#13

 東都は三日連続の陰気な雨に見舞われている。
 律は憂鬱な気分で窓辺から降り続く細い雨と、今し方家を出て行った男の黒い傘が小さくなっていく様子を見つめていた。

「急ぎの仕事が入った。悪いな」
「いえ。いってらっしゃい」

 律のアルバイト先である喫茶リーフは、店主の葉子が三日間の休暇を取っているため、自ずと律も暇を与えられている。葉子は友人と旅行に行くと零していたが、残念ながら葉子が休暇をとったその初日から、東都に限らず日本は各地で雨模様となっている。折角明日からは快晴なのにと、そう話題を振った律には赤井は日頃の行いのせいだろうと、まだスマホの一件を根に持っているのか眉ひとつ動かさなかった。
 しかし律が休暇となったからと言って、赤井はそうはいかない。赤井はこの所どうにも忙しがって、律の許へ訪れる頻度も減っている。今日は久しぶりに休みが合って、昨日一昨日と家から一歩も出ることなく鬱鬱としていた律は、赤井の何処かへ出かけようかという提案に珍しく乗り気でいた。映画でも美術館でもショッピングモールでも、この雨の音が気にならない場所ならどこでもいいと、律がスマホで行き先を調べ始めた直後に、赤井の方のスマホが鳴いた。

 "そうか"

 何やら長電話だったが、赤井の方から何かを喋るわけでも問い返すわけでもなく、ただそう相槌を返すと静かに電話を切った。
 赤井がよく仕事のメールだと言ってスマホを操作しているのを律は今までも何度も目にしたことがあったが、律の部屋で電話を取ったのはそれが初めてだったかもしれない。口が真一文字に閉じられ幾らか細められた双眸に、律は、ああ今日はまた引きこもりだと、無表情で考えを巡らせる赤井を前にそんな悪い予感がした。案の定赤井は早早と支度を整え、律の部屋を後にした。

 "永倉?彼とは留学中に知り合ってね"
 "ああ。そういえば、ペラペラでした。ロシア語"
 "えっ?あ、ああ、そうだろう?"

 以前、律のスマホに登録されている数少ない連絡先のひとつである蕪木は、赤井との関係をそう説明した。
 あやふやなものだと、律は思った。学生の頃からの付き合いだとか、仕事関係の知り合いだとか、そういった類のものであればまだそれを糸口に調べようもあったものだが、海外で偶然顔見知りになり正確なその出自などは分からないと言われてしまえば、それ以上は追いようがない。せめてもと揺さぶりをかけて蕪木が嘘をついていることは見抜けても、肝心の真実を掴めるわけではない。ああ間違えた英語でしたと、明らかな悪意を持って訂正した律に蕪木が無言になったところで、律は電話を切った。

 "永倉くんのこと?どうしたの?また喧嘩?"

 アプローチ先を変えてみた所で、葉子の方はいつもそうして律の話をはぐらかしてしまう。蕪木のように引っ掛けようとしたところで、葉子の方がいつも一枚上手だ。
 実際、律はあれ以来赤井と喧嘩のようなものは一切してはいないし、以前程赤井に警戒を抱いてもいない。丸丹デパートでの一件以降、赤井が確かに露骨に携えていたはずの拭いきれない胡散臭さは、今はもうその身から剥がれ落ちている。あからさまな愛の台詞を呟いては律を困らせることもなくなったし、それらに比例して本当の意味で律は赤井に心を開き始めている。いつか本人の口から全てを隠さず打ち明けてくれる日がくるかもしれないと、そう思える程度には。

「……寝ちゃおうかな」

 ぽつりと呟いた言葉に返事をしてくれる人間はおらず、律はゆっくりとカーテンを引くとまだ昼過ぎにもかかわらずのそのそとベッドに潜り込んだ。
 雨の日が、嫌いだ。過去の自分はどうだったか知れないが、今の律は日々の天気予報に尋常なく一喜一憂している。テレビでインタビューを受けていた街角の人々は、湿気がどうの、洗濯物がどうのと口々にぼやいていたが、律は苦悩はその程度のものではない。
 言い知れぬ不安に、この身が苛まれる。何に恐怖しているのか分からずに、それを取り除く術がない。雨の音も、匂いも、窓を叩く雨粒の跡すら律の気を立てる。律が夏葉原で発見された当時も酷い雨だったと聞いたが、そのせいだろうかと律は布団にくるまった。二日間あまり眠れていなかったこともあって、律はすぐに睡魔に襲われた。

 "――さんが、亡くなったよ"
 "どうしてっ……ねえ!――君!"

 ここは一体、何処だろう。今の律の部屋とは似つかない、全くの見覚えのない広い部屋で律に似た女の子が知らぬ男に縋りついて泣いている。
 グレーのスーツを身に纏ったすらりとした男性は、首から上ばかりが色の濃い絵の具でぐしゃぐしゃに塗りつぶされてしまっているようで、それが誰であるのかなど律には見当もつかない。女の子は彼の名前を繰り返し呼んでいるのだが、不思議と律の耳にはその音ばかりが識別できず、ただその映像がとても悲しいものであること以上に分析できることはない。

 "可哀想にね。――ちゃん、身寄りがいないって"
 "――さんがあんな危ない仕事をしてたなんて、驚いたよ"

 シーンは変わって、墓地である。しとしとと小雨の降る中、ひとつの墓石を囲んで黒服を着た大人達は声を潜めて言葉を交わしている。
 今度ははっきりと見て分かる老若男女の彼等の顔は、しかし律には見覚えが全くなかった。墓石に刻まれた名前を確認しようと爪先を伸ばすが、彼等の傘に阻まれてその確認もできない。ふと振り返ると、先ほどの男性と女の子は、少し離れた場所でその様子をじっと見ている。やはりその男性の顔ばかりを、律は確認できない。

 "――、"
 "俺がいる。俺がずっと傍にいるよ"

 二人の足許には、表情ばかりが安らかな、中年男性の死体が転がっていた。
 雨に流れた赤い液体が、遠く離れていたはずの律のパンプスに染みわたって、律は突然強烈にえずく。耳障りなノイズが頭の中に響き渡り、映像はそこでぶちりと途切れると、律の視界は暗転した。勢いよく開いた瞼が映した世界は、何てことはない、いつも通りの律の部屋である。

「……ひどい、ゆめ」

 震える声帯でそれだけ絞り出すと、律はくらりとする眩暈を覚えながら、這うようにしてキッチンへ向かった。
 辺りは暗闇に包まれているが、慣れ親しんだ場所へは手が伸びる。力無く引き開けた冷蔵庫の扉は、薄暗い光で周囲をぼうっと照らし、律は一番近い所に差し込まれていたペットボルを無造作にひったくった。驚く程に喉が渇いている。固いキャップが上手く回らず、数度律を苛立たせたところでようやくパキリと乾いた音が鳴った。安心したようにそれを口に含もうと律がボトルを傾けた瞬間、静寂を切り裂くような電子音が部屋に鳴り響いた。

 ―プルル、プルル、

 声にならない悲鳴をあげて、律の手からはペットボトルがすり抜けていく。
 鈍い音と共に床に叩きつけられたそれは栓を失った口からとくりとくりと一定のリズムで中身を辺りに撒き散らして、床を伝ったその水はすぐに律の右膝に到達し、冷たく濡れる気持ちの悪い感触を少しずつ広げた。夢の中の映像がフラッシュバックして、律の胸の鼓動は途端に騒がしくなる。枕元のスマホは鳴り続けたままであるのに、律は少しもその場を動けずに、しばらくすると音は止んでしまった。再び戻った静寂に、時間と共に律の心も落ち着いて、ようやくふらふらとした足取りでベッドに戻ると、不在着信の文字を力無くタップした。

『悪いな。起こしたか?』

 些か申し訳なさそうな色を孕んだその声色はこの耳によく馴染み、律の周りで凝り固まっていた空気を次第に解していく。
 置時計のライトをつければ時刻は十一時を回ろうかといったところで、雨の音は既に聞こえなくなっていた。

「いえ……どうしました?」
『……君の方こそ、何かあったのか?』
「え?」
『声が震えている』

 それに今朝からどうも様子がおかしかったから心配になってと、赤井はそう付け足した。
 その言葉に不覚にも目尻に涙が浮かんだ律は慌てて拳をぎゅっと握り、唇を噛みしめる。しかしその抵抗も間に合わず律の頬には大粒の涙が伝い、それを皮切りに張り詰めていた何かが切れて、ぼろぼろと流れ落ちる涙が止まらない。

「あ……いえ、その……っ」
『ハル』
「……っ、」
『……ハル』
「……わるい、夢を、みて、」

 普段であればすぐに忘れてしまうその夢は、律の脳裏に焼き付いたように離れない。あれは自分の幼い頃だったのだろうか、どれ程大切な人を亡くしたのだろうか、あの時ずっと隣に立っていてくれた男は誰だったのだろうか。探し求めていたはずの過去のピースは、断片ばかりで繋がらない。ただそれが、とても辛い記憶であったことばかりが確かである。
 律の言葉に少しの沈黙を置いて、赤井は口惜しそうに言葉を紡いだ。

『……直ぐに行ってやりたいが、どうも立て込んでいてな』

 思い出さぬ方が幸せなのかもしれない。何度か過ぎった思考が、今は切にこの身に染みる。
 しかしいくら律がそう願ったところで、記憶の方から律ににじり寄り、こうして不意に不安になる夜がまた来るかもしれない。律は頬に伝った涙の跡を、左手の甲で荒荒しく拭う。

「いえ……大丈夫です。もう、落ち着きました」
『……こんな時まで嘘をつくな』
「はは。嘘じゃありませんよ」

 へらりと笑った律は、その時、デジャヴのような感覚を覚えた。
 あれはいつの事だったろうかと、床に足を伸ばしてそのまま窓辺に寄って、緩慢な動作で窓を開ける。むせ返るような湿気は残るが、三日降り続いていた雨は止んでいた。
 あの日はもっと喧しい雨が降っていて、時折雷さえもその勢力を振るっていた。あなたはやっぱり仕事で私の許へは帰ってはこれずに、そうして私が眠るまではと電話口で他愛もない会話を繰り返してくれていた。あれはいつの事だったろう。

「いつでしたっけ?」
『え?』
「前にもこうして、ずっと電話で私をあやしてくれましたよね」

 律は通りを挟んだ向こうにある喫茶リーフの赤い屋根を眺めながら、沈黙した赤井の返事を待っていた。
 律はもともと、赤井には蕪木にしてみせたような小細工が通用するとは思っていない。だから律は何もそうして赤井を試そうと思ったわけではなくて、そうではなくて、ただ自分の中に残っている記憶が辛いものばかりではないことを思い出そうとしていただけだ。
 律は気付いてはいない。その記憶が赤井ではなく別の男のものであることを、自分の記憶の混濁に、律は気付いていない。

『……ああ。そうだったな』

 ようやく返事を寄越した赤井の声色は、ただただ優しく、律の鼓膜を撫ぜるばかりだった。



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