#12

 蕪木医院からの帰り道、赤井と律は少し遠回りをして丸丹デパートへ訪れていた。
 経過観察のための通院は今日が初めてであり、一人で行きますと言って聞かない律を宥めるのに思いの外時間がかかり、結局家を出たのは昼頃になってしまっていた。小さな子供でもあるまいしと律は車中でそっぽを向いて不貞腐れていたが、赤井は何も子供扱いをしているわけではないし、今更律が何処かへ逃亡するとも思ってはいない。ただ、当初は何をするにも、永倉さん、永倉さんと、自分に頼る他無かった律も、もうほとんどの事を自分の手でこなし赤井の手を煩わせることもなくなってしまっている。その分赤井が干渉できる余地は失われたし、赤井は赤井で仕事が多忙を極め、日課であった喫茶リーフでのランチも最近は疎かにしていた。律が赤井の知らぬ所で妙な企てをしていたとして、赤井にはそれを察知する術がない。

「ハル、夕飯は食べて帰ろうか?」
「……」
「ハル」
「え?」

 細い指先でスワイプを繰り返していたスマホから顔を上げて、律は聞いていませんでしたとばかりに惚けた顔をした。全く余計な玩具を与えてくれたものだと、赤井は脳裏に過った織枝葉子の笑みに思わず眉間の皺を深くする。
 律が求人情報を見たいからスマホを貸してくれと言っていた頃から、律が赤井に内緒でネットを徘徊していた事を、もちろん赤井は把握していた。検索履歴はこまめに削除されていたが、詰めが甘い。復元する方法などはいくらでもある。仮屋瀬ハルの名、永倉圭の名、蕪木医院、夏葉原と、律がそうして自分の手がかりになりそうな情報を少しずつ収集していく様を赤井は随時観察できていた。今はもう、それも追ってはいない。覗き見る手段がないわけではないが、その一線の踏み込みを赤井はまだ決めかねている。

「いや。それで?用事って?」
「あー……済ませてくるので、どこかで待っていてもらえますか?」
「付き合うよ。はぐれて迷われても面倒だ」
「大丈夫です。スマホもありますし」

 両手で赤井を下りエスカレーターに押し込む律に、ほらみろ碌な事がないと、その右手に握られた諸悪の根源を疎ましく思う。しかしこれでは今朝の二の舞だと今回は赤井が早々に折れて、どこか上機嫌でフロアの向こうへ消える律の背を眺めながら、ひとり一階の喫煙所へ向かった。
 二本目の煙草を吸い殻を灰皿に押し込んで、赤井は三本目の煙草に火を点す。平日だというのに、夕暮れ時の時間のせいだろうか、デパート内は案外混みあっている。東都は狭く、人が多い。職務上それに助けられることもあるが、個人的にはこの街は昔からあまり好きではない。もしもそんな胸中を漏らせば、この国を守っていた公安職員の彼女は何と言うだろうか、あの日あの事件さえ起きなければ今も彼女はその職務を全うしていただろうし、自分との関係も百八十度変わったものになっていただろう。何の因果か、今日もまだ俺はこうして、花井律との恋人ごっこに明け暮れている。
 いつもは鎮静作用のある煙草が、今日はどうにも上手く働かずに、赤井は三本目の煙草を半分程吸ったところで喫煙室を後にした。

 "え?留学先の知り合い?"
 "ああ。そういう事にでもしておいてくれ"

 律の診察後、赤井は蕪木にそう釘を刺した。律の記憶は相変わらず戻らぬままではあるが、日常生活を送る上で心身に大きな支障をきたしているわけでもない。とりあえずは経過観察、また後日来院するように言われた律は素直にその指示を了解していた。
 赤井が同席していたせいか律は終始大人しくしてはいたものの、今後もそうしていてくれるとは限らない。律はどうしたって、実在しない仮屋瀬ハルや永倉圭を切り崩すことはできないのだ。そうなればその周辺で素性の確かな人間に突破口を見出すに違いない。もしもそうなった時、織枝葉子は問題ないとして、蕪木の方は些か不安が残る。彼は良心の呵責に耐えられず律に知っている事を話してしまうかもしれない。実際は織枝も蕪木も花井律の情報は何も持っていないし、律が花井律に辿り着くことはないのだが、しかしどうしたって赤井の所業が露見してしまう。今はまだその芽を摘んでおきたい。

 "それはいいけどさ"
 "なんだ?"
 "君は彼女をどうしたいんだい?"

 暦は六月の半ばになった。今年は梅雨前線が遅れているらしい。
 赤井は丸丹デパートを出てすぐの公園に入り、近くのベンチに腰を下ろした。両脇には青い紫陽花の花が咲いている。

「どうしたい……ねえ」

 赤井はスマホで律のアドレスを呼び出し、デパート前の公園にいると、メールを打った。送信ボタンに手をかけて、一瞬、躊躇う。再び本文にカーソルを合わせると、急がなくていいと、律を気遣う一文を付け足した。今度こそ送信ボタンを押して、同僚からのメールをチェックし、急ぎはないことを確認してポケットに仕舞い込む。
 蕪木の言葉が今になって頭の中を反芻して、赤井は嘆息した。最近の自分は無意識に溜息ばかり吐いているようで、昨日もそれをジョディに指摘されたばかりだった。デパート内とは打って変わって静かな園内で、赤井は眠るようにその重い両の瞼を下げる。自分に向かって近づいて来る人の気配に、二カ月前、律と出会った東都環状線を思い出していた。

「Excuse me?」
「―Yes?」

 声を掛けてきたのは、観光客か何かだろう、如何にもな観光客用のマップを片手に困り果てたようなヨーロッパ系の初老の男性だった。 

 "Attention please. Emergency stop."

 今となっては母国語となったその言語が、あの日、車内に響き渡った。
 アナウンスと緊急停車はほぼ同時のタイミングで、律ばかりではない、あの場に居た乗客が皆その衝撃を被った。車両内は人間の雪崩が起きたし、律に伸された犯人はその雪崩の近くへ転がってきては何かを叫んでいるし、小さな子供は恐怖に泣き喚く。そうして次には無事だった人間が降ろしてくれ開けてくれと騒ぎ出し、事件よりも恐ろしい群衆のパニックに巻き込まれていた。赤井はやっとのことで律に近付いたが、当の本人は意識が無い。外傷は浅く大した負傷ではないだろうが、これでは彼女を救助隊に引き渡す他ない。
 その時、一度、赤井は律を諦めた。掴みかけた公安警察とのパイプよりも、己の保身を優先しようとした。彼女の顔は覚えている。搬送先の病院でも張っていれば、再び接触する機会もあるだろう。そう思って律をそのまま放置し、乗客が手動で開いた扉に向かった。

「I'm looking for a Touto museam. Is this the right way to take?」

 しかし、状況は芳しくない。乗客が次々と線路に降り立ったことで、夏葉原駅は混乱を極めている。辺りは驟雨にまみれて、何を言っているのか定かではない誘導アナウンスの音声に、騒がしいプラットホームは怒声で溢れ返り、レインコートを着た作業員は人手がまるで足りていない。誰一人として現場であるその車両に向かってくる者はおらず、救助隊などいつ到着するのかも分からない。
 よもや死にはしないだろうと、赤井はちらりと律を見遣った。とは言え、専門家でも何でもない自分の判断が正しいのだろうか、それが赤井には分からない。大分人の空いた車内で、赤井はその時、決断を変えた。幸い、知り合いの営む医院が徒歩三分の場所にある。犯人の男が動けないことを確かめ、シートの隅で蹲る少女には隣の車両で救助を待つよう声をかけて、そうして赤井は律をしっかりと腕に抱えた。人命救助のためだ、彼女も文句は言うまいと、足許に転がっていた律の傘を開いて己を隠す。目が覚めたら事情を説明し、名前を聞いて、そうして彼女を元の場所へ帰してやればいい。探す手間が省けて赤井としても好都合だと、赤井は大粒の雨が降りしきる中でプラットホームとは反対方向に走り出した。

「Actually...You're going in the wrong direction.」
「Oh! Really?」

 あの時の自分の判断は、過去最悪のものだったとその直後、蕪木の自宅で赤井は後悔する。全く見当違いの道を歩いている彼と同じで、自分も妙な命運の道に迷い込んでしまっているのではないだろうか。
 名前が分からないと言っても顔と所属さえ明らかであれば、その情報を抜くことなど赤井には容易い。警視庁のサーバーをひと時拝借して、赤井は彼女の名前が花井律であることを知った。これがいけなかった。律が目覚めるのを待ち、その口から直接その名を聞いていたなら、赤井はそれ以上の深堀はしなかったかもしれない。結局の所、記憶喪失になってしまわれては、どっちにしろ赤井は律の情報を洗っていたのではあるけれど。
 花井誠一郎。それがデータに綴られていた彼女の父親の名前であり、赤井が数年前に日本で遺言を預かった人物の名前でもある。

「And it's quite a long walk. I would suggest taking a bus over there.」

 そういえばあの日も、酷い雨が降っていた。
 職業柄人の死に立ち会うことも多いが、遺言を残せる捜査官は幸せな部類なのだと思う。圧倒的にその多くが、誰も知らぬ場所で、誰の温もりも感じる事無く、孤独で冷たい最期を迎える。人の形が残っていればいい方で、ズタズタに引き裂かれて原型を留めていないものもあれば、死体すら見つからない者もいるのだ。

 "死ぬな。仲間が救急に連絡している"
 "ハハ。両の肺に穴が開いているんだ……もう、助からんよ"

 たまたま同じ事件の同じ現場に居合わせた捜査官だ。別段、顔見知りであったわけでもない。警察関係者だとは知っていたが、赤井がその名前を知るのは、翌日その事件が誌面を大きく飾った後である。奇しくも赤井と花井誠一郎は、その死に際に初めて知り合った、全くの赤の他人であった。

 "誰だか知らんが、言付かってはくれないか"
 "俺で良ければ、伝えよう"
 "娘が、いるんだ。可愛い一人娘が、"
 "ああ"
 "愛していると……幸せにと、"
 "……ああ"
 "あの子には、こんな仕事をして欲しくはないよ……っ"

 涙ながらの最後の言葉が、果たして遺言に含まれるのか、それとも誠一郎自身の切なる願いであったのか、ただそれだけを考えながら、赤井は事切れた誠一郎の瞼を雨に濡れた手で撫でた。
 その身体から流れた鮮血は雨に流れ、誠一郎と赤井の周囲を赤く染め上げている。遅すぎる救助の到着まで、赤井は、名前すら知らぬ誠一郎の遺体に傘を差し続けていた。もうしとどに濡れて冷え切ったその身体に、それでも赤井は、傘を差し続けていた。

「It was great help! Thank you so much!」

 男性は赤井の案内に喜んで、赤井はその言葉に応えるように片手を小さく挙げる。自分にもそうして明確な道標があればいいのにと、珍しく他人頼みな己を嗤えば、踵を返す男性と入れ違いでメールを受け取ったのであろう律が赤井の許に駆け寄って来る。
 その手にはfather's dayと印字された小振りな紙袋を抱えており、そういえば次の日曜日はと、赤井の思考は律の声で掻き消える。

「永倉さんって、英語が話せるんですね」
「ああ。前に留学していたからな」
「へえ。すごい」

 誠一郎の死後、仕事ですぐに日本を離れなければならなかった赤井は、その遺言を預かったままである。しかし今こうして出会えた彼の娘は、彼の娘だったという記憶を失っている。もしも赤井が誠一郎の死に立ち会わなかったら、もしも娘の律が彼と同じ仕事をしていなかったら、もしも赤井と律が夏葉原の事件で遭遇しなければ、もしもその記憶が失われることがなければ。

 "でも、戻りたいって気持ちと同じくらい、このまま誰も知らない所へ行ってしまえたらとも思います"

 もしも、彼女があんな事を口にしなければ。そのいくつもの仮定のひとつでも欠けていたなら、赤井は律に別人として生きる道など与えなかったかもしれない。データからは彼女の苦痛は推し量れはしない。律がどうやって生きていくのが幸福であるのか、赤井はずっと考えている。

「それより、父親を思い出したのか?」

 その言葉にバツが悪そうに視線を逸らす律に、赤井は不審そうに律と紙袋とを見比べた。思い出すにも彼女の父親は既に亡くなっているし、父の日のギフトを買うのは不自然だろうと、どうにも釈然としない赤井は律の動向を振り返る。しかし、赤井が正答に辿り着く前に、律はずいっとその紙袋を赤井に差し出した。

「これは、永倉さんに」
「……、どうやら記憶が混濁し始めたようだな」
「あなたが父親じゃないことは分かってます」

 半分本気で律の頭を心配した赤井は、馬鹿にするなとでも言いたげな律の手からその紙袋を恐る恐る受け取る。
 彼女が俺に父の日のプレゼント?と、赤井の思考回路は止まったまま、次には考え得る様様の疑念が高速に蜷局を巻いていく。あり得ない、これは何かの罠としか思えない。例えば何か生き物が入っているとか、開けたら飛び出すびっくり箱とか、その程度の悪戯なら笑って流せるが彼女の場合は何を仕出かすか分からない。本当は父親どころか全ての記憶を取り戻していて、こうして素知らぬフリをして自分に復讐をしにきたのだと言われればその方が断然納得がいく。開けなくては駄目だろうか、このまま仲間の爆発物処理班に引き渡した方が良いのではないだろうか。

「ロックグラスです」
「……え?」
「だから、グラスです。お酒を飲む時の」
「ロック……、グラス」
「煙草は山程あるだろうし、お酒は銘柄が良く分からなくて」

 包装はあまり気にしないでくださいと、律は言った。店員に恋人へのプレゼントですかと聞かれた律は、どうにもそれに頷くことは出来ず、かと言って知り合いとも友達とも違う赤井との関係に困り、ふと店の父の日のポスターを見ては、父親のような人ですと答えたという。出てきた包装に律は愕然としたが、しかしよくよく考えればあの場で父親へのプレゼントだと言えばこうなることは当たり前だろうと、そのまま引き取ってしまった。永倉さんじゃなかったら包み直してもらったんですけどなんて、軽口をたたく律に赤井は紙袋の中身を覗き見た後で、顔を上げる。

「いろいろお世話になっているので、一応人として、日頃の感謝の気持ちです」

 言葉とは裏腹に、零れるような優しい笑みを浮かべた律に、赤井は不覚にも、目を奪われる。
 そう言えば彼女は少し前に初めてまともなバイト代を手にしていて、三、四日前には葉子と丸丹デパートの話をしたと言っていた。朝からずっと一人で出掛けさせてくれと言っていたのは俺へのプレゼントを用意したかったからで、上機嫌で店に向かったのは俺の喜ぶ姿を想像したからだったのかもしれない。
 赤井が先ほどまでその胸に抱えていたはずの疑心などもう影も形もなく、赤井は己の愚かさと、店で想定外の包装に硬直したであろう目の前の愛らしい娘の姿を想像し、込み上げる笑いを我慢できない。

「ハハッ」
「……ちょっと、何で笑うんですか!」

 少しも懐きやしないと思っていた気紛れな子猫が、ようやくその喉元を撫でさせる。
 赤井は律が花井律へ辿り着く道を、完全に断ちはしなかった。永倉圭という存在を不完全にしたのも、律が盲目的に赤井に傾倒することを防ぐためだ。赤井の思惑通りに律は赤井に不信感を抱いたし、そうして自分の出自に疑心を持ち、もしかすると今もその手で真実を掴み取ろうとしているのかもしれない。そうなったらそうなったで、赤井には律に知り得る全ての事実を提供する準備がある。だから赤井の守備は中途半端であるし、目に見える程の大きな穴がぽつぽつと開いている。
 ただ、真実を知っても知らなくても、律が過去を全て葬って、仮屋瀬ハルとして生きることを決めるならば。

「嬉しいよ。ありがとう」

 赤井は俄かに立ち上がると、その広い胸に律の身体を抱き留めて、そう囁いた。それは皮肉にも、永倉圭としてではなく、赤井秀一として心から溢れた本音である。普段とはまるで違うその無邪気な笑みに、一転して律はきょとんとしたままの顔で赤井にその髪を撫でられていた。
 彼女が記憶を望まなければずっとこうして、愛おしい嘘まみれの関係でも構わないと、赤井はふっと沸いた愚かな思考に、律の身体を離しその手を引いて帰路を歩き出す。

「お夕飯、食べて帰ります?」
「いや。君の家へ帰って食べよう」

 緩く繋がれた左手は特に振り払われることもなく、二つの影は砂利道をゆっくりと進んでいく。
 道端にぽつぽつと咲いている紫陽花ばかりが、夕陽の色に美しく染まりながらその様を眺めている。


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