#15

 織枝葉子は、主に情報の売買を生業としている。
 言うまでもなく喫茶店店主という表向きの立場は単なるカモフラージュであるが、本業の都合上経営者の肩書は何かと使い勝手が良いし、実際にその受渡しで店を利用することを加味すれば、そのふたつは密接に関わっていると言える。職業柄他人を信用はしないし、もともと自分以外の人間があまり好きではない。だから葉子は長い間こうして店を一人で切り盛りしていたし、営利目的ではないからあくせくと働いて稼がねばならないわけでもなく、誰かを従業員として雇おうという発想に行き着いたことがなかった。仕事上の腐れ縁である赤井秀一が、葉子が喉から手が出るほど欲しがっていたネタを、対価として眼前に差し出すまでは。

「さっきの、何か分かりました?」
「ああ、そうだな。タコか何かじゃないか?」
「えっ……金魚だったんですけど」
「ホォー、君の絵心は随分とユニークだな」

 どうしてこうなったのだろうと、二人の意味不明なやり取りをぼんやりと眺めながら、葉子は考えている。
 律はその返事にムッとしながらも新しい手持ち花火を赤井に差し出して、赤井はおかしそうに笑いながら慣れた手付きでマッチを擦った。パチパチと火花の踊る音に、次は空色の光線が散らばって、一転してそれに気を良くした律はご機嫌な足取りで庭に戻っていく。その残像で絵を描く遊びには飽きてしまったのだろうか、左手の花火にも引火させると、白い光を放るそれと交わらせて色の変化を興味深そうに観察し始めた。
 ベランダで折り曲げていた足を投げ出して、葉子はその様を横目にごくりと冷えたビールを飲み込む。隣で赤井は、火を点したままの煙草を吸うことすら疎かに、律のその横顔をただ微笑ましく眺めていた。

 "俺の恋人をこの店で雇ってくれないか?"
 "……寝言は寝て言ってくれない?"
 "タダでとは言わんよ。いいネタがある"

 赤井とはもう何年も前に仕事を通じて懇意になり、そうしてその関係が今もダラダラと続いている。外国の捜査官になってしまってからはほとんど連絡も途絶え交流もなくなっていたが、最近そうして久し振りに顔を出したかと思えばその第一声は突飛なものだった。
 葉子は二日間、頭を悩ませた。赤井の寄越すネタはいつも正確で誤りがない。よもやその質を疑うことはないが、如何せん、提示された対価との均衡が取れてはいなかった。そもそも、対価として人を雇うなどということ自体、葉子はこれまでに経験がない。どうにも不自然なその話に、十中八九その娘に何か仕掛けが施されているのだろうと踏んだが、葉子をもってしても仮屋瀬ハルの正体が分からない。調べようにも名前も、身分も、出自も知らぬとなれば、その切り口さえ見つけることができない。都合の良すぎる記憶喪失などといった疾患を鵜呑みにするわけでもないが、そうこうして馬鹿面をしている内に、情報の要である鮮度が落ちる。結局葉子は、腑に落ちないまま赤井の提案を受け入れた。

「少しは気が晴れるといいんだけど」

 結果として、葉子にデメリットがないわけではなかったが、それと同等のメリットで相殺されたと言える。
 ポンコツ覚悟で雇い入れた仮屋瀬ハルは、思った以上に良く働いた。教えた事は一度で覚えるし、勤務態度は非常に真面目で、愛想も程よく振り撒くから客の評判も上々だ。器用なのだろう、何をやらせてみても大抵のことを上手くこなす。
 何より、仮屋瀬ハルという人間の存在は、赤井の弱みになる点において格別の利用価値があることが分かった。二人の関係を未だに葉子は定義付けられないが、彼女が赤井に与える影響の度合いさえ量ることができれば、そこに固執する意味はない。仮屋瀬ハルを盾にして葉子が赤井よりも優位に立てるということ、それが今後彼との力関係を考えた時に大きな意味を持つのだから。
 葉子の言葉に赤井はようやくこちらへ顔を向けて、ひとつ溜息を吐くと、つまらなそうに不貞腐れて視線を律へ戻した。

「道理で。君の手引きか」

 彼女が俺を花火に誘うなんておかしいと思ったよと、一口も味合わぬままに半分程になってしまった煙草に気付くとそれを灰皿へ押し付けて、赤井はポケットから新しい煙草を取り出す。もう何本目かも分からぬマッチを擦って、咥えたそれに静かに火を点した。

「あら、残念だった?」
「ああ。とても」
「提案したのは私だけど、決めたのはハルちゃんよ」
「……それで?俺に何か用か?」

 ふっと夜空に煙を吐いて、赤井は葉子に本題を促した。葉子はその問を胸中でしばらく弄び、どうしてこうなったのだろうと、そうして思考は振り出しに戻る。遠くで律は手元にストックしていた花火にまた火を移して、まるで小花が開くかのように放射線状に火花を弾くそれを、持て余している。
 律は花火を知っており、過去に遊んだ事があるのだろうと葉子に話した。しかし、それが一体いつの出来事だったのか、一体誰とその時間を過ごしていたのか、そればかりを思い出すことができないという。今まであまりその境遇に思うことはなかったが、律と共に日々を過ごして半年が経とうとすれば、さすがに葉子の心にもじわじわと同情の気持ちが芽生え始める。律が過去を取り戻せないことにではない。全てを失った彼女がこの先、どう生きていったらいいのだろうということに対して。

「最近、休憩中ずっとうたた寝をしているの。夜、ちゃんと眠れていないのかも」

 葉子の言葉に赤井は怪訝そうに眉を寄せて、その瞳は再び、律を映す。
 以前までの律は、休憩時間には葉子から借り受けたスマホで、飽きもせず何かを調べ続けていた。葉子は律に何度も赤井秀一、もとい、永倉圭との関係を探られたことがあるし、そうして調べても見つかるはずのない架空の人物の手がかりを彼女はずっと調べ続けていた。赤井との約束で葉子は律に赤井の正体を教えないし、もとより教える気などもあまりない。それを律に教えたからと言って律が葉子に差し出せる対価がないし、それ自体は律よりも赤井を強請るネタとしてあたためておく方がよっぽど価値があるからだ。
 ただ、最近の律は日課のそれを行うことなく、ただただ目一杯の時間を使って惰眠を貪っている。客が捌けたほんの僅かの時間ですら、壁に凭れてうとうととしていることが多い。

「赤井君。あなた、この先の事をきちんと考えているの?」

 その投げかけはやや説教じみていて、ああ、だから自分も絆されていたのかもしれないと、葉子は思い至った。
 葉子が律を雇ったのは、何も無期限という話ではない。本人には伝えてはいないが、葉子と赤井の間では一年、長くともプラス半年という取り決めがある。それは律がどうこうという問題ではなくて、もともと葉子は遠くない未来に本業を引退するつもりで、そのために店も畳み隠居生活を送る準備を進めている。五十代を手前に、身辺を整理し身綺麗にして、遠い田舎でひとり悠々自適なシングルライフを過ごすつもりでいる。
 年を取ると年々時間の経過がはやく、一年など気付けばあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。律をいつまでも自分の手元へは置いてはおけないことに、気付いているのは葉子ばかりではないだろうに。

「いつまで日本に居られるの?自分がFBIだってことも話してないんでしょう?」

 赤井と律が歪な関係を続けているのは何のためなのだろうか。
 赤井は赤井で律の記憶を取り戻したいようには到底見えないし、かと言って完全に覆い隠してしまいたいようでもないし、律も律でそれを赤井を問い詰めるようなことはしない。彼女は彼女で聞いたところで正答などくれやしないという判断によるのだろうが、当初の彼ならばいざ知らず、今の赤井ならば律に迫られれば簡単に口を割ってしまいそうにも見えるのだが。
 最後の一本に引火した律の手元の花火は、茜色の光を散らしている。それとも彼女もまた、自分の過去を知ることを切望する一方で、そこに踏み込むことに迷いを感じているのだろうか、葉子にはその機微までは読み取れない。

「アメリカには連れていけないのよ?このままじゃいられないでしょう、あなたも、あの子も」

 赤井は深く肺に吸い込んだ煙を、長く時間をかけて吐き出した。ようやく開いたかと思ったその唇は、葉子の問いかけに返すことはない。ひときわ大きな声量で、諌めるように呼んだその名は、庭先の律の耳に容易に届く。

「ハル」

 それにびくりと身体を震わして、律はこちらを振り返った。
 はらはらと音を立てて落ちていた火花が事切れて、ふっと静寂が辺りを漂う。陽は完全に落ちてしまい、薄暗かった庭先は暗闇にまみれ始めていた。

「……彼女のしたいようにさせるさ」

 使用済みの花火を水の張ったバケツに突っ込んで、律は赤井の元へ駆けてくる。その様を眺めながら赤井は煙草の火を消して、葉子にそうボソリと呟いた。
 またそうやって曖昧な事をと、一時凌ぎにしか見えない台詞には葉子の眉間に皺がよる。近付いてきた律にそれを隠すように葉子は、大して美味くもないビールのグラスにまた口づけた。

「何ですか?」
「手元から目を離すな。足に火花が落ちそうだった」
「ああ」
「ああ、じゃない」

 その右手は小さな額を柔らかく小突く。葉子の前でニヒルな笑みを浮かべる時とは別人のような甘い一面に、人間とは分からぬものだと葉子の喉を苦味が落ちていく。
 辺りを立ち込めていた火薬の匂いと煙は次第に薄まるのに、葉子の胸に残る靄は晴れることがない。現実を直視しようとはしない赤井と律に、自分もこの酒に酔いつぶれてしまえたら楽なのだろうかと、そんな事ばかり考えている。

「もう暗い。帰る支度をしよう」
「え、じゃあ、最後に線香花火を、」
「……また次でいいだろう?」
「次って、もう秋になるわよ?永倉君が仕事にばかり感けているから」

 気の済むまで遊ばせてやったらいいだろうと、葉子は珍しく執着する律に、嫌味の体で助け船を出す。
 あれ程喫茶リーフに通い詰めていたはずの赤井は、このところそれもぱたりと止んでいた。アメリカの捜査官である赤井が日本にまで来て行っている仕事なのだから、葉子は赤井本人の口から聞かずとも、その仕事の重要性を分かっている。赤井が律をやむを得ず蔑ろにするのだから、その喫緊性も。
 律は赤井の姿が見えぬからと言って、気落ちするようなことはない。ただそれでも、時折足を運ぶその男の顔を見ては、ほっとしたように緊張を緩める時がある。彼女にとって、たとえその関係がどれ程捩じれていようとも、今は赤井の傍がただひとつ、心安らげる場所なのである。

「なら、また来年だ」
「……来年、」
「ああ、来年は打ち上げ花火でも見に行こう。君は浴衣が似合いそうだ」
「……。それって私が寸胴ってことですか?」
「ハハ。違うよ」

 軽々しく来年などと言ってくれるなと、葉子は内心で毒づいた。
 今日のこの日はもう二度と、彼等に訪れることはない。それを一番良く分かっているはずの赤井の口が紡ぐ、どうしようもない、嘘だ。ただその嘘を知ってか知らずか、騙されることに決めた律の綻ぶ横顔に、葉子が口を挟むことはない。彼等は今はそうしてしか生きられないのかもしれないと、赤井が律の手を取り少しばかり引き寄せるのを、葉子には止められない。

「だから早く帰って、今夜は、一緒に眠ろう」

 ゆったりと諭すような口調に、律の瞳は、俄かにやや開かれる。
 しかし動揺は一瞬、次にはもう、彼女が赤井を拒むことはない。

「眠るのが怖いなら、一晩中ふたりで話をしていよう」

 夏の終わりに冷えた細い指先は、赤井の温かな左手をそっと握り返した。
 何かを掛け違えれば一瞬で音を立てて崩れ落ちてしまいそうなその危うさに、葉子ばかりが、苦くその口元を歪めている。


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