#20

 榎本梓は、大きな瞳をぱちりと開いて、そうして三度ばかり、瞼を瞬いた。
 喫茶ポアロにアルバイトが増えるとマスターから聞いた当時、梓は毛利蘭のような可愛らしい後輩ができることを期待して胸を躍らせていた。マスターは梓に豊富な知識でいろいろなことを教えてくれるし、年配の常連客達は皆梓をとても可愛がって良くしてくれてはいるが、どうにも年頃の梓には物足りないものがある。たまにはSNSで流行りのお店や商品について情報交換をしたいし、好きな若手俳優についてああでもないこうでもないと語り合いたいし、おすすめの美容法なんかを教え合いたかった。全てを叶えてくれとはもちろん言わないが、梓は気軽に恋バナでも楽しめるような、そんな年の近い女の子が一緒に働いてくれたら幸せだと、そう思っていた。だからマスターに、新人は梓よりも年上で、しかも男性だと聞いた時には、すっかり意気消沈したことを梓は今でも良く覚えている。

「あ、安室さん?大丈夫ですか?」

 安室透は、まさに完璧という言葉の代名詞のような男である。
 てっきり中年のおじさんアルバイトを想像していた梓は、年の近しい物腰の柔らかなイケメンの登場には、正直なところ沈下していたやる気が急浮上した。安室はとても親しみやすく、人懐こく、誰に対しても分け隔てなく優しい。頭脳明晰な上にとても博識で、話上手であるから非常にスマートに会話を運ぶ。仕事は全て満点の出来で余裕にこなすし、教えたことはもちろん、教えていないことまで抜かりが無い。周りに良く目を配っているのだろう、イレギュラーが起きても最早梓よりも早く臨機応変に対処して見せる。料理上手で彼の作るサンドイッチは大変な評判を呼んでいるが、なによりその甘いルックスに虜になる女性が多く、最近のポアロは若い女性客で溢れている。
 全く、欠点がないことが欠点とは、安室透のような人間のためのフレーズだろうと、梓は思っていた。今日のこの日、この時までは。

「安室の兄ちゃん?どうしたの?」

 毛利蘭が、安室さんは居ますかと店を訪ねてきたのは、つい二分前に遡る。
 忙しい昼時を過ぎたポアロは客の入りが少なく、蘭と入れ替わりで店を出て行った親子を除けば、カウンターにぽつりと常連客がひとり読書に勤しんでいるだけであった。話を聞けばどうやら安室に探偵業の方で依頼をしたい人物がいるようで、丁度順番に休憩にでも入ろうかと梓と相談していた安室は、その申し出を快諾した。本当の所は毛利小五郎への依頼であったようだが、彼は本日捜査会議への出席で生憎留守にしている。彼の一番弟子である安室ならば適任だろうし、依頼者も納得してくれることだろう。
 すみませんが先に休憩をいただきますねと、そう言いながら安室はキッチンからフロアに降りた。バイトの休憩中に別の仕事を入れるとは、彼も多忙なものだと、再び開かれた扉に梓は反射的に笑顔を拵える。安室透の右手から銀の盆が滑り落ちたのは、まさに、その時だった。

「安室さん」

 カランカランと高らかな音を立てたそれは、床の上で次第に小刻みに音を揺らして、そうして止まる。時が止まったかのように店内は数秒沈黙に包まれ、そうしてカウンター席で客が本のページを捲る音が聞こえてようやく、梓はハッとした。
 蘭が呼びかけ、そうして次にコナンが呼びかけたが、安室透は動けない。入店した客に対していらっしゃいませの一言も無く、大きな音を立てておいて失礼しましたの謝罪も無い。それどころか、コナンに手を引かれた依頼者であろうその女性の顔を、失礼だろうと言ってしまいたくなる程にじっと凝視するばかりである。安室の視線に気付いた彼女が怪訝そうに首を傾げた瞬間、梓は叱咤の意味を込めて安室の背を小突いた。

「……ああ、すみません。いらっしゃいませ」

 普段のような、流れるように滑らかな口調では決してない。ぎこちないどころか、多少に震えたその小さな声には、安室自身も驚いたようで右手で口許を覆っている。
 一体何事だろうと再び視線を戻した先では、女性は既に物珍しそうに店内を見回していた。梓は彼女に見覚えはないし、彼女のその行動からも、ポアロに来店するのは初めてなのだろうと思う。年齢は若く、二十代半ばかそこらだろうか。すらりとした身体に何処か儚げな雰囲気の漂う、可愛らしい顔立ちの女性である。

「お好きな席へどうぞ!メニューをお持ちしますね!」

 接客をど忘れしたかのように二の句を継がない安室には、梓がここぞとばかりにフォローに入る。その言葉に漸く我に帰ったのだろうか、安室はすぐにトレーを拾い大変失礼しましたと、蘭達とカウンター客に頭を下げた。
 安室さんがぼんやりするなんて珍しいですねと、えらく可愛らしい単語に事を収めた蘭はコナンと女性を連れて奥のテーブル席に向かって行く。いつもならば気の利いた返事を寄越すはずの安室はただ苦笑いを浮かべたまま、そうして目の前を通り過ぎた女性の背を見つめる頃には、その錆びた笑みすらすっかり失われていた。今までひとつの隙も見せなかった安室透に、これはどうにもスキャンダルの匂いがするなと、完全に野次馬目線の梓は人数分のグラスに水を注いでいく。

「すみません、梓さん。助かりました」
「いえいえ。それより、あの女性はお知り合いですか?」
「……いいえ?初対面ですよ」
「またまた。うっかり訳アリの元カノに出くわしたみたいな顔してたじゃないですか」
「……ハハ、まさか」

 しかし、そうだとしても彼女の反応はあまりに淡白だったなと、梓は思い返しながらおしぼりの数を数えた。そもそも安室の訳アリの元カノが、うっかり安室に仕事の依頼などするはずもないしと、梓は振り出しに戻る。
 実は幼い頃に生き別れた妹で、安室ばかりがその大人になった姿に気付いたという展開はどうだろう。使い古した脚本のようではあるが、大変胸が熱くなる。あるいは、交通事故で記憶喪失になってしまった恋人との再会という、それこそありがちな連続ドラマのような展開も悪くはない。どちらかと言えば梓は謎に包まれている安室の恋愛事情の方を垣間見たいと、あることないこと、乙女脳の梓の妄想が当人らの知らぬ所で広がっていく。

「ついでにもうひとつ、助けてもらえますか?」
「何でしょう?」
「電話を一本掛けてきたいので、彼女達の注文を取っておいて頂けると、」
「もちろんです!」

 食い気味にそう言うと、安室は梓の勢いに圧倒されたように若干引き気味に笑い、二分で戻りますからと従業員用の扉の向こうへ消えた。
 さて、彼は一体誰に何のために連絡を取るのだろうと、安室のようには論理的に答えを導けない梓はしかし、その謎を心から楽しんでいる。関わるなと言われたとしても関わりを持ちたかった奥のテーブルに向かい、梓は正体の知れないその女性ににこやかに笑いかけ注文をメモした。

「初めまして。安室透です」
「突然すみません、仮屋瀬ハルと言います」
「……仮屋瀬、ハルさん」

 宣言通りに二分で戻った安室は、梓から通ったオーダーを手際よく用意すると、ピッチャーを片手にようやく彼女と言葉を交わした。コナンにオレンジジュース、蘭にレモンティー、ハルにはカフェオレを差し出しながら、ゆっくりとその名を確かめるように呟くと、僅かに目を細める。
 その二分間で上手く気持ちを切り替えてきたようで、彼に先ほどのような動揺は見て取れない。そうしていつものように、依頼者からひとつでも多くの情報を搾り取ろうと、彼女を見定めている。

「安室さんに任せておけば心配ないですよ!彼、毛利さんの一番弟子ですから!」
「……へえ。そう、なんですか」

 ここは少しでも安室の株を上げておこうと、フォローのつもりでそう言ったはずの梓はハルの何とも言えない反応に思わず首を傾げる。喜ぶところであって、落ち込むところではないだろうと、梓にはハルの思考回路が分からない。よっぽど毛利探偵に心残りでもあるのだろうか、しかしハルだって安室の実力を知れば、そうして気落ちする必要など爪の先ほどもないことを理解してくれるとは思うのだが。

「それで、ご依頼というのは?」
「え?ああ……、」

 ハルは、言い淀む。
 ここはもうひとつ、今度こそ的確なフォローをと思い口を開こうとした梓には安室が、梓さんあちらのお客様のお水が空ですよと、まるで邪魔者扱いである。しかしその指摘を無下にもできない梓は慌ててキッチンに戻り、常連客のグラスに水を足した。幸い静かな店内に、梓は聞き耳ばかりを立てている。

「その……探して欲しい人が、いて」
「なるほど、人捜しですか……その方とのご関係を伺っても?」
「……ああ、ええと、」

 やはり、ハルは言い淀む。
 人を探して欲しいと言う割りには、なぜか彼女はその人物の情報提供を拒んでいる。やはり安室にまだ信頼が置けないのだろうか、それとも何か別の懸念があるのか定かではないが、これでは話が一向に前進しない。安室も安室で、普段であれば相手が口籠れば、質問を変える程度のイニシアチブを握りそうなものであるが、なぜかこちらも押し黙ったまま彼女の返答を待っている。安室にとってその関係性がそれほど重要なことなのかどうか梓には判断できないが、先程からこれではまるで尋問だ。
 ここはやはり、私がその停滞した空気を一掃するべきだろうかと、再び奥のテーブルに舞い戻るための理由を探し始めた梓の耳に、その時鶴の一声が届いた。

「ねえ、もしかして、その人ってハルさんの恋人なんじゃない?」
「えっ?」
「ちょっと、コナン君!」

 ジュースを啜って大人しくしていたはずのコナンは、子供の特権を利用してずかずかと踏み入った質問を投げかける。すみません、この子、探偵ごっこが好きでと、そう慌てて謝る蘭を横目に梓は小さくガッツポーズをした。
 既に空になっていた蘭のお冷を継ぎ足そうとしていた安室の右手はぴたりと固まり、藪から棒な指摘を受けたハルは俄かに顔色を変える。ゆっくりと彼女を振り返った安室は、その表情を、無言のままただ眺めている。さて次は何が飛び出すのだろうと、梓は高鳴る心臓を抑えられない。

「……ううん、恋人じゃないよ」

 しかし、ハルは吐き出すように小さく笑うと、そう続けた。
 ふうんと、コナンはどうにも納得がいかないのかジト目で律に視線をやったまま再びストローを咥える。なんだ、違うのかと、緊張していた身体が解れたのは梓ばかりではなく安室も同じだったようで、弛緩したその手は蘭のグラスに水を継ぎ足していた。

「でも……恋人よりも、大切な人だったかもしれないの」

 ハルは今にも泣き出しそうな顔をして、ぽつりと零れた台詞にその時梓は、どうにも胸が締め付けられる思いがした。ああ、彼女は本当に大事な人を失ってしまったのだと、たったその一言に込められた哀愁に、つい先ほどまで面白半分で話を盗み聞いていた自分が恥ずかしくなる。
 コナンはその言葉にゆっくりとストローから口を離して、そうして何かを言いかけて口を開いた。しかしそれより、少し気まずそうに、その心中を推し量って唇を開いた蘭の言葉が早かった。

「もしかして、ご家族とか……あっ、安室さん!」
「え?うわっ!」

 グラスに注がれた続けた冷水は、その縁から勢いよく溢れ出す。安室は蘭の声に慌ててピッチャーを傾けるが、既に時遅い。本当に、彼は一体何をやっているのだろうかと、梓は布巾を片手に急いでフロアに降りた。
 あれではただのドジっ子だ、平静時の安室からは考えられないような失態の連続だ。先ほどの二分間で頭を切り替えてきたのではなかったのだろうか、ここまでくるともしや何かの作戦かと疑いたくなってしまう程の惚けぶりである。安室自身もその己の粗相には顔を引き攣らせて、体調でも悪いんですかと心配の眼差しを向ける蘭から目を逸らしている。動じぬのは、暗く視線を落としてしまったハルと、その様子をじっと見つめるコナンばかりである。

「……あの、やっぱり、大丈夫です」
「え?」
「もう少し、帰りを待ってみます」
「いや、ちょっと、」
「時間を取らせてしまって、すみませんでした」

 それ見たことか、安室がドジばかり踏むからと、おそらくそればかりが原因ではないだろうが、ハルは徐に立ち上がる。安室が淹れたカフェオレには一口も手を付けないまま、伝票を抜き取りぺこりと頭を下げた。
 レジに向かって行くハルの背を反射的に追いかけようとした足を、梓は止める。本当にこのまま帰してしまっていいのだろうか、彼女はきっとその、恋人よりも大切な人をずっと探しているというのに。悲痛に歪んだハルの横顔が忘れられずに、梓はもう一度だけと、その名を呼ぼうとした。

「……っ、仮屋瀬さん!」

 しかし、刹那、安室が先にその名前を呼ぶ。同時に彼女へと伸びた手は、その細い手首を荒く掴んだ。振り返ったハルと安室の視線が俄かに交わって、ハルは驚いたように、次には痛い程に掴まれた己の手首を見遣る。しかし、離れてはくれないその骨ばった男の右手に、困惑した眼差しでまた安室を見つめた。
 依頼はしないとはっきりと明示した彼女をそうして引き留めて、あろうことか初対面の女性の手首を握り締めるなど、紳士の安室透のやることではない。その衝動には隣でとうとう蘭とコナンまで目を丸くする。良く知っているはずの安室透が、どうにも全然知らない別の男のようだと、梓は思った。

「行かないでください」
「……はい?」
「必ずあなたの力になります。僕が必ず、その人を見つけ出しますから」

 言葉ばかりがその依頼の遂行を掲げているが、実際の所、それは仕事への執着などではない。
 これではまるで彼の方が、大切な人を離しやしないとする恋人か何かのようだ。

「だから、行かないでください」

 その声は、仮屋瀬ハルにばかり真っ直ぐにに突き刺さる。彼女は、そう懇願する男の双眸から、目が逸らせない。
 果たしてそれが本当に彼女の本心であったのかなど分からぬままに、ハルは小さな声で、男の願いを肯定した。


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