六.十六夜の月

その日、千草と松本夫妻は真選組の屯所に呼ばれていた。
大部屋に黒服を着た屈強な体躯の男たちが集まって、酒瓶を手に局長である近藤の乾杯の音頭を今か今かと待っていた。
ゴリラのような顔立ちの近藤の横に、松本が渋い顔をして座っている。年齢の割に体躯のよい松本だが、近藤の横に並ぶとなんとも小さく頼りなく見える。

「松本先生には日頃から世話になっていますからね!今日は、みんなで松本先生の誕生日を祝いますから!よし、みんな!松本先生の健康と活躍を願って、乾杯!」

近藤が杯を頭上にかざすと、歓喜に満ちた野太い声が上がった。
主役であるはずの松本を差し置いて、隊士たちは待ち望んでいたように酒を掻き込んだ。
松本はそんな光景を見て溜め息を溢した。

「ただ、てめぇらが酒飲み大会をしてぇだけだろ。全く、こちとら誕生日を祝われて喜ぶ歳でもねぇんだ」
「まぁまぁ、あなた。いいじゃありませんか。たまには若い人たちに囲まれてお酒を飲むのも悪くありませんよ」

と言う富は、黙っていれば文句なしの美少年である沖田と若い新米隊士に囲まれて、幸せそうであった。

「お富さん、今日は一段とお美しい限りでさ」
「あらあら、沖田くん。相変わらず口が上手いんだから」

沖田がころんと首を傾げながら言えば、富は嬉しそうに笑う。
おっとりとしていて、その実、富が怒ると般若のように恐ろしくなる。真選組の面々は美女だが怒らせるとかなりおっかない近藤の愛する人から学んだ経験なのか、誰も富に逆らうものはいない。勿論、松本も富に逆らえない。

千草はそんな真選組の面々をのほほんと眺めてながら、ひとり酒を飲む。やわからな甘い味を咥内で転がしながら楽しんでいた。

「あら、これ美味しい」

と、呟いた時だ。
若い隊士に詰め寄られた。

「千草さん!そうでしょう!これ、局長が今日の為にってわざわざ仕入れて下すったんですよ!あ、俺、お酌します!」
「あ、てめ。ずりぃぞ。俺が酌する」
「ざけんな。俺がする!」
「ええ、と。私は大丈夫なんで、良かったらお富さんか良玄先生にして下さいな。きっと、喜ばれますよ。特にお富さんとか」

千草はふわりと笑う。
若い隊士達は千草に好意を持って接して来ているのだが、全くもってこういったことに疎い千草は柔らかな雰囲気に似合わず、ばっさりと断る。
まさに一刀両断。
隊士達が「今日もダメだった」と撃沈していくのを知らず、みんな優しいなぁと、のほほんとした表情で酒を仰ぐ。

とん、と軽く肩を指で突っつかれた。首を傾ければ
オレンジ色のアフロ頭をした男、斎藤終が『千草さん、この前教えて貰ったツボを押したら便秘治った。ありがとう』と筆談で話し掛けてきた。

「良かった。お役に立てたみたいで、嬉しいです」

千草は口許を和らげる。

「そう言えば、土方さんがいませんが、どうしたんです?」

千草がふいに問えば、斎藤が『仕事している』と筆談で教えてくれた。

「土方さんは仕事中毒なんでねぃ。いつか仕事し過ぎて死なねぇかなぁ」

沖田が独り言のように言うと、松本が呆れたように首を振った。

「そりゃ、ほぼお前の尻拭いじゃねぇのか。あと近藤の」
「土方さんはそれを好きでやってんですからねぃ」

問題のある上司と部下を持つと苦労するなと松本は土方を憐れむように呟いた。



「千草さん」

背後から穏やかな声がした。千草が振り替えると山崎が盆を持っていた。

「これ、副長の所に届けて貰えませんか?副長、昨日からずっと部屋で缶詰め状態で、ろくに食事も取ってないみたいな」

盆の上には、お握りと急須に湯飲み、マヨネーズ。
「あ、それから」と山崎は徳利とお猪口を二つ、追加で乗せた。

「まぁ、山崎さん。私、もう沢山呑みましたよ?」
「千草さんがお酌をしてくれたら、副長も喜びますよ。あの人、ほんといつか身体壊しちゃいそうだから、千草さんビシッと言ってやって下さいね。千草さんが上目遣いで『土方さんの身体が心配です』とか言ったらきっと副長は喜んで言い付け護りますから」

山崎は悪戯めいた笑みを浮かべた。


あれは、どういう意味なのだろう。
山崎の言葉の意味を考えながら千草は副長室へと向かった。
つい数週間前までは殺人的な猛暑が続いていたのに、九月になると季節は急に秋めいて夜になると肌寒い。夏用の着物の上から、ショールを羽織ってきて正解だったと、千草は小さなくしゃみをしながら思った。

「土方さん、私です。野村です」

土方の部屋の前で声を掛ける。が、返事がない。襖の隙間から灯りが漏れているので土方は部屋にいるはずだろう。
もう一度、今度はやや大きめの声で「土方さん」と声を出す。それでも返事はなかった。

「失礼しまーす」

一応、断りを入れて静かに部屋の襖を開ける。瞬間、煙草の籠った臭いが鼻に流れて、千草は思わず咳き込んだ。
一体、どれぐらい換気をしていなかったんだ、と胸の内でごちて、新鮮な空気を室内に取り入れようと襖を大きく開いた。
部屋の主である土方は文机に突っ伏していた。右手にはペンを持ったまま。事切れたように眠っていた。

ーー寝てる。

千草は盆を畳の上に置くと、ゆっくり土方に近づいて、そっと土方の顔を覗き込んでみる。険しい顔だった。長い睫毛が影を落とす目元は青黒い隈ができ、眉間に皺が寄っていた。
灰皿にはしけもくの山。
何時もきっちりと隊服を着込んでいる土方にしては珍しくシャツ一枚だ。上着やベスト、スカーフはそこら辺に無造作に放り投げられていた。土方が仕事に追われているのがひしひしと伝わってくる無惨な有り様だ。

「土方さん」

もう一度、土方に声をかけるが、やはり起きる気配がない。
疲労が滲み出ている寝顔を見たら、起こすのを躊躇ってしまう。
お握りラップして置いておこう。
そう考えながら千草は立ち上がり、脱ぎ捨てられていた上着やスカーフを拾って、壁に掛かっていたハンガーに吊るす。
部屋の電気を消し、盆を持って部屋を出ようとするが、ふと思い立って引き返した。
このままでは土方が風邪を引いてしまうと、千草は肩に掛けていた千鳥柄のショールを土方にかける。
指先が土方の肩に触れた。
刹那。急に土方が動いた。手首を掴まれ、畳へと押し倒される。声を上げる間も無く強い力で喉元をぐっと押さえつけられた。苦しさで自然と涙が溢れでる。

「誰だ」

鋭い声が頭上から降ってくる。息苦しさで千草の視界は滲んだ。
部屋に差し込む月明かりの下、漆黒の双眼が抜き身の太刀のようにぎらりと光っていた。

「……っ」
「お前、野村か」

一瞬の間の後、我に返った土方がはっとしたような声をあげる。

「すまねぇ」

土方は慌てて千草の上から退いた。漸く首元を解放された千草は酸素を求めるように喘ぎ、咳き込んだ。

「その、なんだ。どうもこういう仕事をしていると人の気配に酷く敏感になっちまってな。此は癖みてぇなものだから気にすんな」

歯切れ悪く土方は言いながら、千草の腕を掴み起こす。千草は少し乱れた襟元を整え、いえと返す。

「気になさらないで下さい。部屋に勝手に入った私も悪いんですから」
「悪かった。どこも怪我とかしてねぇか」
「いえ、大丈夫です」

千草が言うと、土方は安堵したような溜め息を溢した。

「ところで、あんたは何で屯所(ここ)にいる」
「まぁ。今日は良玄先生のお誕生日を祝って下さるからって招待されたんですが」
「あー、そうだったな。すっかり忘れちまってた」

頭をがしがしと掻いて土方は文机に肘を乗せた。
「只でさえ忙しいのに総悟の野郎が余計なことばっかりするから」と、ぶつぶつ独り言が聞こえてくるが、千草は聞かなかったことにした。
上司と部下の失態をフォローするために此処まで仕事に追い詰められていたとは。

「土方さんにお握りとお酒を持ってきたんです。ちょっと一服なさって下さいな」

千草は畳の上に置いてあったお盆を持って、文机の上に置いた。

「すまねぇな。マヨもちゃんとあるじゃねぇか。野村、案外気が利くな」

マヨネーズを目にした途端、眉間に皺を寄たままだった土方の顔がぱっと和らいだ。
土方は嬉々とした表情で早速、お握りにマヨネーズをたっぷりとかける。
うわ、とマヨネーズの海に沈んだお握りを目にして千草は内心引いた。此れがなければ土方は文句なしの男前なのに、マヨネーズが全てを台無しにしてしまうから残念でならない。

「案外は余計です。というか、これは山崎さんが用意して下さったんですから、お礼は山崎さんに言って下さいな。じゃあ、私はこれで」

マヨネーズのお握りを差し出される前に千草は逃げようと立ち上がる。

「待て」

途端、土方の大きな手に手首を掴まれた。予想だにしない事態に千草は驚いて足元がもつれ、バランスを崩す。
幸か不幸か。千草が倒れた先は、土方の腕の中だった。

「わり、大丈夫か?」

低い声が直ぐ近くで聞こえた。千草の鼻先は土方の胸板に当たる。細身だがしっかりとした鋼のような筋肉で覆われていた。煙草の匂いがより一層、濃く香る。

「は、はひっ!?」

思わぬ事態に千草は間の抜けた声をあげた。慌てて土方の腕から抜け出す。

「はひ、ってなんだ、はひって。色気ねぇな」

土方はくつくつと笑った。

「ひ、土方さんが急に引っ張るから」

顔を真っ赤に染め、跳ねる心臓を必死に落ち着かせる千草とは違って、土方は至って平静であった。女の扱いに慣れていると千草は唇を噛む。
何だか、悔しかった。

「悪かったって。……今夜は月が綺麗だ。月見酒に付き合え」

土方は徳利を顔の前で掲げ、にやりと笑った。




江戸の街明かりにも負けず、十六夜の月は月華を放つ。
土方と千草は縁側に座り、中夜の空に映える月を見ながら酒を飲み交わす。既に顔が赤い土方に対して、千草は至って平然とした顔をしていた。

「お前、酒強ぇんだな」
「……あまり、飲まないんですけどね。体質と言うべきでしょうか」

千草が徳利を差し出して来たので、土方はお猪口を差し出した。並々と酒を注ぐ手は白い。元々、色が白い千草の肌は月華に照らされ、蒼白く何処か艶かしい。
張り倒した時に触れた首の細さや、柔らかさを思い出し、土方は目を反らした。

「ところで、土方さん。ちゃんと寝てますか?隈、酷いですよ」
「……最近、忙しいせいかまともに寝てなくてな。昨日、今日とほぼ徹夜状態だ。流石に、この歳になると徹夜は堪えるな」

言いながら土方はぐっと伸びをした。背骨がぱきりと鳴る。自分の年齢を感じ、少しだけ物悲しくなる。

「お仕事忙しいのも分かるんですけど、睡眠をちゃんと取らないと、脳がちゃんと働かなくなるし、将来的に認知症になるリスクが高くなるんですよ」
「……医者みてぇなこというな」
「これでも、医者ですから。一応」

くは、と土方は笑った。
何が可笑しかったのか、くつくつと喉を鳴らして一頻り笑った後、突然ごろんと横になり、「ちょっと膝貸せ」と返事も待たずに千草の膝の上に頭を乗せる。柔らかな感触と、鈴蘭の匂いが心地よい。

「……酔っているんですか」

戸惑いに満ちた声が降る。土方が目線を上げれば、千草が顔を赤くして目を泳がせていた。桜色の唇は酒に濡れていて、まるで熟れた果実のように瑞々しい。口付けてみたい、と土方は生唾を飲み込んだ。

「少しぐれぇ、いいだろ。酔っぱらいの介抱してくれよ、な。野村先生」

欲を何とか抑え込み、土方はからかうように言った。

「土方さんって、お酒に弱いところまで銀さんそっくりなんですね」

途端、土方の眉がぴくりと動いた。眉間に皺を寄せ、端正な顔が不機嫌に歪められる。

「おい、聞き捨てならねぇな。あの腐れ天パー野郎と一緒にすんじゃねぇよ。大体、俺はちゃんと働いている」
「まぁ、そこは全く真逆なんですけど。何となく、お二人は雰囲気というのが似ているなぁってたまに思うんですよね」
「……どいつもこいつも同じこと言いやがる。あの胡散臭い天パと一緒にされるぐらいだったら、うんこと一緒にされたほうがマシだ。つうか、何時からあの野郎を名前で呼ぶようになったんだ」
「……銀さんから、要望がありまして」

千草は唇を尖らせた。含みのある物言いだった。
面白くない。
土方は腹の底で黒い靄が蟠るのを感じた。
銀髪の男は少なくとも千草に気がある。自分に向けられる殺気が物語っているからだ。
俺のモノに手を出すな、と。

ーー万事屋にゃ、渡したくねぇな。

ついと手を伸ばして千草の頬に触れる。肩に掛かっていた髪を指先に絡め、弄んだ。また、千草の頬が朱に染まる。恥ずかしげに俯く、この顔が堪らなくそそられる。もっと見たいと思った。
土方は、少し色を含んだ声音で囁いた。

「俺も名前で呼んでくれよ」

土方はゆるりと口端を持ち上げる。

「えっと、じゃあトッシー?」
「却下」
「ニコチンマヨラー?」
「嫌がらせか」
「じゃあ、十四郎さん……?」

十四郎さんーー
土方の頭の中で声がする。
記憶に住み続ける、儚げな美しい女の姿。
もう、会うことの出来ないひと。

「やめろ。その呼び方はやめてくれ」

土方は切りつけるような声で言った。鋭さが含まれた物言いに自分でも驚いて、しまったと胸の内で舌を打つ。
視線を上げると、千草は口をぽかりと開けて固まっていた。

「あ……。すいません、少し馴れ馴れしかったですね」

千草の声音は何時もの柔らかな調子であったが、何処か傷付いた顔をしていた。黒い瞳の奥が揺らいでいる。
土方は身を起こし、閥が悪そうに千草から顔を背けた。

「……悪い……怒っているわけではねぇんだ。やっぱり、何時ものように呼んでくれ。それが一番いい」
「……はい」
「もう、行けよ。そろそろ、近藤さん達が酔っぱらい始める。そうなる前に、松本先生と富さんを連れて帰れ」
「はい……。今日は、わざわざありがとうございます。とっても、楽しかったです。……お休みなさい」
「ああ」

律儀に礼を述べる千草に、土方は素っ気ない口調で返す。千草の顔をまともに見ることが出来なかった。
ぱたぱた、と廊下を走る音が遠ざかるのを聞いて、土方は溜め息を溢した。
ごろりと縁側に寝転ぶ。

「何やってんだ、俺」

土方は自嘲めいた乾いた笑みを溢して、目を閉じる。
瞼の裏に映るは、儚げな女の姿と……今にも泣き出しそうな千草であった。



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