其の六



「ねぇ、お願いよ。これを、貴方のところの書生さんに渡して下さる?」

と、女学校の学友が私に差し出したのは、桜の花が描かれた封筒でした。

「書生って……、坂田さんのこと?」

「ええ。あの銀色の髪のお方。先日、お宅にお伺いした時、お目に掛かったのよ。とても素敵な殿方ね」

頬を紅く染めた彼女を見て、私は悟りました。彼女は坂田さんに好意を抱いてしまったのだと。

「まぁ。恋をするなら伯爵様と。とおっしゃって居た方が、書生に恋をするとは…」

皮肉を込めて云ったのですが、彼女は首を振るうと苦笑いを浮かべました。

「命短し、恋せよ乙女と云うじゃない。あんなに素敵な書生さんがいるなんて羨ましいわ。とにかく、お願いよ」

と、彼女は半ば強引に私の手に封筒を握らせると、小走りで、何処かへ行ってしまいました。
一人残された私は、封筒を見つめながら溜息を零しました。
私を通じて学友の女の子から坂田さんに手紙を渡すのは、これで三度目なのですから。

まぁまぁ!本当、ご婦人から、おモテになりますことっ!

カッカしながら、廊下を歩いて居ましたら

「大股で音を立てて歩く、帝國婦人がありますかっ!」

と、先生からお咎めを受けてしまいました。

家に帰って、坂田さんを探していると偶然、目撃してしまいました。
本当に、偶然で
盗み聞きをするつもりなんて更々、なかったのですが。

「好きなんです、貴方が」

と、俯きながら恥ずかしそうに呟いたのは、確か女中のスミ子さん。とても働き者の美人なお方です。 そんなスミ子さんが、告白していた相手は坂田さんでした。

坂田さんを異国被れと罵って嫌うのは、ごく一部。
所謂、古い考えを持った方々はそうでした。
ですが、若い女の子は違います。坂田さんに好意を抱く女中が沢山居る事を私は知っています。


珍しい輝くような銀髪も魅力ですが
実際、坂田さんは整った顔立ちをしてますし、背丈が高いに加え、将来有望な帝大生ときたら女の子達がほうっておく訳がありませんもの。



「いや、俺は」

「とても、とても好きなんですっ。貴方の事を思うと夜も眠れませんっ」

それまでずっと、だんまりだった坂田さんが何か云いか掛けようと口を開いた時でした。
スミ子さんが彼の胸に飛び込んだのです。


そこからは、私はとてもじゃありませんがお二人の様子を覗う事が出来なくて……。
頭が真っ白になったと云うべきでしょうか。
とにかく、坂田さんの腕の中で泣くスミ子さんと、それを突き放そうとはせずに宥める坂田さんを見たくはありませんでした。
とても、とても……お似合いだと思ったからです。


逃げ出すように、その場を離れました。

眼尻から今にも涙が零れおちそうでしたが、こんな処で泣いてしまうと怪しまれますので、私は必死になって涙を堪えました。

「あれ?お嬢様。お帰りなさい」

背後から声を掛けられて、振り返ると新八君がカルピス(其れがカルピスかどうかは定かですが。水の色が白かったのです)の乗ったお盆を持って、立っていました。

「銀……坂田さん、見かけませんでした?」

「いいえ」

「そうですか。全く。あの人は。人にカルピスを頼んでおきながら何処かに消えてしまうんだから」

ぶつぶつと坂田さんの文句を云う新八君。彼らは本当に仲の良い書生さんでした。
いいえ。書生仲間以上の、兄弟のような関係なのかもしれません。
私は、書生と令嬢だけの関係なので、それが羨ましくて時々、本当に時々ですが新八君に嫉妬に似た感情を抱いてしまうのです。

「お嬢様、どうかなされたんですか?」

眼鏡奥にある瞳が私を心配そうに覗き込むました。純粋で、何処か正義に満ち溢れた黒い大きな瞳でした。

「いいえ。大丈夫だから…新八君、其のカルピスを頂けるかしら…」

「ええ。良いですよ。坂田さんには内緒にしといて下さいね」

ふふっと、悪戯っ子の様に笑ってカルピスを差し出した新八君は、普段の大人びた態度とは逆に、年相応の少年に見えました。
眼の前の少年に嫉妬したり、女中や学友に嫉妬する私なんかより、彼の方がずっと綺麗で、強い人間なのかもしれません。
彼の入れたカルピスは、甘党の坂田さんの為に作った事が解る程、とても甘い甘い味がしました。

頼まれた恋文を坂田さんに渡しそびれた事に気がついたのは、夕食が済んだ後でした。
このまま、渡さないでおくことも考えましたが、やはり学友の気持ちを無碍にする事は出来ません。
私は丁度通りかかったお登勢さんに坂田さんに部屋に来るようにとの伝言を頼みました。


「お嬢さん、何かご用ですか?」

入って来た坂田さんは調度、お風呂から上がった所に声を掛けられたのでしょう。
いつもの袴ではなく、着流し姿でした。
その姿が、なんとおっしゃいますか……。
とても、色っぽくて私は思わず目を反らしました。

「ええ。坂田さんに渡すものがあって」

「俺に?」

封筒を差し出しますと、坂田さんは「お嬢さんからの、恋文ですか?」と冗談めいて笑いました。

「違います。私の友達からです。渡すように頼まれました」

坂田さんは無言で封筒を受け取りましたが、瞳は、またか。とでも云うように細められました。

「坂田さん、スミ子さんとお付き合いなさるの?」

「は?」

「だって、熱い告白を受けてらしたじゃないですか」

「………。盗み聞きですか。はしたない」

「ちッ違いますっ……偶然です!確かに、盗み聞きしたことは悪かったと思いますが」

「あれは断りましたよ」

坂田さんの言葉に心の奥底でホッと人安心する私が居ました。フラれたスミ子さんに、悪い気がしますが、それでも、彼が彼女を選ばなかった事が嬉しかったのです。
でも、あんなに美人な彼女の思いを断った事が不思議で、興味本意で問いただしました。

「どうして?スミ子さんはとても美人で気立ての良い女性なのに勿体ないわ」

「本当に、そう思ってるんですか?」

「え?」

「貴女は、本当に俺と彼女が付き合えば良いと思ってるんですか?」

普段より、低い声で坂田さんが私に云いました。
付き合って欲しくない!というのが私の本音ですが、此れでは私の思いを告げることになってしまいます。

「えっ、ええ。お似合いだと……思っています」

だから、私は嘘をつきました。

これで、良い。
これで、良いんだと思っていた時でした。
長い長い沈黙の後に坂田さんが、ふっと息を吐き出して

「嘘ついてんじゃねェよ…」

と、本当に驚く程、低く冷たい声で云いました。
其の言葉遣いにも驚いて、私が目を丸くして固まっていますと、彼は行き成り私を肩を押しました。

「わっ、坂田さん!?」

私の背後には本棚、そして私の眼の前には坂田さん。
其の坂田さんが別人に見えて、身体が強張るのを感じました。

「あんたは、俺が彼女をふった事を心の奥で喜んでいる……そうじゃねーのかよ」

月明かりの下、鈍く光る彼の紅い瞳は、まるで私の心の内の全てを悟っているようでした。
それが、恐くて私は再び彼から視線を反らし、顔を背けようとしたのですが、彼に顎を強く掴まれて、動きを封じられてしまいました。


「この手紙だって、本当は俺に渡したくねぇのに……お人よしのあんたの事だから、仕方なく渡してるんだろう?」

「嫌、痛いっ」

「本当に、あんたは酷いなぁ」

坂田さんの指が私の唇をなぞり、そして彼は顔をゆっくりと近付けて来ました。
こういう行為に疎い私でも、彼が私に接吻をしようとして居ることぐらい解ります。
待ち望んで居た、事なのに。
でも、私は嫌でした。
こんな状況で、好きな人と接吻なんてしたくはありませんでした。

「いや、やめて」

嗚咽交じりの声を発すれば、坂田さんの動きがピタリと止まりました。


「……なんて、冗談ですよ。申し訳ない。恐がらせてしまいましたか」

と、私の頭を優しくなでる手、口調は何時もの坂田さんでした。

「いいえ、いいえ。ただ、驚いただけですから。お願い、出て行って。一人にして」

顔を上げずに、俯いたまま彼の手を払いのけると、坂田さんは

「はい」

と云って、私から離れて行きました。


「此の手紙の返事書きますので、その時は、またお願いします」

そんな言葉を発した彼の表情は、勿論俯いている私には見えるはずもありませんでしたが……どこか、悲しそうな声をしていました。



『命短し、恋せよ乙女』は大正九年頃に流行した「ゴンドラの唄」の一部分。
大正八年、カルピス発売。


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