生の表記は重要

 国内外を問わず教団の命令であちらこちらに足を運び普通なら死ぬような任務を達成しては笑顔で南十字男子修道院に帰ってくる養父が、まるで俺は夏の観光に行ってきたのだと言わんばかりに院に住む人間たちに、勿論幼い奥村兄弟たちへも、土産を買ってきたことがあった。5歳くらいのことだった気がする。雪男でさえまだ神父の裏の顔を知らない頃だった。後のことを鑑みれば雪男にまでカモフラージュする必要はなかったはずだが、そのときの養父は京都に行ってきたのだ、と快活に言って、兄弟を横一列に並ばせた。まず、燐には生八ツ橋の箱を贈る養父。オーソドックスなものだけでなくいちごやチョコレートや抹茶味も詰まっているという。
 自分にはどんな美味しいものが渡されるのだろうかとそわそわしていた雪男へは、しかしどうしてか、気泡緩衝材に包まれた金魚のガラス細工だった。なんで?と兄とのそれを思わず見比べた。
 薄紅からゆったりと水色に透けるガラスで拵えられた、ヒレの一本一本までが目視できるほど精巧な作りの細工だった。風鈴のように中身は空洞で、全体的にぷくりとふくれている。指の腹でなぞると、ウロコの起伏にあわせてぼこぼことした感触が伝わってくる。別に光るわけでも色が変わるわけでもない。本当に面白みもないほどただのガラスだ。江戸時代じゃあるまいし現代の5歳児なめてんのか、と毒づこうにも、雪男が喜ぶと信じて疑っていない然とした養父にそんなことを口に出来ず、あいまいな笑みを貼り付けて受け取るしかなかった。東京ではなかなかお目にかからない珍味を嬉しそうに頬張った兄の隣で、どうして自分に与えられたのが食べることも出来ないガラスの塊なのだろうと、正直不満だった。
 兄と二人部屋に戻っても、雪男は釈然としなかった。水族館なら臨場感でわくわくもできるが、手に収まる大きさの、綺麗なだけで動きもしない魚には興奮も出来なかった。雪男は、繊細な意匠に触れることを恐れて、蛍光灯にすらきらきらと輝いてみせるそれを、机の引き出しに仕舞いこんだ。こんなものは女の子が喜ぶものだと感じて、恥ずかしかったというのもある。
 「ゆきおー」
 結局雪男には一口たりとも渡さず全部一人で食べきった兄は、満足そうに餡の付いた口元をぬぐい、寝台から二段ベッドの上で不貞寝する雪男に声をかけた。行き場のない不機嫌さを抱えた雪男は寝たふりをしてそれをかわそうとしたが、燐はしつこく何度も名前を呼んでくる。もともと気が長いたちでもない雪男はついに根負けして、「なにっ?」と荒々しく返事をしてしまった。
 なんでこいつ不機嫌なんだろう、と思案しているらしい間を少し空けてから、「おまえはジジイから何もらったんだよ」と気を取り直したような朗らかな声を上げる燐。尊敬している藤本神父のことをジジイと呼ぶ兄に平素からあった反発心が、お前はもう八ツ橋くっただろ!という激情とともに更に雪男の不機嫌に拍車を掛ける。燐は自分の土産に夢中で雪男の葛藤など欠片も気にかけていなかったに違いない。夕飯前だというのに満腹になって、腹ごなしがてら雪男に矛先を向けてきただけだと雪男は悟った。兄のこういうところは相容れない。生八ツ橋なるものがどんなものなのか兄と同じ東京生まれ東京育ちである雪男が気にならないとでも思っていたのだろうか。ていうかくれよ一個くらい。人差し指と中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。「ゆきおー?」と言いながら、燐が雪男のベッドにのぼってくる。うぜえと思いながら雪男も体を起こした。
 「……置物だよ。ガラスの」
 「えーなにそれ。カッケー」
 見せてくれよ、と当たり前のような声音が下から聞こえたものだから、よっぽど雪男は階下とベッドをつなぐ梯子を外してやろうかと考えたが、ぐっと堪えて「いやだよ」とだけ返す。
 まさか拒否されるなんて思っていませんでしたと言う顔色で燐は雪男を窺う。青い布団が敷かれたベッドに乗り上げて、なんでこいつ機嫌悪いんだと顔面中で不思議がっている。ゆきおくん、といつにないお兄ちゃん声を出し、上目遣いで「何すねてんの」と聞いてくる。こんなちゃらんぽらんな兄にそんなことを言われるなんてとますます表情を硬くする雪男にとって、真情を吐露することは難しい。燐の弟は5歳の時には既に、心を硬化する力を養っていた。
 無言になってしまった雪男のかたく握られた手のひらを上からやわやわと撫でる燐。
 同じ遺伝子から生まれたのに二人の手の温度はいつも真逆で、ひんやりとした燐の手のひらは払いのけがたかった。
 内に高ぶった熱までもがじんわりと冷やされていくようだった。なんだか雪男は、引き出しに仕舞いこんだ金魚のことが急に哀れに思えてきた。
 「……お兄ちゃんに渡したら、壊れそうだもん」
 「おい、なんで兄ちゃんを信用しない」
 「経験則だけど。僕だけだよ、お兄ちゃんの弟やってるの……」
 兄のことがきらいなのではない。羨ましいというおもいはもう覆りようもないけれど、5年も兄弟をしていたら彼が悪い人間ではないことはわかっている。無神経で自分勝手で雪男の苦しみをきっと一生わかってくれないような男だけれど、きらいではなかった。昔から、きらいにはなれなかった。
 「それに、お兄ちゃんは、もう食べた……」
 「あー? なんだ雪男、お前、うらやましかったのか? 生八ツ橋、うまかったけど」
 しれっと答えた挙句、燐は雪男のベッドにごろんと我が物顔で転がった。兄を見ているとジャイアニズムという言葉をよく思い出す。彼にとっては雪男のものは名指しで与えられた土産でもベッドでも養父からの父性愛でも関係なく自分が手を出しても許されるものばかりであると思っているのだろうなとよく感じる。繰り返しになるが燐のことはきらいではない。きらいではないんだ。ただこういうところ、まじうぜえとは思う。毒づいた。「……全部一人で食べやがって……」一口くらい食べさせてくれてもよかったんじゃないの僕だってこれから成長期を待つ5歳児なんだけど、と。しかし燐の反応は、てっきり「んなこと言ったって俺へのプレゼントは俺のもんだろうがよ」などと茶化すだけだとばかり見当をつけていたのに反して、心底怪訝な様子だった。
 「でもお前、ニッキ、食えたっけ?」
 「え?」
 さも当たり前、みたいな感じで兄が言ったので、雪男の返事も妙に素っ頓狂なものになった。
 「あれって皮にニッキ、シナモンが入ってんだけど……お前食えたっけあれ? アップルパイ苦手っつってなかった?」
 だからお前へは魚だったんでねーの?
 兄はそう言った。
 「に……そ、」
 そんな、と声を出そうとして、そんな資格などないと理解した。
 そういえば、本当に、なんの重要性もないたわいない養父とのやり取りで、数ヶ月前くらいか、雪男お前は何が好きなんだと聞かれたことが、あった。雪男の優れた記憶力が、今頃ずるく出てきた。後を思えばひょっとすると、養父なりの詫びだったのかもしれない。今後雪男に課すあまりにも大きな役割を、可哀相に思って、だから厚く情をかけたのかもしれない。
 しかしそんな自分が辿る運命のことなど知るわけもなく、数ヶ月前の雪男は単純に食の嗜好を聞かれたのだと思って、魚かなあと答えたのだ。5歳の彼は紅潮した頬を隠す最もシンプルな方法をとった。ぼすんっ。
 ここがベッドでよかった。倒れても心配をかけないで済む。濁流のような頭脳が回る。双子でも味覚は異なる。ましてや二卵性だ。シナモン? ニッキだと? ああ。あれほんと臭いよ。味も妙だし、一口かじっただけで喉の奥が震えそうになる。燐のたった一言で、驚くほど頭が冷えた。
 何拗ねてたんだろう僕。本当にただの馬鹿だった。
養父は雪男に土産を買ってきたのだ。雪男にだ。どうして、兄と比べる必要がある。燐が気にしないことを、女々しくこだわる。馬鹿の極みじゃないか。
 兄がいなければ目も見えないのか。
 「……ちょっと、待ってて」
 言い残し、雪男はベッドを降りた。
 引き出しを開ける。勝手に哀れむんじゃない。透けた瞳に諭された気がした。そうだね。その通りだ。ごめんなさい。出来る限り優しく掴んで、ろくに説明もしなかった雪男について降りてきた燐に、そのまま渡す。
 おおこれか!と両手で受け取る燐の顔を見れない。「綺麗じゃん」、と彼はてらいなく笑った。
 「ジジイの奴、俺には手ー抜きやがって。大体、魚にするにしてもだよ。なら鯛とか持ってかえれっつーの。ビミョーに変なセンスなんだよな。これじゃあ雪男、食えねーじゃんなあ」
 「そうだね……いや。うん、普通にこの時期京都から生魚もって帰るの危ないからだけだと思う……。今ようやくそう冷静に考えられるようになった」
 「あっ実は飴なんじゃねこれ?」
 「えっ聞けよ馬鹿兄」
 「舐めてみれば」
 「え?」
 雪男の目の先に、そう、我が物顔で金魚を突き付けた。
 紅が極限まで透けた背鰭を二本の指で持ち上げて。
 自分の言ったことを信じて疑っていない、無闇に直線な目をした燐は、雪男の唇にぺたりとガラスをあててみせる。この馬鹿は、一体いつまで馬鹿のつもりなんだろう。弟はいまだにのろりとした反応しか返せずに、押し当てられた硬質の感触に戸惑っていた。
 「舐めろよ」
 あ。
 こわい。悲鳴が出なかったことはけれど、出せなかった、と表すほうが正しい。
 自分に走った震えの意味がわからない。だけどこの、血の繋がった少年のことを、馬鹿な少年のことを、雪男はきっと恐ろしい、と思ったし、逆らえない、と感じた。涙さえ浮かびそうだった。
 すきもきらいもうぜぇもない。そんなことを知らぬ顔で言えるのは燐がまどろんでいるときだけだ。本来自分は、兄弟でありながら、そんな資格もない。立場が違う。地位が違う。格さえも多分、違う。泣きたいのは不条理さにだろうか。それでも跪いてしまうのであろう己にだろうか。
 察してしまった。燐がなにか言えば、自分はそれを、究極的に受諾する生き物なのだと。乱暴者で粗忽者で、自由勝手に生きている兄に、絶対逆らえない、そんな風に強く思ったのだった。
 瞬きも封じられたような時間の中、やっとの思いで、からからの舌ですぼむ唇を割った。
 「あっ」
 命令に似た響きを消して、燐はひどく子どもっぽい驚きの声を上げた。軽やかな音が床で鳴り、その瞬間、ぶわっと暑さが返ってきた。夏であることを思い出した。汗で燐の指が滑ったらしい。飴じゃなかったのか、と呟く兄。
 当たり前だ。もしも飴であったならいきなり緩衝材に梱包されているはずもないし、うろこをなぞった時点で気づく。ただのガラスだ。養父が、雪男を想って買ってきた金魚だ。
 「まじかよほんとに割っちゃった!? ご、ごごごめんゆきお! ケガねえか?」
 何も兄が謝ることはない。雪男が顔を歪めたのは砕けた魚が無惨だったからではないのだ。さいごまで父がくれたものは美しい。眉間に鈍い痛みが走り、眩しさに耐え兼ねて目を閉じた。なんて明るいんだ。
 こんなのって、ずるいんじゃないのか。
 薄紅色から水色へとゆっくりと変化するガラスは割れてもきらきらと輝いていた。柔らかく、甘く、きらきらと。







お誕生日おめでとうございます。

[ 8/10 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -