#18

 カランと金属音を響かせて、封を切ったばかりのコーヒー缶は、少しばかりその中身を散らして赤井秀一の足許に転がった。

「ちょっと大丈夫!?」

 コーティングを施したばかりの指先の具合がまだ馴染まず、横に倒れたそれを次は手中にしっかりと握り込む。赤井にその案を授けてくれた江戸川コナンはその様をちらりと一瞥するが、その思惑を何も知らぬままのジョディは慌てて赤井に駆け寄った。

「ロクに寝てないんじゃないの?目の下に隈できてるし……」

 缶コーヒーひとつ取り落としたくらいで大袈裟なと思いながらも、今後やたらと物を掴み損ねては周りの目には不自然に映るだろう。しばらくの間は注意しなければと赤井は己を戒めながら、不安な表情で詰め寄るジョディを宥めた。
 いつ仕掛けてくるとも分からない連中に、現場には嫌な緊張が張り詰め捜査官の気は立っている。ただでさえ、目下最大のキーマンであった楠田陸道を拳銃自殺させるという失態を犯した夜だ。過ぎた事をとやかく言っても仕方が無いが、皆複雑な胸中は同じだろう。

「まあ、警備がてら外の空気でも吸ってきますよ」

 それも、早ければ明日にでも、ひとつの結末を迎えることになる。
 ようやく掴んだ糸口を決して逃してなるものかと、赤井は滑らかなその指先をなぞった。敵を欺くにはまず味方から、共に闘ってきた仲間にすら本当の目論見など伝えることはできないと、自分に何か言いたげなジョディと上司のジェイムズを部屋に残して、赤井は病院の一室を後にした。
 とても、静かな夜である。真っ暗な空に浮かぶ三日月には薄く雲がかかるが、よく晴れており思えば最近雨も降ってはいない。薄暗い院内を歩きながら、赤井はスマホの通知を確かめる。先ほど二件の不在着信を残したはずの彼女からは、まだ折り返しの連絡がない。よりにもよって今日この日にどうして連絡が取れないのだろうと、もどかしさを感じながら赤井は人気のない中庭に出た。

『お留守番サービスに接続します。ご用件のある方は―……』

 空気は少しひやりとして、肌に冷たい。背の高い樹の幹に凭れながら、再び鼓膜を撫でる無機質な音声に、赤井は吐息した。
 ここ三日程、赤井は律の部屋に帰ってはいない。ジェイムズの知り合いである院長に借り受けたこの杯戸中央病院の一室と、日本での拠点であるオフィスを適宜行き来しているばかりだ。自覚できる程の重苦しい疲労感には、自分も明日に備えて仮眠を取らねばならない時間が近付いている。
 今日を逃せばもしかすると、もう彼女に連絡を入れることはできなくなるかもしれない。赤井はようやくその電子音にメッセージを残すことに決めて、ゆっくりと唇を開いた。

「何度も悪かったよ。君に伝えたいことがあって」

 一方的に喋り続けなければならない留守録に、赤井は辟易とする。
 キールを病院に匿っている以上、いずれは奴等が奪還に来ることは予想の範疇であっても、まさかそれで自分の死を偽装しなければならなくなるとは露ほども考えてはいなかった。例の少年との計画はこれ以上ないほどの良策であるが、赤井の心に一抹の不安を残している。
 自分はどうなったとしてもいい。赤井秀一という人間が死のうとも、別の人間として生きることになろうとも、己の悲願である組織を潰す一助になるのであるとしたら、一縷の躊躇いさえなく喜んでこの身を献上しようと思う。だがしかし、彼女は別だ。赤井秀一、もとい、永倉圭を突然消滅させるわけにはいかない。だから今はどうしても、律の声が聴きたかった。

「しばらく会えなくなるんだ。電話もできなくなる」

 この日を予想できていたのならば、赤井は無理やりにでも、こうなる前に律と話をしていただろう。
 律との穏やかな時間は永遠ではない。自分の正体をいつまでも隠し通せるわけでもないし、律の記憶が半年戻らなかったからと言って二度と戻らないわけでもない。彼女が全てを望むのならば、事の顛末を全て明らかにして、彼女の希望を叶えてやる責任が自分にはある。

「薬のストックは一番下の引き出しにあるから、眠れない日は飲むといい」

 必要な連絡事項だけ先にまくし立てて、赤井は、数秒沈黙した。無理やりにでも彼女に話をしていただなんて、なんて酷い嘘だろう。
 勝手な男だなと、その時、思った。元を辿ればこうなったのはあの時、夏葉原の事件で自分が欲をかいて律を懐に抱き込んだからだ。一向に戻らない過去の記憶に、赤井は本当は何度だって律に真実を告げるタイミングがあった。それでも赤井は、差し迫った今この時でさえ、それを伝えることを躊躇っている。
 今やもう、赤井は律に公安捜査官としてのパイプなど欠片も期待してはいない。むしろ仮屋瀬ハルとして、そうしてずっと自分の手元で生きることを望んでしまっている。

「……必ず戻るから、待っていて欲しい」

 こうして離れがたい程に、一体いつから彼女に惹かれてしまっていたのだろう。赤井には、それが分からない。
 赤井秀一は、近々死ぬ。そうでなくとも、何かひとつの過ちで、そこに行き着くまでにくたばってしまう可能性もある。必ず戻るなど、本当は決して口にしてはいけない約束だ。

「ハル。君は全てを知りたいか?」

 強い風が、ザアッと木葉を揺らした。
 それに吹かれた雲が晴れたのだろうか、赤井の顔に薄く月光が届く。

「それとも、全て知らないフリをして、俺と生きてくれるか?」

 サラサラと、擦れた葉の音が、そうして、止んだ。一際長く鳴った電子音に、赤井がスマホを耳から離すと、通話終了の表示が暗く浮かんだ。
 これではまるで誘導尋問だなと、律の電話に情けなく残ったであろう自分の声に、赤井は嗤う。仄暗い月を眺めながらスマホをポケットに押し込んで、辛うじて一本だけ残っていた煙草を咥え、マッチを擦ろうとした。カサリと微かに落ち葉の踏む音が聞こえたのはその時で、赤井はハッとして顔を上げる。逃れられやしないと早々に諦めたのだろうか、少年はへらりとわざとらしく笑いながら、赤井の前に姿を現した。

「ご、ごめんなさい。盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど……」

 キールに盗聴器を仕掛けた当人が、よく言えたものだと赤井は江戸川コナンをじっと見つめる。
 彼は一体何者なのだろうか、赤井にはまだその正体を掴めてはいない。組織の一員であった楠田陸道の特定の手腕も、この度のキール奪還に伴う作戦の立案も、どう考えても小学一年生の頭脳によるものではない。その可愛らしい頭の中身には人工知能でも詰まっているのではないかと、馬鹿馬鹿しい思考に赤井は咥えていた煙草を箱に戻した。

「あのさ、聞いてもいい?」
「何だ?」
「……赤井さんって、もしかして彼女がいるの?」

 聞きづらそうに眉を少し下げたその表情には、ませたガキという印象は微塵もない。唯一今回の真の作戦を共有している彼は、心から赤井の身の上を心配しているのだろう。
 しかし、既に彼との計画は水面下で始動している。今更引き返すことなどできないし、赤井の生存はトップシークレットであり、家族や同僚に対しても打ち明けないことを最初に打診してきたのはコナンの方だ。恋人だけは特別というわけでもあるまいしと、赤井は笑う。

「ボウヤが気にする事じゃない」
「でも、」
「話はそれだけか?」

 ジョディといいこの少年といい、どうも律に電話をかける時自分は油断しているのかもしれない。
 次回は周囲に気を付けようと思いながらも、はたと、次回などあるわけもないのにと、再び雲の掛かった月を赤井は眺めていた。

「もう、赤井秀一として、会えなくなるかもしれないよ?」
「……構わないさ。死ぬのは、"赤井秀一"だからな」
「……どういう意味?」
「ハハ。さあな」

 赤井は歩き出し、怪訝な表情を浮かべたままのコナンの隣を通り過ぎていく。
 とても静かな夜で、そして、とても長い夜だった。どうしても眠れずに、夜明けまで待っていた律からの着信は、やはりなかった。花井律への想いを強引に思考の外へと追いやって、赤井は職務を全うするために、早朝の作戦会議へと向かった。

『炎上したのは黒いシボレー。中に乗っていたのは二十代から三十代の男性で、』
『遺体に拳銃で撃たれた跡が残っている事から、警察では殺人事件と見て捜査を――……』

 数日後、杯戸中央病院の一室で、キールをスパイとして組織に送り込む事に成功したはずのFBI捜査官らは、騒然としていた。組織に戻ったキールに呼び出された赤井が来葉峠に向かったことをジョディが知ったのは、偶然別の事件に巻き込まれていたキャメルを引き取り戻った後であった。テレビの中でアナウンサーの永倉圭が淡々と読み上げていくその事件に、映像の中央にはポールに囲まれ煙を上げた赤井の愛車が映し出されている。
 すぐに警視庁に向かったジョディは、焼死体となって発見された男の残った右手の指紋を、赤井秀一のそれと照合させた。刑事から聞かされた「一致」の一言に、ジョディは放心し、ジェイムズの乗るその車内で悲痛な叫びをあげて泣いた。十三日の金曜日の出来事であった。


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