#16

 降谷零は、窓という窓を全て開け放してから、ワイシャツの両の袖を思い切り捲り上げた。
 時刻は午後一時を回っており、あと半刻程で家を出なければ次の予定に間に合わない。とりあえずはと朝から陽に当ててふかふかになった布団を取り込んで、クリーニング袋から引っ張り出したシーツを急いで広げた。溜まった郵便物を片手に仕分けしながら、カラカラに乾いた観葉植物の土に水を遣っていく。安室透としての活動が本格化した今、こうしてこまめに水をやることもできなくなるに違いない。徒に枯らしてしまうよりは処分してしまった方がいいのかもしれないと、コードレス掃除機を引っ張り出しながら降谷は考えていた。

 ――プルルルル、プルルルル。

 公安職員の自宅に掃除業者を入れるわけにもいかず、かと言って、降谷の自宅ならまだしもこの家には風見すら入れたくはない。本人は自分がやりますよと何度も降谷に願い出るのだが、降谷がそれを頑なに拒んでいる。そう、ここは降谷の自宅ではなく、半年前に失踪したまま未だに戻らない、花井律のマンションである。あれから降谷はどれだけ仕事に忙殺されようと律の部屋の手入れを欠かしたことはないし、そうして誰が使うでもない部屋の家賃や光熱費などの諸々の支払を続け、帰らぬ家主を待ち続けている。玄関の扉を開けて、ああ今日も帰っていないと打ちのめされるのはもう何度目だろうと数え出し、右手の指が足りなくなったところで降谷は思い返すのを止めた。
 机上で着信するスマホの画面には面倒そうに舌打ちをして、ひとつ咳払いをし、声の調子を整える。

『ハァイ、バーボン。元気にしてる?』
「ええ、まあ、それなりに」
『あら、なあに?迷惑そうな声をしていない?』
「そんなことありませんよ。貴女はまたえらくご機嫌ですね」

 対面と違って電話の良い点は、表情までをも作らなくて済むことだと、降谷は声音とは裏腹に死人のような顔付きで掃除機を元の位置へと戻す。代わりに音の出ないワイパーを取り出すと新しいシートを取り付けて、フローリングを拭き始めた。
 ベルモット。組織の中枢であるこの女とは仕事上パートナーを組まされることが多い。千の顔を持つ魔女とされる彼女得意の変装術は、情報収集を担当するバーボン、もとい降谷との相性が良く、もう何年もの付き合いになる。腕っぷしは強くはないが、それを補って余りある程の頭脳派で、かつそれを自ら実行できる度胸もある。気紛れで秘密主義者な点は手に余るが、それを言うならば降谷も彼女と同じ印象を与えていることだろう。もっとも、あのような犯罪者集団と同じ括りで話を進めるのはどうにも癪であるが。

『ええ、そうね。近々、大きく動きそうだから』
「ああ……キール奪還、でしたっけ?」

 キールこと水無怜奈がFBIに掻っ攫われたのは少し前であるが、降谷はその案件には関わってはいない。もともと降谷の担当はシェリーの捜索であるし、チームに選抜されていない状態で迂闊にしゃしゃり出れば不本意に目を付けかねられない。犠牲者が出なければいいがと、人の国で我が物顔に振る舞う捜査官達を疎ましく思いながらも傍観に徹している。
 急いては事を仕損じてしまう。降谷零が守らなければならないのは、たった数名の個人の命ではない。それを犠牲にしたとしても、最大多数の最大幸福、それを実現することが日本を守るということであるからだ。仕掛ける時は、丁寧に、慎重に、そして、大胆に。時期を見誤っては元も子もない。

『あなたの大嫌いな赤井秀一も、ジンが始末してくれるそうよ』
「ジンが?」
『あのFBIならこの件に乗じて処理する算段だ――って、言ってたわ』
「……はは。変声術に磨きがかかっていますね」

 赤井秀一。不本意にも降谷の手を止めたその名に、ベルモットは気付くことはなく電話越しにジンの声真似をして遊び続けている。
 この件に乗じて処理をする?ふざけるなと、カッと降谷の頭には熱が集まった。赤井を葬るためだけの、赤井だけのための抹殺計画なら、まあ話を聞いてやらない事もないと降谷は思うが、キール奪還の片手間に赤井を処理するなど、腹の底から笑わせてくれる。相手の実力すら測ることが出来ぬとは、相変わらず殺すしか脳のない寝ぼけたことを言う幹部だなと、既に見えた計画の失敗に降谷はフローリングを磨く手に力を込める。

『そういえば、あなたの方は?毛利探偵には接触できそう?』
「ええ。問題ありませんよ」

 降谷が毛利小五郎に目を付けたのは、今回の騒動よりも少し前に遡る。
 年が明けてすぐ、ベルモットは横浜で季節外れのハロウィンパーティーなるものを催し、その目的こそ教えてはくれないが結果として赤井秀一にアバラ三本を持っていかれるという失態を犯した。FBIが周辺をうろつき始めたことを知った降谷はその動向を知るため、あわせてベルモットの目論見を探ったが、例の毛利小五郎の調書を盗み出した件をちらつかせた際に彼女は大きく食いついた。

 "あの二人に手を出したらアンタを殺すわよ"

 降谷は何も、それを皮切りにより深い部分を突こうとしていただけであって、毛利小五郎とその周辺の人物にはさして興味もなかった。しかしその異常な執着には何かあると、意外な場所で得た収穫に降谷は俄然その男に意識が向く。ベルモットの行動を探りつつどうにかして毛利小五郎と接触を図るつもりで、着々と準備を進めていた。

 "毛利探偵事務所へ?何故また?"
 "酷似していたからよ。その発信機が、以前あの女が仕掛けたものと"

 あとは、きっかけだけだった。そしてそれは、自分をそこへ滑り込ませるための、自然な理由だった。
 キールに仕込まれた発信機の件はFBIの手によるものと一応の決着がついたが、あの探偵は怪しすぎる。どうも彼を特別扱いしたいベルモットは不機嫌であったが、その娘と居候の少年には危害を加えないという妙な約束の許で、降谷は安室透として彼に近付く手立てを得た。既に盤上は整っている。あとは、駒を進めるだけだ。

『約束は覚えてる?』
「もちろん」
『破ったりしたら、どうなるか分かってるわよね?』
「破りませんよ。あなたの秘密も守り通しているでしょう?」
「……まあ、そうね」

 歯切れ悪くそう返事をすると、ベルモットは露骨に溜息をついた。
 不公平ねと、続けてそう口を尖らせるベルモットに、降谷は聞き返す。

「不公平?」
『私にもあなたの秘密を握らせてくれないと』
「はは……秘密、ですか」
『恋人でも作ったら?いざとなればその女を拷問してやるから』

 部屋中のフローリングを拭き終わった降谷の額には、じわりと汗が浮かんでいる。暦の上は初秋とは言え、まだまだ残暑が厳しい。床を拭き終えたシートを外して丸めてゴミ箱に放ると、ようやく降谷は己の手の甲で汗を拭った。
 この女はこの女で相も変わらず物騒だと、電話の向こうで喜々としてナイフでも研いでいそうなベルモットの姿に、湧き上がる溜息をこちらは飲み込む。

「生憎、女性にはあまり好かれなくて」

 淡々と冷静なバーボンの調子で答えながら、降谷は袖を戻しカフスボタンを留めた。
 もうここ何年も、恋人など作ってはいない。最後に女と寝たのはいつだったろうかと記憶を掘り返して、やはり降谷は、思い返すのを止めた。単純に、恋人を作った所で遊ぶ暇も、遊んでやる暇もない。とにかく仕事が忙しく、デートプランを練る時間があるのならば眠りたいし、気を遣って連絡を取らなければならないことすら億劫だ。相手には我慢をさせるだろうし、寂しい思いもさせるのだろう。ならば始めから恋人関係など築かない方が、結局は互いのためになる。

『ふうん。そう。あなた、面倒そうだものね』

 しかし謙遜で言った言葉をまともに受けて回答を寄越したベルモットには、降谷の自尊心にピシリと傷が走った。それではまるで、俺に問題があって恋人を作れないような言い草じゃないかと、ジャケットを羽織ろうとしていた降谷の手が止まる。
 降谷はバーボンをミステリアスで紳士的な男に仕上げたし、安室透を親しみやすい絵に描いたような好青年に仕立てた。どちらも人受けが良く性別を問わず好かれることが多いし、実際その二人を掌握する降谷は昔から大層女に良くモテる。この女には一度男女の関係でも持ち出して、そうして自分に落とし込んでやろうかと降谷の脳裏に不純な計画が過るが、ベルモットが彼女に惚れていた男を見殺しにした件を思い出しては興が醒める。見え透いたハニトラにかかるような女ではない。

『それより、用事はもう済んだわけ?』
「用事?」
『今日は大事な用があるからって、私のランチの誘いを断ったじゃない』
「……ああ」

 降谷はスマホのスピーカーを切ると直接耳に当てながら、換気を終えた戸を閉めて回る。壁に掛かった時計は降谷が訪れてから丁度半刻を示していた。
 誘いを断ったというのにこうして電話までしてくるあたり、彼女は彼女でバーボンが例の二人に手を出さないかどうか気が気ではないのだろう。そうまでして守りたい彼等とベルモットの関係性に、降谷はまだ辿り着けてはいない。そもそも、海外で女優業を営むはずの彼女が、日本の一介の女子高生と小学生に一体何の思い入れがあるというのだろうか。まあ、安室透として潜入を続けていれば自ずと明らかになるだろうと、降谷はまだ陽の入る明るい室内のカーテンを勢いよく引いた。

「お蔭様で、終わりましたよ。家の掃除」
『……掃除?』
「ええ。大事な掃除が」
『……、』

 三秒程の沈黙の後に、降谷の耳には大袈裟な切電音が響いた。通話終了の画面の文字を眺めながら、プライドの高い女めとまたひとつ舌打ちをして、スマホを胸ポケットに仕舞い込む。カツンとぶつかった衝突音に、降谷は一瞬手を止めて、そうして常に持ち歩いているもう一台のスマホを取り出した。
 明るい軽やかなカラーのそれは、もちろん降谷の二台持ちスマホなどではなく、花井律のものである。背の高いダイニングテーブルに静かに凭れると、降谷は溜まったメールや通知をスワイプしていく。どうでもいいような広告やメールマガジンばかりで、これといって特にいつもと変わりはない。始めの内は電話を寄越していた彼女の同僚からも、事情を知り当人が休職中となった今ではもう連絡は来ないし、ぱたりとメールが途絶えたことを心配していた友人らからの催促も、もうほとんどなくなっている。

 "降谷さん"
 "うん?"
 "行旅死亡人を調べているそうですね"
 "……それは、"
 "自分が、引き継ぎます"

 律の失踪から、季節はふたつ、変わってしまった。普段であれば断ったであろう風見の提案にも、降谷は珍しく甘えを許した。
 半年や一年くらい行方を暗ましたって、戻ってくるのならば構わない。もちろん戻ってきた際には大目玉を食らわせるつもりではいるが、それでも自分の許へ戻ってくるのならば、降谷はこの煩わしい律の家の手入れすら甘んじて受け入れる覚悟がある。だから降谷が最も恐れているのは、花井律が、既にこの世を去っている場合だった。結局、夏葉原の事件で消失した律の足取りを掴むことはできなかったし、何故失踪したのか、何処へ消えたのか、どうして戻らないのか、降谷には何一つ分かってはいない。既に死亡しているのならば彼女が戻らない理由ばかりは明らかになるのだが、降谷はその帰結だけは受け入れがたく、そうして毎日律の無事だけを祈っている。

 "他にも、自分で間に合うことがあれば仰ってください"
 "……ああ。助かるよ"
 "降谷さんには、降谷さんにしか出来ない仕事が沢山ありますから"

 風見には、降谷を咎めるつもりなどは一切ない。一切ないのだが、降谷がまるで非難されているかのような気分になったことは、言うまでもない。
 降谷の仕事は公共の安寧秩序を守ることであり、生きているか死んでいるのかも分からない個人の捜索などでは決してない。今までもそうしてその理念に犠牲にしてきたものは数多あるし、降谷はそれすら誇りに替えて職務を全うしている。分かっている、そんな事は降谷は誰よりも分かっているのだ。
 しかし思いとは裏腹に、降谷は今日もこうして、職務の間に律の部屋の手入れを続けている。

「……戻ったら、覚悟しておけよ」

 誰にとも聞かせるわけではない言葉を呟いて、降谷は律のスマホを再び胸ポケットに仕舞い込む。
 次に時間が取れるのは十日後あたりだろうかと、予定よりも五分程過ぎてしまった時計を横目に、足早に律の部屋を後にした。


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