#22

 降谷零は、米花駅南口改札前で、仮屋瀬ハルの到着を待っていた。
 東都環状線の通る米花駅は日々の乗降客数もそれなりに多いが、平日の昼間ともなると人の数も疎らだ。約束の時間のきっちり十分前であることを腕時計で確認すると、降谷は中央の柱に凭れかかりながらスマホを弄り始める。何度見返しても可愛げのない実に淡白な返事だなと、降谷は律とのメールのやり取りを順にスワイプしていた。
 四日前のポアロでの邂逅時、律が降谷に明かした素性はその名と連絡先ばかりだった。詳細は込み入った話だからと蘭やコナンの前で話すことを躊躇っていたし、それならば日を改めてと、降谷にとっても都合のいいように話は進んだ。律に宛てたメールは散々悩んだ挙句、安室透として発信している。第三者さえ排除してしまえば、降谷は降谷零として律と対話できるのだが、下手に攻めてまた雲隠れでもされたらたまったものではない。彼女も彼女で、何故か自分は仮屋瀬ハルであるという体裁を崩さぬままにメールの返信を寄越しているし、その目的にさっぱり見当もつかないまま、二人は互いに別人を装って連絡を取るという奇妙な道化が続いてしまっている。

「……永倉圭、フリーライターねえ」

 事前に情報をいただければ次回会う時までに下調べ程度はしていきますよと、道化の延長で放り投げたそのメールに彼女は、名前、性別、職業、大体の年齢と、そして住所を記載して返信を寄越した。おい待て、本気で俺に調べさせる気かと、降谷は愕然としたが四の五の言っている暇もない。
 そもそも、こうした類の曖昧な調べ物は律の十八番だ。降谷が次から次へと仕入れてくる複雑なネタを彼女は大変上手く分解し、照合し、再構築する。警視庁のシステムでお前が調べろよと、よっぽど送りつけてやろうかと思ったその一文を降谷はやっとの思いでデリートし、了解の旨の返事を出した。何か警視庁に戻れぬ理由でもあるのだろうか、やはり降谷には律の狙いが分からない。不本意ではあるが、その永倉圭という人物を仕方なし降谷は己の手で調べようとしており、風見から連絡が入ったのは、丁度その頃だった。

「安室さん」

 正直な所、降谷はその永倉圭に微塵の興味もないし、律のためにその人物を捜し出してやろうなどいう気持ちはさらさらない。
 律の一番近くに居たはずの自分が、彼女にわりと近しい場所に居たらしいその人間を全く知らされていない事実は大変胸糞悪いが、自分が認識する前に失踪してくれたことは有難かった。願わくばそのまま彼女の前から永遠に消えて欲しいし、二度と戻ってきて欲しくなどない。長い間その生死すら分からなかった律がこうして手元に帰ってきたことそればかりで、降谷は満足だ。公安に戻る気がないならそれでもいいし、むしろ公安など始めから賛成ではなかった降谷にとっては、このまま仕事を辞めてくれた方が喜ばしい。いくら忙しくとも退職届のサインなら何枚でも書いて受理してやるつもりでいる。実際それは直属の上司ではない降谷の仕事ではないのだが。

「すみません。お待たせしました」
「いいえ、僕も今来た所ですよ」

 二度程、待ち合わせは仮屋瀬さんの最寄り駅で良いですよと、降谷はそう提案した。二度とも、結構ですと、断られた。ではお互いの最寄りの中間の駅にしましょうかと再び提案した。米花町まで行くので大丈夫ですと、やはり降谷は断られた。
 永倉圭の住所は簡単に漏えいさせておいて、自分の住所を探られたくはないのだろうか。その抵抗は虚しく既に降谷は律の住まいを特定しているし、そもそも徒に降谷の前に顔を晒せば、そうして身元の割り出しにかかることなど律が分からないはずがない。風見の尾行を巻くような素振りは見せなかったようであるし、よもや降谷を仮屋瀬ハルが花井律と瓜二つの別人と騙せると本当に思っているわけでもあるまいし。

「行きましょう。カフェオレの美味しいお店をご紹介しますよ」

 いずれにせよ降谷は、律が泣こうが喚こうが今日はその身柄を抑えるつもりでいる。日を開けたことは正解だった。ポアロで突然律に出くわした時のような見苦しい動揺など、降谷にはもう微塵も垣間見えない。
 ありがとうございますと、まるで心の籠っていない御礼の言葉を並べた律には、いつまでも俺が黙っていてやると思うなよと、そう心の中で呟きながら、降谷は安室透として最上級の笑みを律に向けた。
 
「結論から申し上げると、仮屋瀬さんの言う永倉圭という名前の人物は実在しない可能性があります」
「……と、仰いますと、」
「頂いた住所の賃貸は確かに永倉圭の名義で契約がありましたが、実際に住んでいた形跡はありませんし、住民登録もありません。何より、」
「何より……?」
「仲介業者に金を掴ませて、本人確認を行わないまま契約をしていたようですよ」

 店内の半個室のようなボックスシートに通された降谷と律は、注文の品が届くと早速本題に入った。風見から提供された資料を広げて淡々とそう続けた降谷には、律の顔色が瞬間変わる。口を付けようとしていたカフェオレのカップをソーサーに戻すと、カチャリと陶器のぶつかる音が響いた。

「……それは、犯罪では」
「ええ。犯罪ですね」
「……、」
「それと、こちらの住所に見覚えは?」
「……これは、」
「同じ名で同様の手口で契約をされていたようなので」

 降谷は素知らぬ顔で、律の住まいであるアパートの詳細が記載された書類を、ご丁寧に外観の写真まで貼付して律に差し出す。律はちらりとそれを一瞥すると、死人のような顔で、私の自宅ですと小さな声でそう言った。
 その反応に気を良くした降谷は、普段はあまり注文しないカフェオレを口に含んで、やけに美味いなとそう思った。何か思う所でもあるのだろう、律は口許に手を当てると目線を左下にさげて、黙りこくる。彼女が考え込む時の、昔からのお決まりのポーズだ。せいぜいそうして考えればいい、待っていてはやらないがなと、降谷は既に獲物に照準を合わせたようにほくそ笑む。

「家賃はキャッシュで、契約年分を前払いされていたので銀行口座の特定はできません。こうした物件はそれこそ犯罪の温床になっているケースがあります」
「……はあ、」
「引き続きお調べしますか?彼の連絡先や交友関係、車があれば車種やナンバー、行動範囲が限定できるのなら顔写真や特徴もご提供いただけると助かりますが」
「……ああ、はあ」
「ですが、正直な所、仮屋瀬さん自身も犯罪に利用されていた可能性があるので、警察へのご相談をお勧めしますよ。もちろんその際は、僕もフォローは惜しみませんので」
「……、」

 捲し立てるように追い詰めた律の口からは、ついには返事すらも聞こえなくなった。
 実際、律が望むのならば、降谷は永倉圭については警察の然るべき部署に対応を任せるつもりでいる。永倉が一体そうしてどんな悪事に手を染めていたのか、そこまで降谷は調べさせてはいないが、それはそもそも降谷の関知するところではない。ただひとつ気がかりであるのは、律が何故露骨に怪しいその永倉という男の名義で借りたアパートに住み続けていたのかという点である。まさか自分から永倉の犯罪に手を貸していたわけでもあるまいしと、降谷は再びカフェオレを一口飲み込む。
 まあ別に、それはこれから本人の口から語らせれば済むことだと、降谷は鞄から別の茶封筒を取り出した。中には、花井律と仮屋瀬ハルが同一人物であることを裏付ける証拠が収まっている。頃合だろう。退屈な茶番は終えて、大人の話合いをしようじゃないかと降谷の眼光が鋭くなった。

「……安室さんは、本当に優秀な探偵なんですね」
「え?」
「すみません。ここまで調べられるとは思っていませんでした」

 しかし、ぽつりと呟かれた律の言葉に、降谷の右手が固まる。
 安室さんは優秀な探偵ですね?馬鹿にしているのか?と、降谷の頬がひくりと震えた。こちらがここらで手を打とうを下手に出ているのに、律は未だに降谷零を安室透とする前提を覆す気がない。
 降谷が律に提供した情報は、一介の探偵が手を尽くした所で、それも二、三日という短期間で調査できる領域を遥かに超越している。国家権力の賜物だと職員の律が分からないはずがないし、それを見越して自分に調べさせたのではなかったのかと降谷は眉を顰める。本当に気でも触れてしまっているのかと、ある種の恐怖すら抱いて降谷は律の瞳を探るように見つめた。

「お話しておきたいことがあります」

 しかし、律の感情は揺らがない。その毅然とした態度に降谷は、四日前にポアロで感じた吐き気を再び催した。
 気持ちが悪い。彼女は確かに花井律であるのに、降谷を知る花井律ばかりがそこには居ない。当初の余裕は既に降谷からは消え去り、降谷はただ、律の口が紡ぐ言葉を待っていた。

「私は、ある日を境にそれ以前の記憶がありません」
「…………はい?」
「去年の四月です。それまで自分が何処でどうやって生きていたのかが、分からないんです」
「……え、……?」
「仮屋瀬ハルという名前が、本当の名前かどうかも」

 降谷零の思考回路は、そこで完全に停止した。
 とても長い時間が流れたように思う。迂闊にもその時間で降谷の脳は一ミリも動作をしなかったし、これまでの不可解な律の言動とそのカミングアウトを結び付けようともしなかった。去年の四月から記憶喪失だというその律の言葉が、ただただ頭の中で反芻していた。
 お冷をお注ぎしますねと現れた店員が注いでいく水が、半分程になっていた降谷のグラスに足されていく。降谷はその礼も言えずに、その様子をじっと見ていた。そうして、ここまで頭が真っ白になったのは、彼女とパン屋の売り子云々のやり取りをした時以来だなと、ようやくそんなどうでもいい思い出が脳裏に過った。

「……話を整理しても?」
「はい」
「名前すら定かでないのなら、あなたはご自分の身元については?」
「分かりません。当時は、傘と小銭しか持っていなかったので」
「……傘と、小銭」

 降谷が論理的に結論を導く前に、記憶の方が先行する。
 花井律の失踪は、夏葉原リセットマン事件発生の当日である。去年の四月、意見の相違により降谷に警察手帳を投げつけた律は、その足でコンビニの傘を一本購入し、なけなしの財産で東都環状線に乗車している。彼女はあの時、確かに他に何ひとつその身に携えてはいなかった。一番の証明証である警察手帳は降谷が預かっていたし、通信手段であるスマホは本人の机上に放置されていたのを風見が発見したし、免許証などの身分証の類が入っていた財布はロッカーに置き去りにされていた。
 記憶喪失など俄かには信じ難い反面、確かに、その事件で何らかの外傷やショックにより記憶を喪失していたのだとすれば、自分を花井律と結び付けられなかった律が、そうして降谷の許へ戻れなかった理由も、今も安室透を降谷零と認識できない理由も一応の筋は通る。しかし、ならば何故彼女はあの日夏葉原総合病院へ搬送されていないのか、何故今まで警察に引き渡されずに身元不明のまま生きていたのか、おそらく全ての鍵を握っているであろう永倉圭とは何者なのか。

「先に自分の身元をお調べにはならなかったのですか?」
「……ええ、まあ。思う所はありましたけど。目が覚めた時にはもう、彼が身の回りの世話を焼いてくれていたので」
「永倉圭が?」
「はい」
「……、すみません、あなたと彼の関係は、結局?」
「……恋人、だったようです」
「はい?」
「そう言われたので……鵜呑みにしていたわけではないですが」

 当たり前のように話す律に、降谷は握っていた水の入ったグラスを握り潰しそうになり、ハッとして手を離した。酷く渇く喉には、降谷さん落ち着いてくださいと、つい最近部下に言われたそのフレーズがそのまま蘇る。
 つまり、どういうことだ。降谷が気にしていた律の恋人とは、律が律であった頃の恋人などではやはりない。律に恋人などいなかったし、そうなると永倉圭は例の事件を機に突然降って湧いた律の恋人と騙る何者かである。それこそ己の犯罪に律を利用としていたのか、右も左も分からぬ律を手籠めにして懐柔しようとしていたのかその目的など定かではないが、いずれにせよ人外だ。とても良心ある人間の所業とは思えない。

「しかし、疑っていたのなら警察に相談したら良かったのでは?」
「ああ……彼が、私は警察から逃げていたと言っていたので、」
「……はあ?」
「もしかしたら自分は犯罪者だったのかもしれないと思うと、とてもじゃないですけど……」

 尻すぼみになっていく律の言葉が、また降谷の癇に障る。
 ふざけるな、公安のお前に犯罪歴があるわけがないだろう、オールクリーンだと、ようやっとの所で抑えている沸点の矛先はもちろん目の前の律ではなく永倉圭である。永倉圭など取るに足らないと思ってはいたが、前言撤回だ。稀に見る卑劣な犯罪者を、とことん追い詰めて社会的に抹殺しなければ降谷の気が済まない。
 しかし、まずは律を安全な場所へ保護して、そうしてきちんとした病院に連れていってその頭を診てもらおうと降谷は思った。記憶障害の治療は難しい。事件から半年以上経ってもまだその記憶が戻っていないのならば最悪今後も回復しない可能性もあるが、そもそもまともな治療が施されているのかどうかも分かったものではない。

「それでは、こうしましょう。まずはあなたの身元を割り出します。知り合いに良い医者がいるので、同時に記憶障害の治療も進めましょう。永倉圭の捜索はその後で、僕の方で調べを進めておきますので、あなたには証言だけいただければ結構です。ご懸念されている犯罪歴があなたに本当にあるような場合には、別途ご相談させてください」
「……え?いや、それは、結構です」
「はい?」

 降谷は喋りながら、件の茶封筒を鞄に押し込んだ。降谷がこうして偶然にも律に再会できた事は最大の幸運であったが、安室透として接触してしまったことは最大の不幸である。この状況で、実は君は自分と同じ公安職員で、安室透は降谷零の潜入先の顔のひとつであり仮の姿であるなどと説明しても、今の彼女が理解できるわけがない。
 そうなるとやる事は決まってきたなと、しかしまとまりかけた話には何故か律が水を差す。結構ですじゃないんだよと、降谷に楯突いてばかりだった当時の律の姿を思い出し、記憶を亡くしてもなお自分の言う事を聞かない目の前の娘に、降谷は舌打ちをしそうになるのをぐっと堪えた。

「私は身元を知りたいわけじゃありません。ただ、家に帰ってきて欲しいんです」
「……いえ、ですから、永倉圭はもともとこの家には住んでは、」
「ああ、いや、そうではなくて……、その、永倉さんとは同居をしていたので」
「…………、今、何て?」

 聞き間違えだろうかと己の耳を疑った降谷には、律は全く同じセリフをご丁寧に一字一句違わず繰り返した。
 ちらりと視線を落とした降谷の視界には、先ほど律に提示した律のアパートの間取りが飛び込んでくる。この狭苦しい六畳一間で男と同居など、降谷は冗談でも笑えない。思う所はあったのだろう、鵜呑みにしたわけではなかったのだろうと、降谷は律の言葉を思い返しながらこめかみを強く抑える。恋人よりも云々のくだりは、自分の情報を握っている人物という意味で大切だということではなかったのか、持ち上げた視線の先で一点の曇りもないその大きな瞳に降谷は深くゆっくりと吐息する。
 そうか。お前はそうしてその得体の知れない男に丸め込まれて、人が確たる証拠を並べた上で犯罪者だと教えてやっているにもかかわらず、自分に都合の悪い情報には全て目を伏せて、そうして探偵を雇ってまでもその男を見つけ出したいわけだ。そうか、随分と上手く飼い慣らされたものだなと、おそらく人類の誰よりも暗く据わった眼差しで降谷は律を見つめる。
 ずっと彼女の帰りを待っていたのだ。来る日も来る日も、降谷は律の面影を追って、そうして一日としてその存在を忘れたことなどない。柄にもなくあの日彼女に浴びせた言葉を省みて、そうして自分の許へ戻った日には今度こそ少しは優しく接してやろうと、その一心で降谷は律の居ないマンションに足を運び続けていた。
 死んでくれは、しないだろうか。永倉圭の罪は重すぎる。死をもってしかその罪は償えないし、降谷の心の安寧も取り戻せはしない。

「もう一度、会って話がしたいんです。安室さんには、私の境遇を理解していただいた上で、他に調べていただきたいことがあるんです」

 降谷の心を、いや、降谷という人間すらをも知らない律の瞳には、降谷零は映らない。
 まずはその蕩け切った脳みそをどうにかして矯正してやらなければと、あくまで安室透の体裁を崩せない降谷の笑みは歪にゆがむ。どうやら一転して長丁場になりそうな大人の話合いに、降谷は右手を挙げてエキストラホットのコーヒーを追加で注文した。


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