#17

 ただ瞼を閉じているだけかに思われたその端整な横顔が、こくりとほんの僅かに前傾したことを蕪木は見逃さなかった。
 仕事の合間に時間を見つけ顔を出すと伝えられてはいたが、実際今は午後十一時半を少しばかり過ぎた頃である。君は一体いつまで仕事をするつもりだと、その問いかけには赤井は、遅くにすまないなとまるで回答には掠りもしない返事を寄越しただけだった。あまり時間もないからと言う赤井を無理やりに引き留めて、時間をかけて効用のあるハーブティーを淹れてやる。少しは自分の身体も労わって欲しいものだと、用意しておいた薬の袋を片手に蕪木は声を掛けた。

「秀一。君もあまり眠れていないのかい?」

 ハッとしたように瞼を開くと、赤井は驚いたように視線を寄越す。睡魔に襲われた気などなかったのだろう、パチパチと長い睫毛が上下する。
 その目の下に浮かんだ一層濃い隈を横目に、向かいの席について淹れたての茶を置けば、悪いなとまたバツが悪そうに赤井は言った。

「頼まれていたものだよ。寝る前に服用させるといい」
「ああ、助かるよ」
「大抵はこれが効くと思うけど……彼女、そんなに酷い夢を?」
「……、そうみたいだな」

 あの娘はあまり俺にそういう事を話さないからと、赤井は苛立ったように言葉を吐いて、袋の中身を確かめた。
 自業自得だろうと、蕪木は思う。赤井は律に未だ何も話してはいないようであるし、にもかかわらず、彼女にばかり全てを開示させるのは傲慢というものである。せめて知り得る情報を与え尽くして、白黒ハッキリとつけてからそう悩むべきだろうと思うが、依然として赤井の狙いが分からない蕪木には簡単にそうも言えない。記憶の喪失を一過性のものだろうと楽観視できていた頃の赤井はまだ律との歪な関係を楽しむ節があったが、半年が経過しても戻らない彼女の過去に、赤井は赤井で時折何かを思い詰めたような顔をする。

「君も今日は帰って休んだ方がいいよ」
「……いいよ。どうせ今日はもう寝ているだろうし」
「いや、ハルちゃんの所じゃなくて、自分の家にさ」
「自宅にはもうずっと帰っていないよ。最近はハルの所で寝起きしているから」
「え?そ、そうなの?」

 寝耳に水である。時刻を確認しながらさも当たり前のようにそう続けた赤井にとってはそれが別段特別なことでもないようで、次は蕪木が驚きに瞳を瞬く番だった。
 蕪木が律に鎌をかけられたのは、少し前の事である。事前に赤井に注意するように言われていたにもかかわらず、蕪木は律の流れるような誘導に引っ掛かり、うっかり赤井の嘘を露見させてしまった。何も知らぬからと言って言われるがままになるような娘ではない。案外と狡猾である。しかし彼女はそれを皮切りに蕪木を責め立てるようなことはしなかったし、蕪木がその件を赤井に伝えたところで赤井もフォローをするわけでもない。確かな嘘がそこにはあるのに、彼等はそれを突こうとはしなかった。

「人肌に安心するんだろう。隣で寝てやると、良く眠れるようだから」

 思えば警戒心の塊のようであった彼女も、今ではそれも取り払われて、傍から見ているだけならば赤井とは非常に良好な関係と言えなくもない。蕪木が二人に会うのは通院の時くらいであるが、交わされる言葉は以前のような棘を纏ってはいないし、二人にしか分からない親しげなその会話の中身は、もう随分と一緒に時を同じくしたことの証明だろう。何より赤井も律も、当初よりもずっと、笑顔が増えたように思う。
 たとえそこにどんな歪んだ秘密があろうとも、当人同士がそれで幸せであるならば、今はまだ自分が騒ぎ立ててひっくり返すことはないのかもしれない。そう思い始めていた蕪木であったが、まさかそれ程の仲まで発展していたとは。

「悪夢に目が覚めたとしても、傍にいられるしな」

 赤井は律について蕪木には何も教えてはくれないが、ひとつだけ、親切心で口を割ったことがある。律の家族が心を傷めていなければいいけどと、そう心配した蕪木に、彼女は天涯孤独で家族は居ないよと、そう教えてくれた。ただ、そう話していたはずの当人が、最近律の姿を眺めながらボソリと呟いたことがある。

 "彼女には、恋人がいたのだろうか?"

 家族の有無は分かっても、恋人の有無を掴んではいないのかと、相変わらずさっぱり分からない二人の関係に当時の蕪木は不思議に思っただけだった。しかし今の蕪木であれば、その本意に容易に思い当ってしまう。何故あの時、赤井の瞳が切なげに揺れたのか、あの時本当は、何を想っていたのか。

「ふうん。まさか、君たちが本当に付き合い始めるとはね」

 赤井はきっと、今になって漸く、分かってしまった。
 過去の律に恋人がいたならば、自分と同じ気持ちを味わっていただろうと。彼女が笑えば嬉しいし、泣いていたならばその涙を拭ってやりたいのだ。何でも話して欲しいし、自分を一番に頼って欲しい。もしも突然彼女が失踪でもして、他の男に甘い言葉で篭絡されたりでもしていようものなら、それは耐え難い苦痛であると。
 それを今更、思い至ってしまった。彼女を、心から愛してしまったせいだ。

「……付き合う?」
「え?」
「いや、そんな話はしていないよ」
「ええ?」

 素っ頓狂な声を上げる蕪木に対し、赤井は小さく溜息を吐いた。
 話がとっ散らかってしまっている。お互いに気持ちを伝え確かめ合い、付き合い始めたからこそ本物の恋人同士となり、そうして同棲を始めたという話ではなかったのか。蕪木はつい先ほどまで聞いていたはずの話を頭の中で繰り返すが、やはり上手く結びつきはしない。
 小中学生ではないのだ。いい年した大人の男女がベッドを共にするとなれば、そこに何の恋愛感情がなくともなあなあに事が起こってしまうのが人間の性である。どうしてそんな堕落した関係にと、あらぬ妄想に表情を歪める蕪木の心中を推し量り、赤井は呆れたように口を開く。

「彼女とは何もない」
「……またまたあ、」
「嘘じゃないさ」
「……本当に?」
「ああ」
「……。でも秀一は、彼女の事が好きだろう?」

 口許へ運んでいたカップを持つ手を止めて、赤井はちらりと、蕪木と目を合わせた。 
 すぐに開かれた唇は何かを言いかけたのに、しかし音を紡がず、また閉じる。しばしの間熟考した後で、ようやく赤井は開口した。

「……ああ、多分な」
「たぶん??」

 この期に及んで多分とは、それこそ小中学生じゃあるまいしと、蕪木が前のめりになるのも無理はない。
 蕪木は当初、赤井から律への愛情などを微塵も感じたことはなかった。いくら永倉圭が彼女に愛の台詞を囁こうとも、そこには愛情だけがないことがまざまざと滲んでしまっていた。しかし、ただただ観察の意味で視線を向けていたその瞳は、いつの日からか律に自然と惹きつけられるようになった。思うがままに誘導するために引いていた彼女の手を、今は横からそっと己の手を添えその苦しみを共に分かち合っている。赤井は知らない。彼女の名を呼ぶその声色だけは、他とは比べようもないくらい、とても柔らく温かいことを。
 それを、多分、好きとは。言葉を失った蕪木を前に、赤井はそっぽを向いて、口を尖らせる。

「自分から人を好きになった事が無いんだ。彼女への気持ちがそうなのかどうか、よく分からん」

 重症だ。大変こじらせている。
 よくも三十年以上もそうしてのうのうと生きてこられたものだと、今まで知りもしなかった赤井のプライベートを蕪木は今になって案じている。恥ずかしげもなく、堂堂と、自分は一体何を聞かされているのだろうと、蕪木は何から言っていいのか分からずひとまず茶を啜るフリをして自らの口を塞いだ。

「それに、俺の腕の中で安心して眠る彼女を見ていたら、今はとても、手を出そうという気になどならんよ」

 律の寝顔でも思い出したのだろうか、そう続けた赤井の表情は、一転して微笑ましい。
 彼女は一体、どんな気でいるのだろうと、蕪木は思う。蕪木と律が二人きりで言葉を交わす機会などは、実際あまりない。律と電話で話したのは件の一度きりで、それ以降の通院の設定などは全て赤井を間に挟んでいるし、ましてや蕪木からプライベートで律に連絡を取る理由も必要も、どこにもない。生来のものか境遇によるものか、彼女は他人を信用するまでにとても時間をかけるし、赤井のせいで不信感を持たれている自分などは打ち解けるまでにあと何年とかかるか分からない。

「それでも、ずっとこのままという訳でもないだろう?」
「……君も同じ事を言うんだな」
「え?誰と?」
「いや……まあ、そうだな。君の言う通りだよ」

 それでも、彼女も赤井に好意的なことは変わりない。
 出会った頃の律ならば、赤井と同じベッドで共に眠るなど天変地異が起こらぬ限りはあり得なかった。赤井が用意したはずの彼女の部屋に居座ることすら、とても嫌がっていたのだ。赤井が自分には手を出さない絶対の自信でもあるのか、はたまた彼とならば男女の関係になっても構わないと思っているのか定かではないが、いずれにしろ赤井は上手く手懐けたものだ。赤井は律が人肌に安心すると言っていたが、そうではないと思う。律は赤井相手だから、安心しているのだ。

「彼女を寝かしつけてから、良く今後の算段をするんだよ。昨日は考えが纏まらなくて、気付いたら朝だったんだ」
「……おいおい。しっかりしてくれよ」

 赤井はくつりと、小さく欠伸を噛みしめる。
 赤井の算段とは、何も当人らの気持ちばかりの問題ではないところが厄介だ。赤井は自分に対しても彼女に対しても、抱える秘密が大きすぎる。二人が共に生きていこうと決めた時に、そうして隠してはおけない秘密が山とある。好きという気持ちただそれだけで、彼等はずっと一緒にはいられない。

「今はとにかく仕事を早く切り上げて、彼女の所へ帰る事に専念したらどうだい?」

 そうしたら彼女に薬も必要ないだろうと、蕪木は今し方赤井に手渡した紙製の袋を一瞥した。
 悪夢を見ずに深く眠れる薬はないかと赤井に相談されたのはつい先日のことであるが、赤井が傍に居てやって落ち着くのならば、下手に薬など使わぬ方がいい。次回の通院の際には詳しく話を聞くつもりでいるが、彼女の見ている夢が過去の記憶に関するものであるとすれば、それを端に全てを思い出す可能性もある。
 いずれにせよ赤井には今は彼女に付いてやっていて欲しいし、赤井は赤井で結論の出ぬ熟慮を繰り返しているのならば、仕事の立て込んでる時くらいは余計な事を考えずにそうして身体を休めて欲しい。

「そのつもりだよ。薬は保険だ」
「保険?」
「もしも俺が、帰れなくなった時のためのな」
「え?」

 赤井はカップに残っていた最後の一口を飲み干すと、カシャリと音を立ててソーサーに置いた。
 しんとした部屋に響いたその音はやけに大きく、蕪木はその言葉の意図を無言で目の前の男に求めている。

「……近く大きな案件が動く。事が起こらないことには、どうなるか分からん」

 そう言った赤井の表情は、ここ最近で一番厳しいものだった。保険を片手に礼を言って席を立ったその背が消えた扉を、蕪木はじっと見つめてから、徐に立ち上がる。
 不思議と、もう二度と彼とは会えなくなるようなそんな嫌な予感に、蕪木は律の次の通院予約を取り付けようとしていた。しかし、慣れ親しんだはずの家具に、その時、足を取られる。ぐらりと傾いたカップは蕪木が伸ばした右手をすり抜けて、激しい音を立てて床に破片を散らばせた。それはつい先ほどまで、赤井が手にしていた方のカップだった。


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