#14

 ジョディ・スターリングは大きな欠伸をひとつ零すと、鉄の塊のように固まった両肩を解すようにぐるぐると回した。
 狭い非常階段から見渡せる空は青青としていて、窮屈なスーツを纏いせっせと仕事に励むことが馬鹿馬鹿しく思えてしまう。実際、仕事熱心で責任感の強いジョディが仕事を放りだすことなどは決してないのだが、しばらく恋愛すらしていない潤いの足りない修行僧のような生活には辟易としてしまう日もある。
 ああ、恋愛すらしていないとは、少し語弊がある。ジョディはもう何年も、昔の恋人が忘れられない。振られたわけでも喧嘩別れというわけでもなく、ただ職務を全うするためだけの、とても機械的な破局を経験した。所詮、あの男にとって自分はその程度だったということなのだろうが、そんな仕打ちを受けて尚彼のことが忘れられないのだから、恋心とは人生の永遠の課題と言えよう。

 "今日こそ飲みに付き合ってよね、シュウ"
 "今日は駄目だ。また今度"
 "あなたこの前もその前も同じこと言ったじゃない!"

 ぐいぐいとその距離を縮めたいジョディであるが、昔から付き合いの悪い赤井秀一は何故か、気の置けない仲であるジョディに対してもここ最近特にその傾向が強い。酒と煙草しか趣味のないような男が、何をそんなに慌てて帰宅をする必要があるのか、ジョディには予想のひとつも立ちやしない。
 ならば夜は諦めてランチでもと、当時コンビニ食ばかりでまともな食事すらしていなかった赤井を誘おうとはしたものの、ジョディがそう思い立った頃には赤井は昼時になるとふらりとオフィスを出て行くようになってしまった。食事には執着のなかったはずの赤井が、わざわざ車を出す程遠出をして、一体何処へ足を運んでいるというのだろう。一度無理やりにでもその車に同乗してやろうかと邪な考えがジョディの頭に過っていたが、そんなジョディに声を掛けたのは紛れもない赤井自身だった。

 "飯を食いに行かないか?"
 "え?"

 いつもの時間になっても席を立たない赤井を不思議そうに見遣ると、ばちりと目が合った後で、何の気なしに赤井はそう言った。
 突然の誘いに驚いたジョディであったが、断る理由もなければ二つ返事でそれを承諾して、久し振りに二人で揃ってオフィスを出た。もちろん足繁く通っている秘密のその店に連れて行ってもらえるものだとばかり踏んでいたのだが、そうではない、赤井は捜査員が昼食でよく利用している近場のレストラン街に向かって歩いていく。若干それに気落ちしながらも、まあそれでも二人で食事をできることには変わりないと、二人は上司のジェイムズが美味いと勧めていた蕎麦屋に入った。

 "二週間生姜焼き定食を食べていたら、夢にまで生姜焼きを見るようになってな"

 一体何の話をしているのだろうと、首を傾げたジョディの前で赤井は上機嫌で蕎麦を啜った。
 好きで通っているであろうその店には、メニューは生姜焼き定食しかないのだろうか。確かに一品勝負をしている料理店は数多くあるが、それに飽きたならば別の店へ行ったらいいだろうに、赤井がそこに通い続けなければならない意味が分からない。
 ふうん、美味しいなら今度連れて行ってよと、一応そうは言ってみたものの、そのお願いは赤井に、またいつかなと、はぐらかされてしまう。謎は明らかになるどころか深まるばかりで、難しい顔をしたままのジョディに赤井は蕎麦が伸びるぞと、それだけ伝えた。

 ―ガチャリ、

 そういえばあの日、赤井は午後にまた何処かへ出かけていたようだった。
 オフィスに戻ってきた直後の赤井と遭遇したが、昼に蕎麦を啜っていた時の機嫌は一転、その表情にはひと一人殺めてきてしまったかのような暗雲が立ち込めていた。ただでさえ彼の周りの空気はいつも張り詰めているのに、あの時ばかりは最早空気がギタギタに裂けていて、すれ違いざまに挨拶ひとつ交わすことすら躊躇われた。例の組織関連で特に動きはなかったはずであったが、一体赤井の周りで何が起こっているのか、やはりジョディにはさっぱり分からなかった。

「ああ、悪かったな。会議中だったんだ」

 ひとつ下の階の扉が開いた音に、そろそろデスクに戻ろうかと腰を上げようとしたジョディの耳は、その時、今の今まで頭の中で思い起こしていた男の声を拾う。
 足音と気配は一人分だ。意外な場所での巡り合わせに心を躍らせる一方で、盗み聞きは良くないという倫理観と、一体誰との電話だろうという邪推がぶつかり僅かに後者が打ち勝って、ジョディをその場から離さない。彼がつい先ほどまで会議中であったことは捜査員ならば皆知っていることであるし、電話相手はプライベートの知り合いなのだろうか、昔の恋人とは言えジョディはあまり赤井のプライベートを把握してはいない。

「いや?君から連絡をくれたことはないだろう?嬉しいよ」

 君から連絡をくれたことはないだろう?嬉しいよ?
 多大な好奇心に胸が高鳴っていたはずのジョディは、その時まるで鈍器で頭を横殴りされたかのような衝撃を覚えた。ぐらりと傾きそうになった身体が、僅かの音も立てなかったことが幸いである。ゆっくりと油の切れたような動作で、ジョディは見えもしない階段の先に視線を伸ばし下階を思った。赤井の声に違いないのだが、実は赤井の声に似た別人なのだろうかと、そんな三歳児の発想を大真面目に考えてしまう程度にはジョディは困惑を隠せない。

「……へえ、花火ね。ああ、店の庭で?……それはいいな」

 赤井秀一は、女を追いかけるタイプでは決してないが、かと言って女に追いかけられるタイプでもない。
 そのルックスと知性と、捜査官としての突出した手腕の高さは、大抵の異性の一目を置くが如何せん本人が色恋沙汰には興味が無い。恋人がいながらに仕事のために敵対組織の女にハニトラを仕掛け、恋人にはあっさりとした別れを告げてしまえるような男である。単刀直入に言えば、恋愛に向いていないのだ。恋人を愛くるしい存在だとは思っていないから、奉仕をしようという気持ちなど微塵もない。彼にとって私は何なのだろう、居ても居なくても同じなのではないかと、皆その末路を辿るのである。だからそれでもと彼に付きまとっている自分のようなタイプの女は、何かの病なのではないかとさえジョディは思う時がある。

「それなら十九時までには店に向かおう」

 その、赤井が。ジョディが連絡を入れても一向に折り返しては来ずに、終いには、ああ忘れてたと平気な顔で言って見せる、あの赤井が。会議中の着信にわざわざ業務を抜け出してまで折り返し、そうして人気のない非常階段で業務後のデートの相談とは何事か。
 ジョディは今でも僅かな可能性にかけてその男を赤井秀一と結びつけたくはないが、先程から度度聞こえる店というキーワードにどうしたって昼時に出掛けていく赤井のその姿を思い出してしまう。まさかとは思うが赤井の電話相手は例の生姜焼き屋で働く女か何かなのだろうか。それも、二週間もの間毎日同じ料理を甘受できる程には、赤井を虜にしてしまう程の。

「ああ、今日は暑いな。帰りに君の好きなカップアイスでも買って帰るよ」

 買っていくよでも、持っていくよでもなく、買って帰るよ。こういう時の女の着眼点は目敏い。まるで自宅にでも帰るようなニュアンスだと、ジョディは思う。
 思えばここ最近、ずっと赤井は付き合いが悪かったが、それは業後の話に限らない。オフィスに顔を出さなければならない仕事以外は、そのほとんどを自宅に持ち帰りこなしていたように思う。もともと一匹狼気質で同僚と仲良く仕事を進めていくタイプではなかったが、それでもその程度は甚だしかった。

「え?織枝の分?あるわけないだろう。自分の金で買えと言っておけ」

 論理的思考と女の勘が、妙なバランスで混じり合う感覚に、ジョディは気分が悪くなっていく。
 ジョディと赤井が付き合っていた頃、赤井はジョディにとても優しかった。でも、赤井は付き合う前から優しかったし、別れてからも優しいままだ。付き合っていた期間が他とどう違うのかと言われても、ジョディにはそれを上手く説明することはできない。赤井とジョディは本当はずっとそうして、交わらない平行線のままだった。
 しかしそれでも、それでも、ジョディは構わないと思っていた。赤井秀一という人間は、そうして特定の人間に愛情を注ぐことはないと、身を持って証明したような気になっていたからである。

「……ハハッ。ああ、分かったよ。はいはい。仰せのままに」

 ぽっかりとジョディの胸に空いた穴は、塞がる兆しがない。
 また何やら潜入捜査でも始めたのだと少しでも思えたら、ジョディは別の帰結に至っていたかもしれない。しかし、ジョディの知らない甘い声色に、高揚する言葉運びに、嬉しそうに笑うその音に、実際にその顔など見なくとも、滲み出る愛情に気付いてしまう。
 赤井秀一は、ジョディが名も知らぬその女に、恋をしている。

 ――カラン、カン、コン。

 そうして結論に行き着いた時、時折強い一陣の風が、ジョディを襲った。強いと言っても人ひとりを吹き飛ばす程の風ではないが、ジョディが足許に置いておいた空になったチルドカップは簡単に煽られる。気付いた時には既にそれは、乾いた音を立てて階段を転がり落ちた後だった。
 逃げようと、すくりと立ち上がったジョディの判断は早かった。しかし、それよりも先にその男は階段下から顔を出し、簡単にジョディを視界に捉えていた。

「……ああ。何でもないよ。じゃあまた後で」

 三音ほど低くなった声色でそう言うと、赤井はジョディから視線を逸らさぬままスマホの通話を切った。
 私は、何も悪い事はしていない。もともと先にこの場所を陣取っていたのは私であって、そこに勝手にやって来た赤井が勝手に話し始めたのを、うっかり耳にしてしまっただけだ。そもそも、彼女との電話に浮かれていたのか何なのか知らないが、私の気配を察知できなかった赤井にも落ち度がある。なんて、まずは自己防衛のための言い分を考えた後で、ジョディは絶賛片想い中の男にくれてやる気の利いた皮肉を考えていた。
 いくら赤井が鈍いと言ったって、これ程露骨な自分の好意を感じ取れないわけがない。それを知った上で赤井は自分に何と声を掛けるのだろうか、ある程度のパターンを模索して、ジョディにはそれに華麗に切り返す準備があった。
 既にその手中に収まっているカップを片手に、トントンと一定のリズムで赤井はジョディに近付いて来る。

「ジョディ」

 ほら来たと、赤井はその空のカップをジョディのすぐ隣に置いて、しかしその先の言葉がすぐに紡がれることはない。
 そうして一瞬の間を置いて、赤井とジョディの視線は俄かに絡まるが、赤井は至極自然に、事も無げにその薄い唇を動かした。

「中身が入っていなくて良かったな」

 それだけ、たったのそれだけ言うと、赤井はそのままオフィスへ続く扉へ歩いていく。気の利いた皮肉どころか、想定外の一言に完全な沈黙を許してしまった事にジョディが気づいたのは、赤井が消えた扉が重厚な音を立てて閉まった後だった。
 ――中身が入っていなくて良かったな?
 その台詞をジョディは胸中でゆっくりと繰り返し、十秒後、思い当る。ああこれの話かと足許に置かれたチルドカップを眺めて、あまりに遅すぎる正答に、何だか全身の力がふっと抜けて、天を仰いだ。空は変わらず、青青としている。

「……あーあ。また、失恋ね」

 ボソリと呟いた言葉は、風が攫ってくれるわけでもなく、ただただ自分の身に降りかかる。きっとあの男の思考回路は既に、今日の仕事を如何にして十九時までに切り上げるかで溢れており、ひっそりと傷ついたジョディの淡い心の内などに時間を割くことはない。
 一体私の何がいけなかったのだろうと、ゆっくりと流れていく白い雲を眺めながらジョディは考えている。まだ捜査官になる前から事務局を出入りしては赤井の背を追いかけて、一度関係を清算されてからもこうして追い続けて、もう何年の時が経ったろう。どこへ移り歩こうとも結局最後は、理解のある自分の元へ戻ってくるような、そんな気がしていたのに。
 君から連絡をくれたことはないからと喜んでいた赤井の声音がふっと過ぎって、自分も少しばかり押すのを止めて引いてみたらどうかと思うが、そんな迂闊な事をすればこの関係にとどめを刺されるだけだとジョディは鼻で笑った。何の気なしに弄り始めたはずのスマホの画面には、気付けば多種多様なレシピの検索結果が続いていて。

「そうじゃないでしょう、馬鹿ジョディ」

 美味しい生姜焼きの作り方と題されたページを、ジョディは沸き立つ苛立ちを持って鬼のような勢いでスワイプした。
 自分が赤井の上司であったならば、死んだ方がマシだと思える程の膨大な仕事を与えて、今晩は決してデートになど行かせやしないのにと、どうにも治まらない腹の虫に、ジョディは足許で沈黙を貫く空っぽのチルドカップを、思い切り蹴飛ばした。


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