#19

 花井律は、もう何度目となるかも分からないその留守録の再生を止められず、そうしてまた静かにスマホを耳に当てた。もしもこの電話を取れていたのならと、律はそうしてまた同じ事を考えている。
 あの日、律は前日からの体調不良を引き摺っており、高熱に魘されたまま喫茶リーフのバイトにも行けず自宅で療養をしていた。残暑が過ぎ、気温の落差が激しくなった頃だったと思う。熱の他、頭痛や寒気、全身の倦怠感といった各種症状に悩まされ、とりあえず薬局に向かおうと家を出た所で様子を見に来た葉子とばったり出くわしたのである。
 永倉には連絡したのかと問う葉子には、律は子供でもあるまいしと口をきいた。単なる反抗ではない。赤井は律の夢見が悪いことを心配して、夜はもうずっと律の家に帰っていたし、帰れぬ日はたとえ短時間でも電話を寄越していたのだ。それがパッタリと止んだということは、電話すらする暇がない程忙しいわけで、熱が出たなどと園児のようなことを言ってその手を煩わせたくはなかった。結局、葉子が何かと世話を焼いてくれたおかげもあり、食事をとって薬を服用した律の熱は夕方には微熱まで下がった。明日からはまたバイトに出ますと、それだけ葉子にメールをして律はそのまま布団に潜った。前日からほとんど眠れていなかったせいだろうか、三度も鳴ったはずの電話の音に気付かず、そうして朝まで眠りこけてしまった。

「ハルちゃん。今日、お昼で上がっていいから」
「え?」
「急用ができちゃって」

 ごめんねと胸の前で手を合わせた葉子は、それだけ言うと慌てて店内へ戻っていく。
 葉子は、急用が増えた。何やら副業のようなものをしているとは本人の口から聞いていたが、最近は本業の方をやたらと圧迫しているように思う。律はスマホをポケットに突っ込むと、残り僅かと設定された勤務時間を思い、葉子の後を追った。

「ハルちゃん。今日の東都新聞を貰える?」
「はい。お持ちしますね」

 もう随分と、仕事も手慣れたものだ。常連客の顔と名前は全て頭に入っているし、それぞれの性格や嗜好、注文の傾向や座りたい席の位置まで把握できている。しかし、彼女が新聞を要求したことは今まで一度も無かったはずだと、頭の中にそのデータを書き加えながら、品の良い婦人が広げた新聞に律は興味本位で尋ねた。

「面白い記事でも載っているんですか?」
「ふふ。実はね、私、ファンなのよ」

 この人のと、そうして綺麗に手入れされた爪の差した先には、気の良さそうなちょび髭男性が堂々とキメ顔で写真に写っている。毛利名探偵がまたまた解決!と、大きく見出しのついた記事を律も一緒になって覗いた。
 彼の名には、聞き覚えがある。彼女のようにファンというわけではないから詳しくはないが、何かの事件を解決してテレビで大量のフラッシュを浴びている映像を目にしたことがある。またまたと文字が躍っているように、彼は難事件をいくつも解決しているようで、本当に凄腕の探偵なのだろうと婦人の隣で律も感心した。

「鍵、いつものとこにお願い」
「わかりました。いってらっしゃい」

 急ぎ足の葉子を送り出して、誰も居なくなった店内で律はカウンターの一席に腰掛けた。婦人の読み終えた新聞をパラパラと捲るが、興をそそられるものもなく、そうしてまたスマホに手を伸ばす。
 来葉峠で車両炎上、並びに焼死体が発見された記事が新聞の片隅に掲載されたのは、もう二カ月も前のことになる。律は当時そのニュースを知らず、葉子に話を振られて初めてその事件の概要を知った。それからというもの律の関心はその一件に付きっ切りであり、見覚えのあるシボレーと、二、三十代男性といったその僅かな手がかりしか分からぬ事件を、もうずっと心に留めている。しかし、赤井の乗っていた車のナンバーなど律は失念してしまっていたし、本人確認をしようとも遺体は丸焦げで右手の一部しか残ってはいないらしい。赤井の指紋の提供ならばほぼ同居状態にあった律には可能であるが、かと言って律が警察に出向くわけにもいかず、そもそも律が出て行った所で赤井当人の確かな身元を説明できない。
 まさか、赤井のわけはないだろうと、律はそう何度も他人事に思い込もうとしていた。しかし赤井は、律のスマホに意味深なメッセージを残して以来、消息が途絶えている。その事件が発生する、数日前の出来事であった。

『お掛けになった電話番号は、現在電源が入っていないか―……』

 律はその留守録を聞いて、翌々日の午後には赤井に電話を折り返した。

 "君は全てを知りたいか?"
 "それとも、全て知らないフリをして、俺と生きてくれるか?"

 提示されたその二択に、答えが出たわけではない。二日頭を悩ませても律にはどちらとも選ぶことが出来ず、それから音沙汰の無い赤井ととりあえず連絡が取りたかった。
 コールは鳴った。しかし赤井は出なかった。時間をおいてもう一度鳴らした。それでも赤井は出なかった。電話もできなくなると言っていたから、本当に忙しくしているのかもしれない。律はそうしてしばらくの間、鳴らない電話を放って私生活に集中した。しかし、はたと思い当る。しばらく会えないとは、一体どれ程の期間のことを言っているのだろうと。
 気付けば再び、律はスマホに手を伸ばし、同じ番号をタップしていた。もうコール音は鳴らず、淡々とした電子音声が流れるばかりだった。

『お電話番号をお確かめの上、もう一度、』

 もう二度と、連絡を取ることなど出来ないのかもしれないと、律は机上に荒々しくスマホを放った。ガツンと壁にぶつかった衝撃音が、店内に虚しく響き渡る。
 眠りの浅くなった夜に、律はその扉が俄かに開くことを期待して、玄関に座り込むようになった。そんな日が何日も続いて、久しく見ていなかった悪夢を、また見るようになった。言われた通りの引き出しを開ければ、以前一度試して効き目のあった薬が数カ月分は入っていて、無くなったり効き目が薄くなったら蕪木に相談をと、そう走り書きされたメモがひらりと落ちた。ああ、彼は帰って来る気がなかったのかもしれないと、その時ようやく、そう思った。
 ぺらりぺらりと新聞の角を、持ち上げては下ろし、持ち上げては下ろす。意味のない動作を繰り返しながら、律は考え続けている。

 ―わたしは、あの男が、好きだったのだろうか。

 どうして今まで一度も考えた事がなかったのだろうと、今となっては不思議になるくらい当然の疑問である。
 仮屋瀬ハルと永倉圭の関係は、恋人からスタートしてしまっていた。二人が元から恋愛関係にあったなどということは、律は当初から疑っていたし、今ではもう微塵も信じてはいない。しかし、その前提は否が応でも当時二人の距離を狭めたし、記憶を失い天涯孤独のような身になった律にとっては、唯一身内と呼べるような近しい存在でもあったのだ。
 あれ程過去を知りたかったはずの律の手を止める程度には、律は赤井に信頼を寄せ始めてていた。朝は共に起きて、そうして律の作った朝食を二人で食べる。洗面台で並んで歯磨きをしながら、寝癖の位置を教えてやる。他愛ない話を繰り返しながら一緒に家を出て、帰るのは律の方がずっと早い。赤井の帰宅を待って、おかえりと声を掛ける。赤井はいつも律の話を聞きたがって、大して変わり映えのしない律の一日を、赤井は愉しそうに聞いていた。夜は隣で眠るのが、当たり前になっていた。
 たとえそれが嘘まみれの関係だったとしても、赤井と過ごす穏やかな日常を、律はいつの間にかそうして愛してしまっていた。

「……いつまで、待たせるの」

 必ず戻ると、赤井は言った。何度聞いても身勝手だと、律は思った。
 律の言葉すら聞いてはくれずに、大切な話を一方的にそう留守電などに残して、どうして突然姿を暗まさなければならなかったのだろう。生きているのか死んでいるのかすら定かではない男を、律は一体いつまで、そうして何のために、待ってやればいいのだろう。一層の事、さよならと別れを告げてくれた方が楽だったのだと、思いとは裏腹に律は唇をぎゅっと噛む。
 ぱらりと落ちた新聞の一面で笑っている名探偵の顔を、律は静かにじっと見つめた。さっぱり何を考えているのか分からないあの男を見つけ出し、その頬を一発引っ叩いて、勝手な事ばかり言うなと言ってやらなければ気が済まない。静まり返った店内に、律が椅子を引く音が、やけに大きく響き渡った。

『次は米花町〜米花町〜。お降りのお客様は―……』

 米花町五丁目の一角に構えられたその探偵事務所に、律は案外と容易に辿り着くことができた。律の最寄り駅から二度の乗換が必要であるが、距離はそれほど遠くはなかった。三階建てビルの二階の窓には大きくその事務所名が書かれており、見間違えようもない。一階はどうやら喫茶店が入っているようだと、玄関先に置かれた小さな看板を横目に、律はビルの階段を上った。
 探偵事務所を利用するなど、もちろん初めての経験である。名前すら偽名の可能性がある人物の捜索など請け負ってもらえるのだろうかと、多少の不安と緊張を抱えながら律は扉をノックする。最悪、断られたとしても仕方あるまい。人探しのプロに、そのノウハウや知恵を授けてもらえるだけでも相談の価値はある。

「……、失敗した」

 そう意気込んだはずの律は一転、扉の前で項垂れた。三度程叩いた扉は開かれることはなく、念のためドアノブを回してはみたものの、ガチャリと音を立てて訪問者を阻むばかりである。何をやっているのだろう、アポ取りは基本だろう、社会人として。そう無計画にここまでやって来てしまった自分を呪いつつ、律は今し方上ったばかりの階段を下りながら、次のシフトの休みを思い出していた。
 思えば世間を騒がす程の有名人である毛利探偵の許には、次から次へと依頼が舞い込んでいるのかもしれない。軽い気持ちで相談などと思ってはいたが、自分の些末な人探しなど、相手にしてもらえるのかすら微妙なところである。今日のところは諦め、きちんと電話をして次の休みにでもアポをとってみて、取れぬようならばそこまでして毛利探偵に拘る必要もない。赤井の行動範囲であった、より近場で他の探偵に依頼をしてもいいのかもしれない。

「あれ?お客さんじゃない?」

 律が階段を下りきって地上に辿り着いた時、しかしながらそんな可愛らしい男の子の声が耳に届いた。ふらりと視線を向ければ、赤い蝶ネクタイの印象的な小さな眼鏡の少年が、高校生くらいのこれまた可愛らしい髪の長い女性に手を引かれている。
 少年の言葉は自分に向けられたような気もするがと、律は次にはキョロキョロと辺りを見回した。しかし、自分の他に通行人などいない。私に言ったのだろうかと改めてその二人組に目を遣ると、人の良さそうな笑みを浮かべながら女性は律に駆け寄った。

「ご依頼ですか?」
「え?」
「私、毛利小五郎の娘の、毛利蘭と言います」

 その第一声には、彼女はもしかしたら事務所の事務員か何かなのかもしれないと思った律に、蘭は続けて答えをくれた。反抗期など知らぬまま生きてきたような、明るく礼儀正しい素直な娘だ。成程、それで事務所のあるビルから降りてきた自分に声をかけたのだろうと納得する律の傍らでは少年も口を開く。

「僕、江戸川コナン!小学一年生だよ!」

 こちらはこちらで、ハキハキと物怖じしない男の子だ。
 しかし律の関心は、既にその名前の方に移っている。キラキラネームのそれにではない。最近は驚く程若い母親も多いしと、始めの内は親子のようにも思えた二人の関係であるが、どうにもやはり、小学生の子供を持つには彼女は若すぎる。ならば姉弟だろうと思考を翻したはずが、聞き間違えようのない程に二人の苗字は明らかに違っていた。
 訳の分からぬままに、しかし名乗られた手前こちらも沈黙を守るわけにもいかない。それに、毛利探偵の身内に先に邂逅できたとなれば、もしかしたらこのまま彼を紹介してくれるかもしれないと、淡い期待を胸に律は開口する。

「仮屋瀬ハルです。初めまして」

 蘭に向かって軽く頭を下げて、そうして律はコナンに笑いかけた。無邪気に笑っていたはずの少年の表情が刹那僅かに凍った事に、律は気付けない。仮屋瀬ハルさんと復唱する蘭には、毛利探偵に仕事の依頼に伺ったことと、約束を取り付ける事を忘れたことを伝える。コナンばかりが、その名前を引きずったまま、律の横顔を静かに眺めている。

「すみません。父は今、警視庁の捜査会議に出ていて……」
「け、警視庁?」
「ええ。捜査協力です。昔、刑事をしていた関係もあって、頼まれる事が多くて」

 申し訳なさそうに語る蘭を前に、律はくらりと眩暈を覚えた。
 確かに毛利探偵は難事件を数々を解決していることは知っていたし、そうであるからこそ律も彼に依頼を引き受けてもらいたいと思っていた。しかし、まさか一介の探偵が警察に捜査協力を求められようとは思いもしない。その口振りから察するにそれは今回限りといったものでは到底ないし、毛利探偵がいかに警察と懇ろであるのかということを律にまざまざと思い知らせる。
 冗談ではないと、律は思った。律がわざわざ警察を避けて探偵に依頼をしようと思ったのは、律自身が警察それ自体を敬遠しているからである。赤井の消息を調べるにあたって、どうしたって律の身の上を話さなければならないし、それに万に一つ件の焼死体が赤井だとなれば、彼は人気のない峠で撃ち殺された挙句燃やされるような大変身の毛のよだつ事案に携わっていたことになる。むやみやたらに公にできることではないし、だから依頼者の利益を守るであろう探偵に、律は秘密裏に依頼をしたかったのだ。

「夕方には戻る予定なので、それまで中で、」
「……あの、やっぱり、いいです」
「え?」
「お忙しそうですし、他の方をあたりますから」

 米花町まで足を運んだというのに、全く最高にツイてはいない。いや、しかし何も知らぬままに毛利探偵にぺらぺらと事の経緯を話してしまうリスクを回避したことは、幸運だったと言えよう。たまたま新聞で見つけ思い付きのままに行動したことが、いけなかったのだ。探偵に調査を依頼する案は悪くは無かったが、如何せん、下調べが足りなかった。やはり彼のような公人に近い人間は避けて、もっと名の知られていない、表とも裏とも取れぬグレーゾーンに生きているような探偵を探さなければならない。
 引き留めようとする蘭には御礼を伝えて、律は早々に踵を返そうとした。それならばと、彼女はその時、律の腕を掴んだ。

「腕利きの探偵をご紹介します!」
「え?」
「若い方ですけど、とっても頭の切れる方なので、きっと力になってくれますよ」

 ね、と首を僅かに傾げた蘭は、きっと溢れる善意で律の手助けをしようとしてくれている。
 正直、優秀な人材の紹介は有難い。実際、律はこれから別の探偵を探すつもりであったが、探偵業にコネクションなどあるはずもなく、ひとまずネットで検索をかけるつもりでいた。いくら前評判を調べようとも、結局は当たり外れなどは分からないし、毛利探偵のように名が知られていない分、身元の保証もできはしない。
 それならば、目の前の女性の提案を受けるのもいいかもしれない。彼女は毛利小五郎の娘で、それなりに他の探偵との繋がりを持っているのだろう。まずは、その若く聡明な探偵の詳細を、警察と深いパイプを持つ毛利小五郎とあまり癒着していない事を特に確かめた上で、仕事の依頼を決めたらいい。そんな明確な思惑を持って、でしたら話だけでもと、律は蘭に伝えた。

「良かった!少し待ってもらえますか?話が出来そうか聞いてきますね」
「へ?話って、え?」
「彼、ここの喫茶店の店員なので!」

 ちょっと待ったと、伸ばした律の右手は空を切る。喫茶ポアロと書かれた店を指差しながら、嬉しそうに駆けていった蘭の姿は店の扉を潜りすぐに見えなくなった。
 そうではない、そうではないのだと、律の思考回路は急回転する。私はその探偵に話を聞いてもらうと言ったのではなくて、とりあえずその探偵について蘭から話を聞きたいと言ったのだ。確かに私の言葉も足りなかったのかもしれないが、それにしたって紹介するといった探偵がすぐ目の前の喫茶店で働いているとは思わないだろう。
 律は窓ガラスに浮かぶ喫茶ポアロの文字を眺めて、そうして二階の毛利探偵事務所の文字を見つめた。彼の事務所の真下で働く探偵が、毛利小五郎と癒着していないわけがない。そもそも、確かに律は毛利小五郎よりもアウトローな人材をと思ってはいたが、それは探偵業の片手間に喫茶店で働いてしまうようなお飾り探偵のことではない。
 彼女が戻る前に、逃げてしまおうか。社会人どころか人として、最低な考えが脳裏を掠めた律の右手が、その時ぎゅっと握られる。

「ボクもお姉さんのお話聞きたいなあ」

 にこやかなその顔と言葉とは裏腹に、少年の小さな手は力強かった。
 何と言って彼を言い包めようかと思案している内に、カランと鳴ったベルの音と共に再び蘭が店から顔を出す。コナンに連行されるかのように手を引かれながら律は、重い足取りで浮かない顔のまま喫茶ポアロの扉を潜った。


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