるでその会話を予見していたかのようにも思えてくる。言葉通りに咀嚼するならば、葉子はもちろん不良債権など抱えてはいない。ならば一体何の比喩なのだろうと、その時やっと葉子は、男が永倉圭の名を口にした意味を理解した。

「仮屋瀬ハルを持て余しているようですね」

 それまで飄々としていた葉子の胸に、突然得も言われぬ不安が広がる。
 男の狙いが永倉圭ではなくて、あの娘にあったことに対してではない。それはもっとずっと、根が深い。

「僕が引き取りますので、手離してはいただけませんか?」

 葉子が律の引き取り手を探し始めたのは、赤井の死を知った直後の事である。葉子は律のプライベートをそれ程知っていたわけではないが、自分と赤井を失った律が路頭に迷うであろうことは容易に想像がついた。葉子自身がこの先律の面倒を見るつもりなど更々ないし、もともとそこまでの義理立てをしなければならない関係でもない。せめて一人で生きていけるように次の職場くらいは見繕ってやろうと、そういう事情の下であったが、しかしどうにも条件が悪すぎる。
 身元不詳は大変なディスアドバンテージであるし、何か手に職のひとつでもあればいいのだが記憶喪失の彼女からはそれすらも聞き出せない。東都を離れれば多少は選択肢が広がるだろうが、赤井を待つ律はこの場所を離れたがらないだろう。かと言って日の当たらぬ仕事をさせるわけにもいかないしと案の定手頃な引き取り手など見つからず、葉子は上手く赤井の死を伝えて折り合いをつけさせるか、最悪然るべき施設に引き取ってもらうしか方法はないのかもしれないと、そう考え始めていた。
 しかしそれは、喫茶店主の織枝葉子としてではなく、情報屋の織枝葉子として水面下で秘密裏に模索していたはずだった。

「誰からその話を?」
「僭越ながら、貴女のメール履歴を少し拝見しまして」
「メール履歴?」
「はい。貴女が連絡を取っていた数名の人間のPCをお借りして」

 貴女のPCは大変ガードが堅かったものでと、男は小馬鹿にしたように肩を諌めるポーズを取る。
 何かに身体中をなぞられているようなその薄気味悪い感覚に、葉子は漸く、男が自分よりも一枚も二枚も上手であることを理解した。
 男のやっていることは、葉子が今までの人生の大半で行ってきたことと然程変わりはない。葉子はあまりにも多くの人間の秘密を抜き取り、隠蔽された密事を引き出し、そうしてそれを金に換えてきた。しかし一方的に搾取される側に陥ることとは、こうも嫌悪の渦に巻かれるものであったのかと、そうして初めて己の所業を振り返る。今更それをどうと思う性分でもないが、こうなってくると形勢は完全に葉子に分が悪い。

「……、私に何をしろって?」
「話が早くて助かりますよ」

 十秒ほど思考して、葉子は早々に手の平を返す事に決めた。
 自分の未来と仮屋瀬ハルの未来を天秤に掛けた時、それはどうしたって前者に大きく傾いてしまう。できることならば双方を守りたいと思う程度の道徳的観念は持ち合わせているが、己の身を呈してまで葉子はそうしようとは露ほども思わない。赤井が生存していたのならばまだ駆け引きのひとつでも持ち掛けた所だが、あの男は既にくたばっている。
 これが、律の命運なのかもしれないと、葉子は些か酔いの回り始めた頭で考えていた。記憶を喪失し、覚えのない男に拾われたかと思えば捨てられて、そうしてまた次には別の男に手を引かれ、過去に苛まれながらそれでも生きていかなければならない。不憫な属性の人間もいるものだなと、既に葉子は他人事である。

「彼女を解雇してください。それから彼女に貸している貴女名義のスマホの解約も。あくまで、穏便に」
「……ふうん?それであの子を掻っ攫うの?彼女、あの家からは梃でも動かないわよ?」
「梃など要りませんよ。自ら出てきてもらえば済むことですから」
「自ら出てくる?」
「あの物件は近い内に潰れます。彼女はまだ知り得ませんが」

 喜々とした様子で語る男には、葉子はどうにも、アルコールで温まった身体が芯から冷えるのを感じた。
 一枚や二枚どころではない、十枚も二十枚も先を行く男には、仮屋瀬ハルから全てを奪い尽くすための狡猾さと、それを実行できるだけの確かな権力が兼ね備わっている。
 しかし、最早葉子には、動き出した歯車を止めることなどできない。律の未来は、既にこの男に委ねられている。

「……貴方は、」
「はい」
「貴方は、彼女を幸せにしてくれる?」
「え?」

 だから葉子は、そう問うた。男が一体何者であるのか、何故律にそこまで執着するのか、分からぬことは多々あれど、そのいざこざから身を引く事を決め込んだ葉子にとっては大した問題でもない。
 橙の電灯がゆらりと揺らめいた気がして、男は初めて呆気にとられたように、その瞳をやや開いた。新月の今宵、男の向こうの窓に覗く闇は一層深度を増すばかりである。
 あの娘は無事に眠りについているのだろうかと、葉子はその身を案じていた。どうやら過去の辛い夢を繰り返し見てしまうらしいことは赤井から聞いていたが、では何故それを分かっていて彼女を置いて逝ったのだと、どうしても赤井に対して腹の虫が治まることはない。男という生き物は皆、身勝手だ。

「永倉圭は死んだのよ」
「死んだ?」
「あの子は今もずっと、還らない亡霊を待ち続けているの」
「……それは、確かですか?」
「ええ」

 この男にもまた、赤井と同じように彼女を無下にする日が来るのだろうかと、何かを思考するように纏う空気の変わった様子を葉子は見つめている。
 律に伝えることをずっと渋っていたその内容を、口にして葉子は初めて、その死をまざまざと実感した。ああ、あの男は死んだのかと、今になってその現実がすとんと胸に落ちてくる。
 殺しても死なぬような面をしていたくせに、律という死んではいけない理由も出来たくせに。赤井の死が葉子に直接影響を与えることなど決してない。それ程親交があったわけでもないし、涙のひとつも零れることはなかった。それでも今だけは、ずっと間近で見てきた赤井と律の、もう二度とは拝めない微笑ましい日常を恋しく思う。

「幸せにしますよ。きっと、世界中の誰よりも」

 柄にもなく目頭が熱くなって、葉子は思わず席を立った。
 男からはもう、つい先程まで浮かべていたはずの安っぽい笑みなど消え去っている。真摯な眼差しの奥には、燃えるような熱を確かに孕ませていた。

「……、一杯付き合って行きなさいよ。毒なんて入れやしないから」

 カウンター越しに差し出した赤井の気に入りだったバーボンの瓶は、だから、葉子なりの弔いである。
 男は僅かに見張った瞳をすぐに弛緩させると、喜んでと、グラスにゆっくりと注がれていく琥珀色の液体を、ただ静かに眺めていた。


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