#11

「ハルちゃん」
「はい」
「休憩、取っていいわよ」
「はい?」

 一通り食器の洗浄を終えた律が蛇口のつまみを捻ると、待ってましたとばかりに葉子は満面の笑みを浮かべてそう言った。
 織枝葉子。律の雇い主である彼女は、すらりとした長身に端麗な顔立ちで、親しみやすいその性格も相俟り近所では評判の店主である。あどけなく悪戯っぽく笑った表情など、とても四十代後半とは思えない。
 以前赤井に世話になったことがあると話した葉子は、二つ返事で律の雇用を承諾した。トントン拍子であまりに簡単に進む話には律は居ても立っても居られなくなり、自分から事の経緯や身元を証明できないことを吐露したが、葉子はそれでも構わないと気に留める様子もない。その迂闊さには律の方が愕然としてしまうのだが、しかしだからと言って律から好条件であるこの話を蹴る理由には足り得ない。結局こうして、喫茶リーフでアルバイトを続けている。
 葉子が自分を雇い入れたのは、それがプラスの感情であれマイナスの感情であれ、偏に葉子の赤井に対する信頼だということを律は肌で感じ取っている。二人の間柄にはさして興味はないが、どうにも赤井は律や葉子のような自分の息のかかった人間を思いのままに操っているように思えてならない。もしかしたら蕪木もそうだったのだろうかと、しばらく会ってはいない唯一の共通の知り合いの顔が浮かんで、消える。

「さっき、取ったばかりですけど」
「でも、ほら。今日は少し遅かっただけみたい」

 そうは言っても、律は概ね現状に満足していた。
 職場環境は大変良好であるし、調理や接客も別段苦手ではない。葉子や常連の客は皆律に優しいし、特に葉子は律の境遇を憐れんで何かにつけて親切に世話を焼いてくれる。給料は一般的なアルバイトの水準をやや下回ると言えるが、律ひとり慎ましく暮らしていけるだけのゆとりはあるし、これだけの待遇に文句を言おうものなら罰が当たるというものだ。しかし、概ねという前提から察しがつく通り、律には悩みの種がひとつある。種とは言ってみたものの、そんな可愛らしい単語に収まるものではない。言うなれば、あれは病巣だ。どれほど鋭いメスでもこそぎ取れない、深く根を下ろした癌のようなものだ。
 嫌々視線をやった先で、元凶のはずの男は素知らぬ顔でカウンター席に座って居る。今日はランチは済ませてきたみたいよと教える葉子には、それならば用は無いはずだからそのまま帰せと、喉まで出掛かった言葉は言えずに顔を引き攣らせて笑って見せた。

「ご注文は?」
「ああ。アイスコーヒーを、」
「どうぞ」
「……君は優秀な給仕だな」
「ちなみに、私からのサービスです」
「は?」

 カウンター越しに、律は冷えたアイスコーヒーのグラスを紙製のコースターの上に置いた。
 目の前に要求通りの品が俄かに提供された赤井はスマホを操作したまま感心したように言ったが、繰り出された律の返事は想定外だったようで今度はスマホから顔を上げた。五秒程の沈黙の後で、グラスの中で僅かにバランスの崩れた氷がカランと涼しげな音を響かせる。それを合図のように、赤井は成程と呟くと、つまらなそうにまたスマホに目を落とした。

「それで?何のオネダリだ?」

 律の言葉は、その字面だけ見れば多少の色気を孕んでいたが、残念ながら律の本心には全く別の目論見がある。その意識を奪えたのがたったの五秒ばかりとは心底面白味のない男だとは思うが、赤井が律の二の句に当たりがついているのならば話は早い。律は赤井の手中から強引にスマホを抜き取ると、それに釣られて視線を持ち上げた赤井の瞳をじっと見つめた。

「スマホ、買ってください」

 またその話かとでも言わんばかりに、赤井は手持無沙汰になった左手に頬杖をついて、わざとらしく溜息を吐く。
 律だって何度も何度もこんな話ばかりしたいわけではない。小中学生でもあるまいし、何故とっくの昔に成人しているであろう自分が、これでは父親に駄駄をこねるその辺の我儘娘と変わりないではないかと、うんざりしている。
 当初、律は割と軽い気持ちで、赤井にその相談を持ち掛けた。喫茶リーフでのアルバイト代を手にした律は、今後の生活費や赤井への返済計画を細かく計算し、そうして僅かばかりの通信費を捻出した。昨今、通信手段なくしては儘ならないものが多すぎる。永倉さんとも連絡が取りやすくなりますしと、心にもない一応のメリットを提示した上で交渉したものの、しかし意外にも赤井の返事はノーだった。

「嫌だ」

 ただその、一点張りである。納得のできる理由を教えてくれるわけでもない。
 確かに、身分証を持たない律が通信会社と契約をすることはできず、どうしたって赤井の名を通さなくてはならない。名義貸しを嫌がっているのであればそれは絶対的に向こうの言い分が正しいし、律も端からどうこうしようとは思わなかった。ただ既に、永倉圭の名義で借りたアパートに律は住んでいるわけであるし、家は良くてスマホは駄目な理由がそこにあるとは思えない。今まで散散に律を甘やかしておいて、どうにもこの件に関しては頑なだ。

「返してくれないか?仕事のメールを打っていたんだが」

 いかにも不機嫌そうに刺々しい物言いであるが、しかし律も動じない。赤井は眉間に皺を寄せ、仕方なく無理やり律の手からスマホをもぎ取ると、まだ少しも減ってはいないアイスコーヒーのグラスの隣に音を立てて置いた。
 初めの内はそれでも、繰り返し言い続ければ赤井も折れるだろうと、律は下手に出てしおらしくお願いをしていた。しかしそれを何処吹く風と聞き流し、取り付く島もないことが分かれば律も手段を変えざるを得ない。赤井はほぼ毎日十三時過ぎにランチを取りに店に顔を出していたが、律は赤井の注文を無視して毎回同じ定食を提供した。律のささやかな抵抗には、それこそ何処吹く風と赤井は間違った注文の品を毎日文句も言わずに胃袋に収めていたが、それが十日も続くとさすがに顔色が変わる。しかしだからと言って赤井が屈服するわけでもなく、二人の冷戦はそれからも数日続いた。程度の甚だしい意地の張り合いに、葉子が腹を抱えて笑っていたことは記憶に新しい。

「……話し合いには応じよう」
「必要なんです、スマホ。連絡が取れなくて不便なんです」
「君とは毎日顔を合わせているだろう。具体的に何が不便なんだ?」
「永倉さんではなくて……その、葉子さんとか……」
「歩けばいいだろう。二分の距離なんだから」

 もっともである。というよりも、実際今まで彼等と連絡を取れずに不都合など生じたことのない律にとっては、その仮拵えの理由では赤井には歯が立たない。むしろ連絡手段を手にしたところで赤井に連絡などするつもりは毛頭ない律の心を、赤井の方がよく分かっていると言える。
 律は何も、誰かと連絡を取りたいわけではない。ただ少しだけ、赤井には知られずに調べたいことがあるだけだ。

「調べものも、あるんです」
「何を?求人を探す必要はもうないだろう?」
「いや、そうではなくて……電車の、乗換とか」
「出掛けたいのなら、いつでも車を出してやると伝えたはずだったが?」

 だからそうではなくてと、律は地団太を踏みたくなる衝動を必死に抑える。普段は流れるように吐ける嘘が、今回は隠す本音が大きすぎた。
 本当に調べたいのは仮屋瀬ハルと永倉圭の素性だということなど、口が腐っても言うことはできない。蕪木の家で目を覚ましてからもう随分と時は流れたが、律の記憶は未だに戻る気配がなく、こうして仮屋瀬ハルでいる時間が長くなればなるほどに、ふとした時に律を不安にさせることがある。
 もしかすると、記憶など戻らない方が幸せなのかもしれない。蕪木は大きな精神的ショックを受けたような場合にも記憶の乖離が起こると話していたが、もしもそれが真実だとするのならば全てを忘れて生きていくことが、過去の自分の願いだったのかもしれない。

「ありがとうございましたー」

 間延びした葉子の声に、扉のウェルカムベルが綺麗に鳴って、赤井の他に居た最後の客が店を後にする。丁度、赤井のグラスの中で溶け始めて小さくなった氷も、カランとまた小さくぶつかり音を立てた。
 押し黙りそれ以上の切り返しをしてはこない律を横目に、赤井はようやく穏やかな表情でグラスに口をつける。そうして勝ち誇ったように再び自身のスマホを弄り始める赤井を、律はじとりと恨めしそうに睨んだ。

「次はもっと気の利いたプレゼンを聞きたいものだな」

 通常比三割増しといった嫌味の投げ方は、二週間連続同じランチを食べさせ続けた事への報復だろうか。
 しかし、それでも律は、引き下がりたくはない。もしも失った記憶が自分にとって不利益をもたらすものだったとしても、それでも律は知りたいと思える。自分は何者で、何処で、誰と、どうやって生きていたのか。何を好み、何を嫌ったのか。何を考え、何を悩んでいたのか。思い出す事は諦めても、調べる事は律にも出来る。全てを知った上で今後の生きる道を決めたって、遅くはない。生活の基盤が整ったからこそ、ふつふつと律の身に沸いた衝動である。

「和解できた?」
「……いえ、溝が深まりました」
「別に。喧嘩などしていないよ」

 興味津津といった様子で律の隣に立った葉子は、二人の相反する回答ににんまりと笑った。
 どうも葉子は、赤井と律の付かず離れずの関係が気にかかって仕方ないらしい。女はいくつになっても人の色恋沙汰には目がないものだ。だからこうして、赤井が店に訪れている間は律に欲しくもない長めの休憩をくれるし、自分も手が空いた時には気紛れに会話に混ざる。もっとも、このところの諍いのせいで赤井と律の間にまともな会話はあまり成立してはいなかったのだが。

「そういうと思って、これ」
「え?」

 てっきりまた根掘り葉掘り話を聞かれるのだろうと思いきや、葉子は黒いエプロンのポケットから同じ色のスマホを出した。
 間違いなく律に向かって差し出されたそれに、律ばかりではなく、赤井までもが頭上に疑問符を浮かべる。

「私のお古なんだけどね。プリペイドだし、自由に使って」
「えっ……あ、でも……」
「……勝手な事を、」

 変わらぬ笑みで何の警戒心も持たずにそれを差し出す葉子に、律は戸惑った。だからどうしてこの人はこう危ういのだろうと、赤井の名義を使うことには最早何の躊躇いもない自分を棚に上げて、律は思う。しかし、これは、願ってもない幸運だ。このままではいつまでたっても赤井を口説き落とすことなどできないだろうし、全くの他人名義の足の付かないスマホとなれば手に入れるのに多大な苦労と費用とリスクを伴う。
 迷う律の前には、赤井の妨害の方が早かった。椅子から腰を上げると、カウンター越しに葉子の持つスマホに手を伸ばす。しかし一瞬、それを僅かに葉子の反応が上回る。赤井の左手は虚しく空を切った。

「織枝。君には関係無いだろう」
「あら、私が彼女にスマホを貸すのに、何故あなたの許しが必要なの?」

 ぱちりとその時、静電気に似た見えない静かな反発が、赤井と葉子の間に俄かに走る。あくまで淑やかな葉子とは対照的に、苦虫を噛み潰したように不快感を露わにしている赤井の表情に、律は無意識に何度か瞼を瞬いた。
 そうして次に、赤井から目を逸らさぬまま律の手にそのスマホを握らせた葉子を、さすが年の功だと感心して見つめる。

「こういう束縛の仕方は男らしくないんじゃない?……ねえ、永倉くん?」

 諌めるようでいて、どこかシニカルに笑った葉子の本心が、上手く見透かせない。葉子の立ち位置に考えを巡らせる傍らで、律はこの手の中で確かな重みのあるスマホを両手でぎゅっと握った。律の思考は既に、今晩早速調べたい事柄の候補を弾き出し始めている。
 何かを言いたげな赤井はしかし、律の手からそれを奪い取る適当な理由が見つからず、諦めたように再び腰を下ろすと深く深くその背に凭れ込む。好きにしろと、吐き出すようにそれだけ言うと、完全に氷の解け切り薄くなったアイスコーヒーを、勢いよく無理やり飲み干した。


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