#21

 風見裕也が上司からまるで要領の得ない電話を受け取ったのは、数時間前のことである。
 デスクの上に積み重なった書類の山を前に本日の帰宅時間を早々に見越した風見は、夕食を確保しようと本庁を出て近くのコンビニへ向かっていた。降谷には到底及ばないとは言っても、風見の仕事量も一般のサラリーマンの比ではない。おにぎりとサンドイッチをひとつずつ、レジに並ぶ途中で隣の棚からブラックの缶コーヒーを一本引き出して、風見は仕事の優先順位を模索していた。昼過ぎに同期から連絡を受けた身元不明の若い女性の刺殺体を、風見はまだ確認出来ていなかった。風見ですら何度経験しても慣れないその確認を、降谷は毎回一体どんな気持ちで行っていたのだろうと、見つからない部下を永遠に探し続ける上司の心中を慮りながら、風見はレジに商品を置いた。ポケットのスマホが振動したのは、その時だった。
 風見は降谷のスケジュールを大雑把には把握しているが、それはあくまで表面上のものである。降谷は臨機応変に自分を使い分けるし、潜入先で予測不能の事件に巻き込まれることは稀ではない。予定はあくまで予定であって、風見には降谷が何処で何をしているのか分からない事が今までも多々あった。だから唐突に今すぐに来てくれと言われても、一体何処へ行けばいいのか分からないし、何のために呼び出されているのかも分からないし、自分を誰と偽って会いに行けばいいのかも、風見には分からない。兎にも角にも、電話口で動揺して思いつくままに喋り続ける降谷に、風見は思わず、降谷さん落ち着いてくださいと、人生の内で二度は使わぬであろう言葉を言い放った。十秒程の沈黙の後で、ようやく普段通りの冷静な口調に戻った降谷に、風見は店員に商品のキャンセルを申し出ながら、スマホを片手に歩き出していた。

「悪かったな」
「いえ。お疲れ様です」

 独特のサウンドを響かせながら近付いてきた白のRX-7は、風見の姿を認識して、道路の端にその車体を寄せた。赤いテールランプが目に眩しい程に、辺りはすっかりと暗くなってしまっている。
 降谷の潜入先のひとつである喫茶店に呼び出された風見は、向かいの通りの物陰でじっとその扉が開くのを待っていた。客の女を尾行して生活圏を特定するようにとの命令であったが、降谷はその女の特徴を教えてはくれない。見れば分かるよとどうにも苦々しい物言いで、電話は一方的に切られてしまった。降谷にしては恐ろしく適当で曖昧な指示である。もしや既に自分はその人物を見逃してしまったのだろうかと不安になった風見は、メールの受信ボックスを確かめた。年齢と服装を教えてくださいと打ったメールには待てど暮らせど返信がなく、八方塞がりの風見が天を仰いだ瞬間、店の扉がゆっくりと開いたのだった。

「部屋の位置は?」
「二階の向かって一番右手です」

 始めに顔を出したのは、毛利蘭だった。知った顔に風見の眉はぴくりと動いたが、それも一瞬だ。確かに見れば分かる相手ではあるが、彼女の素性は降谷の指示の許で詳細に調べ上げており、今更明らかにすることなど残ってはいない。ならば彼女は一体誰とと、間もなくして江戸川コナンが店を出たかと思えば、すぐに一人の女性が風見の視界に映った。
 風見は己の眼を疑った。完全に停止した思考に、数度瞬きを繰り返し、それが幻でないことばかりを確かめる。最後に顔を出した店員は紛れもない、安室透に変装した降谷零であり、降谷は彼女と一言、二言、言葉を交わしているようだった。さっぱり何が起こっているのか分からない。軽く会釈するとひとり駅方面へと向かい歩き出した彼女に、その時、鋭く射貫くような視線が風見に向けられる。心から待ちわびた着信を告げるスマホに、風見はようやくその時、降谷から事の顛末を聞いた。

「ご指示通り、仮屋瀬ハルの名で照会をかけました」
「ああ」
「結果はアンマッチです。我々の持つデーターベース上には、彼女は存在しません」
「……、そうだろうな」

 聞いているのかいないのか分からないような態度で、降谷は風見の伝えた部屋をただ見つめながら報告を受け流している。
 仮屋瀬ハルはあれから二度程電車を乗り換えて、そうしてこの町に降り立った。因縁の夏葉原駅からそう遠くはない、閑静な住宅街である。その足は食材の調達のためにスーパーに立ち寄ったばかりで、その他特に寄り道をするわけでもなく真っ直ぐに自宅へと向かった。喫茶リーフという赤い屋根の茶店から、二分とかからぬ位置である。八軒ばかりの小振りなアパートのその一室は、程なくして明かりが灯ったかと思えばすぐにカーテンが引かれてしまった。冬至は過ぎたと言え、陽が落ちるのはまだ早い。

「君はどう思う?」
「……とても良く似ています。他人の空似とは、」
「そうじゃなくて」
「え?」
「……あれは、律だよ。俺があいつを見間違えるはずがない」

 言葉運びは穏やかであるが、降谷の纏う空気は冷ややかだ。そこまでの確信を持っているのなら、何故彼女を迎えに行かないのだろうと風見は訝しげに眉を顰める。
 降谷が風見に説明した事の詳細は、不可解な点が多すぎた。あの女が本当に同僚の花井律だとして、一体今まで何処で何をしていたというのか、何故今更降谷の潜入先に姿を現したのか、どうして仮屋瀬ハルなどと偽名を使うのか、どういう目的で降谷と接触を果たした今も沈黙を守るのか。降谷の周辺には恐ろしく変装術に長けた人間もいるわけで、風見は仮屋瀬ハルが降谷に向けられた刺客である可能性を捨てきれはしなかった。花井律の失踪に関しては何一つ明らかにはなっていないし、そうして風見のあずかり知らぬ所で何かの事件に巻き込まれていたとしたら、良からぬ謀略が巡らせていてもおかしくはない。だから風見としては仮屋瀬ハルを納得のいくまで裏取りして、最悪違法な手段でも何でも駆使し、その正体を突き止めてやろうと思っていたのだが。
 降谷はハンドルに肘を付いて無造作にもたれかかり、やはり、僅かに光の漏れる彼女の部屋から目を逸らさない。

「彼女に恋人がいることを知っていたか?」
「…………、はい?」
「恋人だよ。君達は多少はプライベートの話もしたんだろう?」
「……いえ、把握していません……す、すみません」

 一体何の話が始まったんだろう、そうして自分は何を謝らせられているんだろう。多少の怒気すら孕んだ降谷の言葉に、風見はずり落ちそうになった眼鏡を慌てて押し上げる。
 いくら職場の後輩とは言え、五つも六つも年の離れた小娘に、色恋沙汰に疎い風見が彼氏の有無などを聞いているはずがない。発言ひとつが命取りになる昨今、迂闊にそんな事を聞き出そうものならセクハラだと職場を追われる羽目にもなりかねない。確かに降谷の指摘通り、仕事の会話ばかりで余計な話をしない降谷と律よりかは、風見と律の方が世間話のような会話を交わすことは多かったように思う。しかしだからと言って風見は律に恋愛相談などされたことはないし、もちろん風見が律にそんな話題を持ちかけられたこともない。
 そもそも、その聞き方のニュアンスからは降谷はその片鱗を掴んではいないのだろう。彼女の自宅やスマホを半年以上管理していた降谷がそれを察知できないのならば、彼女には恋人などはいないように思うし、万が一それ程長い間ほったらかしにしているような恋人であれば、差し出がましいがそれは恋人とは呼べないのではと風見は思う。

「彼女にはもう家族や身内は居ない」
「……は、はあ」
「恋人ではない恋人よりも大切な人間なんて、俺以外に存在し得るのか?」
「…………はあ、」

 それこそ自分の知ったことではないだろうと、風見は生返事を繰り返している。
 過去の降谷と律の家族ぐるみの関係を、風見は多少は降谷から口伝に聞いてはいる。しかしそれがどれ程の濃さのものであったのかを風見には知る術がないし、降谷の言い分しか聞いてはいない風見は、律が降谷を本当に恋人ではない恋人よりも大切な人間という位置づけをしていたかは定かではない。普段の律の態度を見る限りにおいては、むしろ降谷に対しては反骨心の塊のような娘であって、それを愛情の裏返しと呼ぶには風見の目には些か不思議に映る。残念だがその認識は降谷の独りよがりではないかと、しかしぎすぎすと焦げ付く車内のピリついた空気に風見がそう口を挟めるわけもない。

「……知らない女に、見えたよ」
「え?」
「俺の事なんてまるで知らないような振りをして、気持ちが悪くて、吐きそうになった」
「……、」
「本気でやっているなら、とてもまともな精神じゃない」

 しかし、そうして息を吐いた見るに忍びない降谷の横顔に、風見は今度は返事のひとつも出来きず、閉口した。
 律の捜索が打ち切られた際、風見は自分ばかりはと降谷の苦痛を理解したような気になって、そうして人知れずに降谷と律の痕跡を追いかけていた。花井律はもう二度と戻らないかもしれないと、次第に湧き始めた思考を風見は当然のものだと思っていたし、降谷もきっとどこかでそれを理解していると思っていた。しかし降谷の様子を見る限り、それは風見の早計である。降谷の律への執着は思った以上に根深いし、律を失った彼のその苦悩もまた、風見の予想を遥かに上回る。

「!」

 とは言え、ここでこうして考えあぐねていても答えは出ない。降谷を待つ間、風見は仮屋瀬ハルの周辺を出来る限り探り、ひとまず彼女の住居であるこのアパートを仲介した業者とは既に明日のアポを取り付けてある。仮屋瀬ハルの個人情報を引き出せないのならば、その城壁から地道に切り崩していくしかない。その報告と次の指示を仰ごうとして、風見は降谷に話しかけようとした。降谷の双眸が大きく開かれたのは、その時だった。

「……何だ?」

 誘われるようにその視線の先を辿れば、仮屋瀬ハルの部屋のカーテンが開かれ、小さく開いた窓の隙間から彼女は静かにベランダに出ていた。
 ラフな服装は部屋着か何かに着替えたのだろうか、その両手には何かを所持しているようであるが、如何せん距離が開いておりそれが何であるのかが分からない。降谷も風見も、フロントガラスに齧りつくようにして目を細めて、それを凝視する。何度か右手を小さく動作させた後で、その手元にぼんやりと橙色の灯りが浮かんだ。
 マッチだと、風見は思い当った。しかし何故突然ベランダでマッチを擦るのか、降谷も風見もその答えに行き着かずに車内は沈黙が続いている。そうしてしばらくすると、右手の先に蛍のように移ったそれに、彼女はマッチの火を振り消した。

「……、煙草だな」
「……花井は、喫煙はしませんが」
「……知っているよ」

 降谷も風見も、眼前に広がる光景を、信じ難く見守るばかりである。
 マッチによる煙草の着火は、その味に格段の差が出ると聞く。要は燃焼温度の問題で、ライターの火では高温過ぎて煙草の味が殺されるのだ。一体誰が彼女にそんな知識を植え込んだのだろうか、しかしそのひと手間に拘る割には、彼女はそれを一口も吸う素振りはない。ただただ燃えて灰にになるそれを見つめては、時折真っ暗闇の空に視線を投げている。

「……、あの馬鹿は一体何をやっているんだ?」
「さ、さあ……。香りでも楽しんでいるんでしょうか?」
「はあ?」

 降谷に分からない事が自分に分かるわけがないだろうと、眉間に盛大に皺の寄った上司に風見は心中で文句を零す。
 たったの数分間、彼女はそうしてその煙ばかりを辺りに漂わせて、何をするわけでもなくさっさと部屋に戻ってしまった。閉まった窓と厚いカーテンは、今日はもう再び開かれる気配はない。その様子に降谷はスマホで時間を確認すると、漸く風見を見遣る。

「君は仕事に戻っていい。本庁まで送ってやりたいが、悪いな」
「いえ、それは勿論……、それより降谷さんは?」
「今日は一晩ここで頭を冷やすよ」

 言いながら降谷は、後部座席に腕を伸ばした。
 その言葉には、良かったと、風見はホッと胸を撫で下ろす。これから別の仕事に向かうなどと言われようものなら風見はまた降谷を宥めなければと思っていたのだが、彼は自分が冷静ではないことを自覚できる程度には冷静である。

 "あれは、律だよ。俺があいつを見間違えるはずがない"

 降谷はあの時、無意識に花井をそう呼んだ。風見が記憶する限り、降谷が業務中に彼女を下の名で呼んだ事はない。きっと以前にプライベートでそう呼んでいた名残であろうが、きっちりと使い分けていたその呼び名を混同してしまうのは、降谷からまだ動揺が抜け切れてはいない証拠だろう。そんな状態で仕事をして、取り返しのつかないミスでもされれば降谷が一番後悔する。

「中に、仮屋瀬ハルの毛髪と、指紋の付いたスプーンが入っている。鑑定に回して花井律との一致を示すデータを紙ベースで用意しておいてくれ」
「分かりました。二日程時間をください」
「仮屋瀬ハルとの約束は四日後だ。それまでで十分だよ」

 降谷から手渡された茶封筒の中身を目視して、その業務を最優先に仕事の順位を構築し直した風見は、早々に車のドアノブに手を伸ばす。帰宅時間は大幅に修正され更新されたが、何てことはない、いつものことだ。全くいつも抜かりがないなと証拠品の入った茶封筒を大事に鞄に抱えた風見が車を降りようとしたその時に、しかし降谷は風見に待ったをかける。
 振り返った風見に、小振りな白い紙袋が差し出された。 

「ポアロの残り物で悪いが。タンブラーにはコーヒーが入っている」
「えっ?」
「食事も取らせずに本当に悪かったよ」
「そんな……わざわざ、自分のために、」

 驚いて袋の中身を除くと、おそらく巷で話題の安室手製のサンドイッチと、サラダと惣菜が数種、そして銀のタンブラーが収まっていた。残り物のレベルではないではないかと、コンビニで夕食の購入を断った会話を電話の向こうで聞かれていたのだろう己の迂闊さを悔いると共に、部下を大切にする変わらぬ上司の気遣いには胸にじんわりと温かいものが広がっていく。
 降谷は元から多忙であるが、ここ最近特にその程度が甚だしい。最低限の法定休日を守っている風見と違い、降谷はその辺のブラック企業も恐れおののく程の仕事に忙殺されている。花井律の発見は、降谷の心を軽くする唯一の嬉しい知らせとなるだろうと風見は信じていたが、どうにもその雲行きが怪しい。これではその存在に降谷が足を引っ張られてしまうと、とうとう明かりの消えた仮屋瀬ハルの自宅を眺めて風見は思っていた。

「あいつが戻ったら、三人でゆっくり美味いものでも食べに行こう」

 ただ、やはりその美しい未来を想って笑う降谷を前に、風見は、今は花井の事は忘れてくれとはとてもではないが言い出せない。半年以上降谷が手を尽くしても掴めなかった尻尾をようやく掴んだのだ。降谷はきっと、死んでもこの機会を逃しはしない。
 そしてそうであるならば、自分は降谷が最高の仕事が出来るようにその環境を整えるだけだと、風見は再び、託された茶封筒をぎゅっと握り締める。
 寒空の下で白い息を吐き出しながら、風見は職場に戻るためにタクシーを拾った。降谷の寄越した夕飯の入った紙袋ばかりが、まだ僅かに、温かかった。


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