#23

「ストックホルム症候群?ご友人が?」
「ええ。どうも、その類の様でして」

 蕪木医院の木曜日の診察は、正午十二時で締め切っている。通常であれば午後は学会やセミナー等に出掛ける所、今日は特に予定は無かった。折角だから何処かへ足を伸ばそうかと職員を帰し自宅に戻った矢先、ぱらぱらと窓の向こうに雪がちらついて、蕪木は外出を諦めのそのそと炬燵に潜った。
 東都の街は滅多に雪が降らない。今日は何か良い事があるかもしれないと、蕪木はお約束の蜜柑を剥きながらリモコンでテレビの電源ボタンを押下した。どこも大して面白くもないワイドショーが垂れ流されている中で、ふと、その手が止まる。アナウンサーの永倉圭が、東都駅から降雪の映像をバックに中継放送をしていた。あの夜以来、ぱったりと連絡が取れなくなってしまったあの男は、一体何処へ消えてしまったというのだろうか。蕪木はスマホに手を伸ばして、着信履歴を遡る。赤井秀一のその名を探し出し最後に通話した日付を眺めていたまさにその時、玄関のチャイムが鳴り響いた。

「何かの犯罪に巻き込まれたということですか?」
「そうですね。誘拐に軟禁と言ったところでしょうか」
「……それは、また、随分とひどい」
「ええ、本当に」

 噂をすれば何とやらと言うしと、玄関の扉を開けた先に立っていたのはしかし、蕪木が期待していた人物ではなかった。
 細身で長身、金髪に端整な顔立ちの優男である。蕪木に覚えがないということは受け持ちの患者ではないし、その派手な風貌を近所で見かけた記憶もない。私服姿のその男は何かのセールスというわけでもないだろうしと、ひとつひとつ可能性を潰していく蕪木に、男は、時間外にすみませんと頭を下げた。
 なるほど新規の患者だったかと思いながらも、しかし認識の通り診療時間は過ぎている。近くの夏葉原総合病院であれば開いているはずだと、そちらを紹介しようとした蕪木に、しかし男は、相談だけさせてもらいたかった旨を伝えた。どうやら男に疾患は無いらしい。それならばと、蕪木はあまり良く考えもせずに、地域医療への貢献の名の下男を自宅へ招き入れてしまった。

「随分と犯人に心酔してしまっているようで、とても迷惑しているんです」

 ダージリンはお気に召さなかったのだろうか、男は用意した紅茶に一口も口を付ける様子はなく、そうして蕪木に相談を続けている。
 ストックホルム症候群。あまり一般的な症例ではない。病名の由来にもなった事件は、一九七十年代のスウェーデンでの銀行強盗人質立てこもり事件である。五日間の立て籠もり後、警察は強行突入、犯人は捕まり人質に怪我もなく、事件は無事に解決されたかのように見えた。しかしその後の捜査で、人質が犯人に協力して警察に敵対行動を取っていたこと、解放後も犯人を庇い警察に対し非協力的な証言を行った事が明らかになる。誘拐や軟禁等の事件で被害者が生存戦略として犯人との間に精神的な繋がりを築き、時にはそれが妙な連帯感や果ては恋愛感情にまで発展してしまう心理状態である。

「どうしたら目を覚ましてくれるんでしょうねえ」

 被害者は捕えられた段階で突然、非日常的な空間に放り込まれる。全ての自由を奪われれば、その環境下で生き延びるために犯人の意思に従うのは至極合理的な判断である。自分が生き残るためには犯人が必要であると思い始めてしまうし、衣食住を全て与えてくれる犯人からは、生の実感や安心、そうして安らぎを得てしまう。とても単純なメカニズムだ。
 被害者は犯人に執着し、そうして稀に愛着を抱き、またそれに報いる形で犯人も被害者を気遣うようになる。そうして最後はそこに彼等だけの閉鎖された世界が生まれ、両者がそろって外界を敵とみなしてしまう。環境が人の心に与える影響は大きく、そして恐ろしい。

「一層の事、その記憶を全て忘れてくれたらいいのにと、そんな事を思ってしまいます」

 記憶を全て忘れてくれたらいいのにと、その言葉には蕪木の脳裏にひとりの女性の顔が浮かぶ。
 彼女とはつい昨晩、電話を通して言葉を交わしたばかりだ。次の通院の日取りを相談しながら、彼女の所へすら戻らない様子の永倉圭の話を少しばかりした。自分も連絡が取れていないことを伝えると彼女は気落ちした様子で、時間が決まったらまた連絡をくれとそれだけ言って切電されてしまった。

「特殊な状況下で起こる症状なので、環境を変える事が一番の治療法ですね。対象の環境からはできるだけ切り離してあげてください」
「ホォー。なるほど」
「場合によってはPTSDなどの治療も必要です。専門外なので、然るべき機関への受診をお勧めしますよ」
「そうですか。分かりました」

 不思議な男である。誘拐に軟禁といった大変な事態を経験した友人を持つ割には、どうにも彼からはその深刻さが窺えない。それどころか余裕すら漂うその態度には、蕪木の心証に些かの疑心を抱かせる。
 そもそも、蕪木は精神科医ではない。律の治療は専門の同期の指導の下で行ってはいるが、素人に毛が生えた程度のカウンセリングだ。その症状に当たりがついているのならば、少し調べれば自分が専門外であることなど分かりそうなものではあるのだが。それに、まだ診療時間内である近場の総合病院を蹴って、わざわざ閉院している蕪木医院を訪ねてきたことも不可解と言える。近所の顔見知りならばともかく、普通初見の患者が自宅にまで足を運ぶだろうか。では一体彼は何故自分の許にと、蕪木はようやくその疑問に辿り着く。

「写真、お嬢さんですか?可愛らしいですね」
「ああ、いいえ。姪っ子ですよ」
「成程。ハルさんと、仰るんですか」
「え?ああ……、はい」

 蕪木は男の視線に誘導されて、テレビの前に飾っていた姪っ子とのツーショット写真を見遣った。何てことは無い、書道展で入選した姪っ子とその作品の前で撮った写真である。当たり前にその作品の横に書かれている蕪木ハルの名前にはしかし、蕪木は今まで招いた誰にも特に注意を向けられたことはなかった。傍から見れば単なる世間話のそれは、しかし先ほど蕪木の脳裏に過ったばかりの女性の姿に、その時まるで探りでも入れられているような妙な気分が途端に蕪木を襲う。
 彼女の名前は、決して本名などではない。あの日、あの時、あの男の偽名をテレビの中のアナウンサーから取ったように、適当に周囲から拝借した名前だ。

「斜向かいは呉服店だったんですねえ」

 ごくりと、蕪木は生唾を飲み込んだ。
 全く世間話の体を守ってはいるが、男は明らかな意図を持って蕪木にそう人好きのする笑みで微笑みかけている。

「一年程前に倒産しているようですが、看板はまだ掛かっていましたよ。ああ、屋号は何でしたっけ?」
「……それは、」
「お忘れでしたら教えて差し上げましょうか?……仮屋瀬呉服店ですよ」

 凍り付いたように硬直した蕪木を前に、男は携えていた柔和な笑みを静かに殺す。そのさらりとした金糸の間から覗く両の眼は、蕪木はもう一歩足りともその場から逃がさない。
 暖房の良く効いた暖かな部屋の片隅で、蕪木の身体ばかりがその末端から冷えていく。後悔しようと、もう遅い。この男を家に引き入れた時点で全ては手遅れだった。

「仮屋瀬ハルをご存じですね?」

 例えばこの男が本当に過去の彼女の友人だったとして、こうしてまるで尋問の如く蕪木に詰め寄る必要などありはしない。もしも今ここに彼女を連れ立たせ、彼女の了解の許にそうして当時の状況を知りたいと穏便に話を持ち掛けられたのだとしたら、蕪木とて赤井を差し置いてその申し出を快諾していたことだろう。
 しかし彼女は今ここには居ないし、昨晩の電話で過去の自分を知る友人に遭遇したなどとは蕪木は聞かされていない。蕪木と仮屋瀬ハルの関係が他人に知れるとして、それは赤井か律の当人らの口からしかあり得ないが、どう見ても同腹ではないこの男に赤井がそれをうっかり漏らすとは考えられないし、かと言って律の方もむやみやたらに他人にそれを吹聴するとは思えない。
 お前こそ何故ここまで辿り着けたのだと、蕪木の方もそう問い質したかった。男の煮えくり返った腸に、目を背ける事が出来ていたのなら。

「質問を変えましょうか。永倉圭とあなたのご関係は?」
「……な、永倉圭?アナウンサーのですか?」
「ハハ。ご冗談を」

 口許だけを上手にしならせて笑った男の温度の無い笑みは、蕪木をいとも簡単に震え上がらせる。次にまたつまらぬ事を言ってみろ、その口を削ぐぞと、辛うじて音声にはならなかった男の心の声が蕪木には確かに聞こえた気がした。永倉圭こそが男の目的なのだろうと、蕪木は思った。

「……僕はあなたには、感謝する所も大きいんですよ」
「え?」
「医師として、彼女に適切な治療を施してくれていたようですから」
「……、」
「だから話して頂けませんか?あなたにはあまり、手荒な手段を選びたくはないので」

 飴と鞭を、非常に上手く使い分ける。一瞬弛みそうになった気概を、蕪木は再び張り直した。
 そう諭すのは結局、男が永倉圭にまだ近付いてはいないからでもある。永倉圭と赤井秀一を線で繋げてはいないし、赤井秀一と蕪木の繋がりにも至ってはいない。確たる証拠が無く、切れるカードを持ってはいないから、そうして蕪木の自白を促しているのだ。
 果たして自分は男を誤魔化しきれるだろうかと、蕪木は思った。律が赤井との関係を問うた際に回答を用意していたように、赤井は第三者にこうして自分との関係を詮索された時の受け答えも蕪木に授けていた。蕪木と赤井は古くからの知り合いであるが、それを裏付ける目に見える物証やコネクションは一切残していない。どちらかが口を割らなければ、それはどうしたって露見するものではない。

「……雇われたんですよ」
「はい?」
「大金を積まれまして。彼女の治療と、永倉と友人関係であることを偽って欲しいと頼まれました」
「……、」
「ですので本当に、永倉圭についてはその名前以外、僕も知らないんです」

 事前に準備していた説明はするすると蕪木の口から流れ出て、言い終えてから、もう少し渋った方がそれらしかっただろうかと蕪木は男を見遣る。
 男はほんのひと時動きを止めたが、僅かばかり目を細めると、そうして深く吐息した。その説明には失望したとも言わんばかりに、表情をくすませる。

「……話す気が無いことは良く分かりました。ですがあなたには、罪の意識も無いのですか?」
「罪の意識?」
「永倉圭の犯罪に加担しているんですよ?仮屋瀬ハルに対する罪悪感はありませんでしたか?」
「それは……その……か、金に目が眩みまして」

 しかし、突然取調室の刑事のような物言いをする男に、蕪木は些か困惑した。
 蕪木は既に、男をやり手のインテリヤクザか何かだと決めつけている。仮屋瀬ハルが何故ヤクザと繋がりを持っているのかなど、彼女の過去を知らない蕪木には想像のしようもないし正直したくもないが、もしかすると彼女はこの男から逃げていて、そうして赤井に保護されていたのかもしれない。
 蕪木の想像は実際の所全くの見当違いであるが、蕪木にそう思わせてしまう程度には男の存在はおぞましい。お前こそ人の家にそうして上がり込んで、脅迫めいた言葉を撒き散らしている事に罪の意識は無いのかと、蕪木は一抹の反発心は持ち直している。

「……チッ。どいつもこいつも」

 しまいにはそうして、優男の仮面を剥ぎ取り、男は舌打ちさえして見せる。
 その態度にはふと、蕪木は律の無事が気にかかった。いくら男が永倉圭には手が届いていないと言っても、そうして赤井の所業を推知し、彼に心を寄せた律を憂い、そうして蕪木の所までは辿り着いている。彼女はもう既に、男の掌の中にあるのかもしれない。

「あの、」
「何ですか?」
「……仮屋瀬さんは、その、元気にしていますか?」
「……へえ?彼女を心配してくれるんですか?」
「それは……、僕の患者ですから」
「ふうん。でもあなたはご存じのはずですよ?昨晩、電話で彼女の元気な声を聞いたでしょう?」
「……え?」

 蕪木の声が、その時初めて、掠れた。
 男は蕪木の動揺をそれこそ手中で転がせて、そうして愉しむかのように、硬直した蕪木の前でにっこりと笑みを浮かべる。
 蕪木は何を言われたのか上手く咀嚼できずに、男の言葉を何度も胸の中で唱えた。一層速くなる心臓の鼓動の音がやけに耳に煩くて、蕪木はようやく、男が遥かな高みから自分を見下ろしていることを知る。誤魔化しきれるだろうかなどとよく思えたもので、男と出会ってしまったが最後、既に退路など断たれている。
 気味が悪い。この男は一体、何をどうやって、そうして何処まで、知っているのだろう。

「彼女を憂慮する気持ちがあるなら、彼女の治療にはご協力いただけますよね」
「……それは、もちろん、」
「ならば金輪際、彼女とは接触しないでください」
「え、」
「悪しき環境から、彼女を切り離したいので」

 悪しき環境と、そう断定した男の口調はとても重苦しい。
 確かにそれはつい数分前に蕪木が男に伝えた治療法であるが、蕪木はそれが赤井と律の話であるなどという前提は微塵も知らない。
 この男の瞳には、そう映るのだろうかと、蕪木は思った。蕪木にとってのあの二人は、永倉圭と仮屋瀬ハルでしかないのだ。その過去を加味することは出来ないし、どうしたって当事者に近い蕪木の思考にはバイアスがかかり冷静な判断ができるとは言い難い。しかし、蕪木の知っているあの羽毛のような柔らかな日々を、それを見てもいない者に病の一言で片付けられては心地も悪い。

「それと、彼女の診療記録のご用意も」
「いや、それは、」

 ただその一心で、蕪木は反射的に抵抗を見せた。例えこの男に抗う事が出来ぬとしても、そうしてされるがままに屈したくはない。
 しかしその蕪木の中に僅かに生まれた反抗心を、男はまるで、取るに足らないものでもあるかのように、笑みを崩さなかった。そうしてゆっくりと流した視線は再び、ある一点で、はたと止まる。つられた蕪木の視点はそのまま、写真の中のあっけらかんとした笑顔に釘付けになる。徐に交差した男との視線の先で、その口許は緩やかに弧を描いた。
 あの娘がどうなってもいいのだなと、決してそうとは発声しなかったはずの男の声を、蕪木は直に耳元で囁かれたような錯覚さえ覚える。

「……あの、」
「はい」
「カルテを……用意、させてください」
「そうですか。善意に感謝します」

 何を白々しくと、機嫌の上向いた男に、しかし蕪木は最早全てを諦めていた。
 せめて彼女の、律の無事を確かめられたらと思うが、蕪木はその手段を持たない。電話は何故か男に筒抜けであるし、赤井の自宅近くにあるらしい、赤井が彼女に用意した住居の場所を蕪木は知らされていない。あたりをつけようにも、蕪木は赤井の自宅それすらを知らないのである。そもそも、たとえその場所を知っていたとしても、この男が蕪木と律の邂逅など簡単に許すとは到底思えない。

「最後にひとつ。僕は此処に二度と足を運ぶつもりはありませんので、」

 ならば警察に通報してやろうと、蕪木は思った。
 このヤクザにこうして自分が脅迫されたこと、やむを得ず患者のカルテを奪われたこと、そうしておそらくその患者が危険に晒されていること。洗いざらい喋ってやると、もちろん蕪木とて二度と関わるつもりもない男の手に、重い錠のかかる姿を想像する。

「何か話したい事や思い出した事があれば、最寄りの警察署にご相談くださいね」

 しかし、続けてその口から零れ落ちた言葉には、蕪木は目を丸くした。
 その言葉の意味も、意図するところも、何も分からぬまま蕪木の思考回路は無残に千切れる。ただただ、世の中には知らぬまま生きた方が幸福と言えるアンダーグラウンドな世界があって、そうして自分と赤井はそこに住む禍禍しい何かを敵に回してしまったのだと、そればかりを理解した。
 今晩は積もるかもしれませんねえと、ご機嫌な様子で窓の外に目をやるその禍禍しい何かに、蕪木は震える両手でPCを操作し、仮屋瀬ハルの電子カルテを呼び出した。


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