穴を掘る男

綾部にはどうしても忘れられない記憶がある。この学園に来る直前、9歳のときに飼っていた小さな犬っころのことだ。お向かいに住んでいた同い年のミヨちゃんが、飽きたからきいくんにあげるね、と首輪ごとくれたその柴犬は名前をチロと言った。チロは子犬だったが、かつてのミヨちゃんが鼻高々に自慢していたほど利口な犬だった。
彼女のことはもう薄らぼんやりとしか思い出せないが、ミヨちゃん自身も恐らく可愛い女の子だったような気がする。綾部の家と目と鼻の先な近所に住んでいたが、生活の水準はぜんぜん違ったはずだ。綾部は彼女が同じ服を三回以上着ているところを見たことがなかったし、彼女が纏っていた気品のある香も、農業を営んでなんとか生計を立てている綾部の家では決して嗅ぐことができないものだった。当時は彼我の経済状況という現実を当たり前のものとして受け止めていたので劣等感なども抱いたことはなかったが、今から思えば相当贅沢な暮らしをしていた一家だったのだろうなと思う。ねえきいくん見てみてお父様に言って犬を貰ったの、と花が開くような笑顔で彼女がチロを綾部に見せてきたのも、確かその三日前のことであるはずだった。
チロチロ、と舌足らずに可憐な声で呼んでいたはずのそんなミヨちゃんは腕に黒い猫を抱いていて、いとおしそうに猫へミイコ、と囁きながら毛を撫でていたのだった。三日前は自分の居場所だったはずのその細い腕を見上げるチロは、寝そべりながらぼんやりと黒い目をしていた。犬に心があるのかなんかどうかもわからなければ、チロが飼い主に捨てられたことを理解しているのかもわからないが、一鳴きもせずチロはただ地に伏せっていた。
あげる、とミヨちゃんは再三口にした。別に犬なんか好きじゃなかったし綾部の家は、犬一匹でも飼うことをよしとするはずもなかったが、潤んだようなチロのその目が大層、2歳の綾部にはかっこよく思えたのだった。くれるのなら貰う。綾部はまだ膝に載せられるくらいの大きさの、清廉な目をした犬を受け取った。こうしてチロは綾部のものとなった。綾部の性格はすでにそのころから確定しており、最初は馬鹿返してきなさいと口をそろえていた両親も、頑として譲らない姿勢の綾部に負けたのか次第に何も言わなくなった。犬は小食だった。綾部の食いぶちが少し減っただけで、チロは夜間に吠えることもなければ水浴びを嫌がることもなかった。本当にかしこい犬だったのだろう。育てるのになんの手間もかからなかった。まだ金魚のほうが大変だったくらいだ。
チロは半月後に死んだ。綾部の忍術学園入学の前日のことだった。

「何で日中夜を問わず穴を掘るんだ、と聞いただけで……何も私はお前の過去を語れなどとは言っていないぞ」

困惑しているというよりは胸糞悪い話を聞いてしまったという顔をした滝夜叉丸が仁王立ちをしたまま、穴の中の綾部を見下ろしてくる。夕飯だと呼びに来たらしいのだが、綾部は気にせず穴を掘り進める。まだ穴が浅いのだ。立てば頭が出てしまう深度は、綾部を逸らせる。綾部の背丈をすっぽりと覆い容易には抜け出せないほどの深さになって、土壁を見渡して、それからようやく安心できるのだから。
暫く間が開いたのでてっきり話は終わったものだとばかり思っていた綾部の頭に、「返事しろ喜八郎!」と滝夜叉丸が地上に落ちていたのだろう石礫を投げてきた。欝陶しくおもいながらも顔をあげると、沈みかけの夕日がいやに眩しかった。これだから地表は気に入らないのだ。
「その親の富に胡坐をかいて高慢ちきで性格の悪いミヨちゃんとやらはどうしたというのだ! 後味の悪い話を途中でやめるな! 第一お前は私の質問に正確に答えていないだろうが!」と穴のふちギリギリに立った同級生に叫ばれる。高慢ちきとはよく言ったものだお前といい勝負である。
その足を掴んでここまで落としてやろうか、と一瞬思案したが、よりうるさくなるだけだと思ってやめた。はあ、晩飯だと呼びに来たのがせめて田村であればまた違った結果になっただろうに。あいつはまだ空気が読める子。

「埋めたんだ」
「なんだって?」
「死んだチロを、学園に持ち込んで、私は確かに埋めたはずなんだが、それがどこなのかわからないんだ」
「は……」
「穴の深さは、よく覚えてるんだけどなあ」

当時の身長が四尺ちょっとだったとして、一日をかけて掘った穴は、ゆうにその五倍はあっただろう。場所だけでなく、自分がどうやってそこから這い出たのかも覚えていないが、それは確かにあったことなのだ。チロを埋めた、その感触は今でも手に残っている。
綾部は今でも穴を掘る。
感傷なのか胸懐なのか自分でもわからないのだが、あ、私はチロの墓を思い出せない、そう認識した時から、綾部は穴を掘り始めたのだった。墓標を作らなかったことを後悔した。4年かけて掘った、もう学園中の土を耕したんではないかと上級生たちからは揶揄されるが、そんなことはないのだ。どこを掘っても亡骸は見当たらない。
ただの犬だった。手がかからないという意味では、可愛げもなかったかもしれない。だが、忘れられない、数年が経ってもミヨちゃんを見上げていたあの眼を忘れられない。
死んだものは生き返らないことはわかっている。もののように渡された命だ、特別な執着もなかった、はずだ。ただ、結局半月の間一度も意思を感じさる鳴き声を上げなかった犬の、骨が見つかったら花くらい手向けてもいいと思っている。それだけだ。
それだけでずっと掘り続けているのか、と穴の上から同級生が訊ねてくる。懐古に夢中で存在をすっかり忘れていた。というか、夕飯なんだったらお前も早く行けよボケと思うのだが、彼はいまだ動く様子を見せない。なんなんだ。気が散るなんてことはないが見学するならするで黙っとけばいいのに。返す返すもこれが田村だったら。

「夕飯だと言っているだろうが。それでお前まで餓えるつもりか、喜八郎」
「はあ? 何の話だ」
「チロは餓死だったんだろう」
「・・・・・・なんでお前がそんなこと知ってる」
「馬鹿か。話を聞いていたらわかる。育ち盛りの子犬が、子どもの半分程度の餌で足りるわけがないだろう。そのミヨちゃんとかいういかにも腹立たしいガキに捨てられた時点で、チロとやらはとっくに諦めていたのさ。犬にだって心はある。犬にだって諦念はある。黒い瞳もするだろうよ、チロはもう自分が長く生きられないことは分かっていたんだから。そりゃあ吠えもしないさ、叫ぶとは望むことだ」

だから寝かせといてやればいい、もういいだろう。と続けられ、ふつふつと怒りがわいてきた。お前は何様だというんだ、と滝夜叉丸を睨む。滝夜叉丸はこの場合完全な部外者であるからして、綾部に偉そうに高説を垂れる謂れなどない。チロに一番近かったのは綾部だ。知った風な口をきくなと、手に持つ耡をぶん投げてやろうとした。

「お前が悔やんだのは墓標じゃないだろう。命を粗末に扱ってしまったことを後悔してるのなら、ちゃんと飯を食え。お前に食われない糧は、なんのために死んだのだ」

振りかぶった手が止まったのは、怒鳴るでもなく、ただ静かに、静かにそう口にされたからだ。
何言ってんだこいつ。とその的外れさに呆れ返ってしまった。
綾部はチロの死を惜しんでいる訳ではないのだ、ただ弔う際に花を手向けることもできない不手際をしてしまった当時の自分を悔やんでいるだけなのだ。なんだ、その心温まる話は。誰のことだ何年の付き合いなんだよなんもわかってねーな馬鹿か。
呆れたついでに殴り掛かる気力が失せてしまった。
なんだか脱力したら腹も減ってきてしまった。仕方ない。
綾部は犬が好きだった訳ではない、かろうじて郷愁だの哀愁だのはあったとしても、あの記憶を忘れない理由、そして穴を掘る理由に過去の清算以外はない。
ない。

「だからお前も人間に戻れ、喜八郎。そうだ、それが作法だろう」

いつの間にかあたりは薄暗い。光源が沈み同級生の顔が見えないまま綾部は重なった、腹が鳴る音を聞いた。
明日も掘るけど、と返事をした。
明日も掘るけれど、チロの骨を探すだろうけれど、多分明日もこのおせっかいな男は夕飯時に呼びに来るのだろうとも思う。想像するとものすごく疲れるが、きっと綾部はそれまで掘り続けていることだろう。犬の残滓を見つけるまで。

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