#10

 律が蕪木の家からの引っ越しを終え、早くも一週間が経過しようとしていた。律の荷物と言えば当時身に纏っていた洋服と安物のビニール傘ばかりで、赤井が差し当って買い揃えた身の回り品をあわせたところで鞄ひとつで事足りたため、実際は引っ越しというよりもただ律が拠点を移したに過ぎないのであるが。
 新居は、蕪木家のある夏葉原から車で約十五分の近場だった。駅にすれば三駅程だろうか。赤井の運転で移動中、律は助手席の車窓から見える街を眺めては、とにかく地図と見比べ周辺の地理関係や路線図を頭に叩き込んだ。まるで好奇心旺盛な子供のように、これは、これはと駅や街の漢字の読み仮名を尋ねる律に赤井はひとつずつ丁寧に教えていく。今度ゆっくり東都をドライブでもしようかと提案する赤井の言葉を等閑に、律は突如視界を覆った東都環状線を見ていた。車体に走る緑のラインが、左から右へと駆け抜けては、程なくして見えなくなった。

「犯人は誰だと思う?」
「元彼でしょう。アリバイはフェイクですね」
「旦那が怪しく見えるが」
「ミスリードですよ」

 なるほどと、言いながら赤井は百円のプラスチックの花柄コップに入った、上等な琥珀色の酒を煽った。
 六畳1Kの住まいは築年数の割には小奇麗で、家賃は相場よりもやや安い。家具や家電は既に赤井が一通り手配済みであり、律はそれこそ必要最低限の生活用品を揃えるだけでその日から問題なく日常を送ることができている。揃えるとは言っても律が行ったのは単なる選定であって、金を払ったのは赤井であるが。
 家賃、光熱費、生活費。このままでは自立には程遠い、いつまでもたっても赤井におんぶにだっこになってしまうと、律は次に慌てて職を探し始めた。とりあえずは履歴書不要、給料即日手渡しの日雇いバイトを数件こなしたが、それでは多額の負債を取っ払う目途が立たない。優雅に酒を楽しむ男の隣で、律は必死に求人誌とにらめっこを続けている。これが世間に蔓延る格差である。

「痴情の縺れとは恐ろしいな」
「うーん。愛情と殺意は紙一重って言いますからね」
「ふむ。俺は君になら殺されても構わんよ」
「そういうの、もうお腹いっぱいなので大丈夫です」

 赤井の歯の浮くようなセリフを受け流して、律は再び赤井のスマホに手を伸ばした。
 やはりもうしばらくは日雇いバイトを繰り返すことになりそうだと、求人サイトから適当な募集を見繕う。労務管理の杜撰そうな割のいい仕事はいくらでも見つかるが、それにはもう一歩アングラな領域に足を踏み込まねばならない。まあそれもまた経験だろうと、どうにも別人にでもなったかのような気でいる律は仮屋瀬ハルを蔑ろにする傾向にあるが、赤井がそれを許さない。赤井は律のどうでもいいような嘘すらすぐに見破ってしまうし、しらばっくれようにもこうして毎日のように顔を合わせて進捗を探られては誤魔化しようもない。そう、仕事であまり家に帰らないという前振りは何だったのかと、そう本人に詰問したくなる程度には赤井は律の家に足繁く通っている。

「あ」
「え?」
「犯人が自首をした」
「ふうん。やっぱり元彼だったでしょう?」

 確かに赤井のアパートは徒歩十分とかからぬ場所にあり、気軽に行き来できる距離ではある。できる限り赤井の手から離れたい律ではあるが、実際の所こうしてネット回線は赤井に頼らざるを得ないし、いずれ返すとは言っても現状律の生活全般を賄っているのは紛れもない赤井だ。絶対服従の必要はないにせよ、多少の暴挙は律は我慢して然るべきである。
 しかし、それがどうして肩を並べて一緒に面白くもないコテコテの二時間サスペンスドラマなどを鑑賞しなければならないのか。あまつさえ、酒を飲み干し空になったコップを不服そうに眺め、やはり明日はグラスも持参しようだなんて呟くものだから律はびっくりだ。これでは同居を断って一人暮らしを切望した意味がない。

「君は刑事になれるかもしれないな」

 仕事だ。仕事を見つけなくては。律は赤井の嫌味に似たブラックジョークすら糧にして、目にも止まらぬ速さで別の求人サイトを渡り歩いていく。
 その様を赤井は至極つまらなそうに眺めて小さく息を吐くと、リモコンを持ち上げてテレビの電源を落とした。不意に訪れた静寂に、律は赤井が自分の方を向いた気配に気付くも、スマホから目を離す素振りはない。

「ハル」
「はい」
「……顔を上げてくれないか?」
「今は忙しいです」

 仮とは言え、恋人同士とは到底思えぬやり取りである。
 例え二人の関係が本当に世間に言う恋人だったとしても、自分のような氷点下の塩対応を繰り返されたら普通は千年の恋も冷めてしまうだろうにと律は思う。ただでさえ、記憶喪失の一文無しという身の上だ。恋人に捨てられるならまだしも、恋人に付きまとわれる理由はない。
 何より、赤井の言葉に、律はまだ一縷の愛情も感じたことはない。その唇は耳心地の良い言葉ばかり囁いてみせるが、それらは律の身体に浸透することなく表面ばかりをなぞって空中で融解してしまう。殺意を抱く程の愛情には、遠く遠く、及ばない。

「ほら、口を開けて」

 そうして強情な律に対し赤井の方もやや強引に、その左手を律の口許に差し出した。
 節くれだった長い親指と人差し指が摘まんでいるルビー色の果実は瑞々しく、花のような甘い芳醇な香りが律の鼻先を掠めていく。つうと、その艶やかな果皮から落ちた水滴が指を伝うのを、赤井は気にも留めずに、律の唇が開くのをただ待っている。
 これは何と露骨なご機嫌取りだろうと、律はちらりと、赤井を見遣った。その思惑が露ほども見抜けぬまま、促されるままに律は徐に口を開く。

「お、いしい……!」
「そうだろう?極上品だ」

 柔く立てた歯に弾力のある果肉が弾けて、口いっぱいに上品な甘酸っぱさが広がっていく。
 思わず難しい思考をかなぐり捨てて気分が上向いた律に、赤井は嬉しそうに笑った。いけない、簡単に術中にはまっていると、しかし次の瞬間我に返り表情を強張らせた律の心境を汲みとった赤井は、今度は呆れたように笑う。同じように赤く熟れたその果実をひとつ自分の口へ放り込むとその甘さに些か顔を顰めて、あとは君が食べるといいと、今の律には到底手が出せない高価なチェリーが乗った皿を律の方へ寄越した。
 まだ応募中だったのにと、口をもごもごとさせて極めて理不尽な文句を言う律の手からスマホを回収した赤井は、ご丁寧にその電源までをも落としてみせる。

「明日は何時上がりだ?」
「夜中です」
「……、君は平気な顔で嘘をつくから困るよ」

 ごくりとチェリーを飲み込んで、律は即答した。
 赤井と律の会話は、いつもこうして掴み処がない。止まり木を見失ったまま飛び続けなければならないような、やや気持ちの悪い不安定な感覚ばかりがそうして残る。しかし律の質問に真面目に答える気のない赤井に、律ばかりがいつも正答をくれてやるのも不公平だ。だからそうして、二秒で嘘だとバレてしまうようなことでも、律は本当の事は言わない。全てを赤井に掌握されるつもりはないという、さもざもしいアピールである。
 興が醒めたのだろうか、赤井はふらりと立ち上がると、窓辺に寄った。薄い青色のカーテンを開けて、カラカラと軽やかな音を立てる窓枠を押す。

「酔ってます?」
「どうして?」
「タバコ、忘れてますよ」

 てっきり一服でもするのだろうと思った律は、机上に放置されたままの煙草とマッチを一瞥した。
 赤井は煙草と酒に重度に依存していると、律は思う。溺れているわけではないから、依存は聞こえが悪かっただろうか。執筆に煮詰まるとついそれらに手が伸び、そうしていつの間にか癖になったと本人が言ってはいたが、それが本当だとすれば赤井は四六時中煮詰まっていることになる。その仕事に適性は無いから早急に辞めた方がいい。なんて、どの立場から物を言っているのだろうと、律は物悲しくなった。労働の尊さを、律は今誰よりもその身に染みて感じている。

「酔っていると言えば、君は優しくしてくれるのか?」

 そんな律の下らぬ思考回路を、刹那、赤井の言葉は叩き潰した。
 ゆっくりと顔を上げた律と、真っ直ぐな眼差しで律を見つめたままの赤井の視線が、複雑に絡まる。言外の意味を上手く噛み砕けずに、俄かに生まれた歪な熱の沸点が分からない。開いた窓の隙間から、二人の間を温い風が通り過ぎていく。住宅街の静まり返った闇夜は、例えその外れで何が起ころうとも、全てを包み隠してしまうだろう。
 律はもう何度も目にしているはずのその瞳が、その時まるで全くの別人のものに思えた。決して思い出す事が出来ないはずの記憶の中に、その瞳の色がやけにちらついて見える。何かを掴めそうな気さえして、律は余計に赤井から目を逸らせない。続く沈黙に根負けしたのは、赤井の方だった。

「降参だよ。可愛らしい顔であまり見つめてくれるな」

 両手を軽く持ち上げて、冗談めかして赤井は微笑する。
 何がとも、何をとも、尋ねられずにいる律を横目に、赤井は早々に視線を闇の中に逃がしてしまう。

「通りを挟んだ二軒向こうに、喫茶店があるのは知っているだろう?」
「喫茶店……ああ、赤い屋根の」
「そう。そこの女店主とは顔見知りでな。最近従業員が辞めて、人手不足だそうだ」
「え?」
「明日の夜、アポイントを取ってはおいたが、」

 今度こそその言葉の意味を推し量った律は、しかし、複雑な表情をした。
 まともな職への糸口が労せずして見つかったことを喜べばいいのか、結局赤井の支配下から逃れられはしない命運を嘆いたらいいのか、矛盾する感情が妙に拮抗する。

「君は夜中まで仕事だったっけ?」

 含み笑いすら浮かべて、畳み掛けるようにその優越の地位から物を言う赤井に、律の心は怯んだ。それでも、自分のちっぽけなプライドと、自立への大きな第一歩を比べた天秤は大きく後者に傾いて、律は素直に赤井の提案を受けることに決める。
 自棄になってチェリーをいくつか放り込んだ律の頬袋が、まるでリスのようだと指をさして笑う赤井の瞳にはもう、先程の冷めた熱は滲まない。律の手の中に収まりかけたその大切な記憶の一部は、きめの細かい砂粒のように、さらりと指の間をすり抜けていく。



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