ライオンとキコリ

 クロが誰にでも笑いかけなくなったのは彼が小学校の5年生の頃だ。それまで誰にでも分け隔てなく接して、誰の悩み相談にでも乗ってやり、クラスメイトからは勿論担任の先生からの信頼も厚かったクロは、唐突に「いい子」を辞めた。
 他者を見た目で差別する発言をするようになり、少しでも自分の思い通りに行かないと、女の子相手にでもすぐに手を出すようになった。ボキャブラリーに罵詈雑言が増え、彼の魅力の一つであったやわらかい微笑みは、冷たい嘲笑に変わった。先生の手を焼かせても知らん顔をするようになった。黒尾鉄朗の変貌に誰しもが戸惑った。どうしたの、てつろうくん?疑問の声は、鋭利に光るクロの双眸のもと、切り捨てられた。もともとクロは少年にしては大人びた顔をしており、そこから笑顔を取っ払うと威圧感を与える造詣をしていた。それまでの彼の朗らかさを知っていても、人が敬遠するのにそう時間は掛からなかった。
 小学5年生の国語の教科書に、オズの魔法使いが取り上げられた。てつろうくんは心臓がないんだ、とそのときクラスの中心にいた女の子が、音読途中に声を上げた。それに数人の生徒が乗った。担任教師はすぐに諌めて、女生徒に続きを読むよう強く促したが、内心彼女もそうかもしれない、という考えがぬぐえなかった。心臓が、と叫んだ女の子に、上履きが投げつけられた。持ち主はクロで、投げた人間も勿論クロだった。女の子は泣いた。泣いて、クロに「だれかてつろうくんに、心臓をかえして!」と嗚咽を漏らした。彼女は以前のクロが好きで、2月にはチョコレートを渡すのと一緒に告白しようと考えていたのだった。しかしこの数ヶ月後、勇気を出して変貌した彼に手作りチョコを渡しても、受け取られないどころか、苦心したラッピングごと靴で踏まれてしまって、彼女は手ひどい失恋をすると共に、クロを二度と許さなくなったのであった。
 クロが5年生の境を経ても変わらず接するのは、一学年下の彼の幼馴染である、孤爪研磨くらいなものだった。
 クロの暴君ぶりは学年を超えて瞬く間に広がっており、何度か彼の親も校長室に呼び出されているので、学校中どころか町内中にクロの悪評は轟いているのだが、そんな中、以前と変わらずクロと接すること出来る人間がおり、それが研磨なのであった。
 不思議なことに、研磨にだけはクロも以前の気質のまま、暴力を振るうことも、口汚く罵ることもなく付き合っているようなのだ。クロの変貌を憎む人間全員が、なぜ?と首をかしげた。研磨という少年に、自分たちが劣っているとは思わない。むしろ、研磨少年は気弱で、自分から友達を作ることを苦手としている、存在感も薄い、彼らからすると面白みも何もない少年だった。それなのに、何故彼にだけ?という概ねの疑念をあざわらうように、クロはやはり、研磨にだけ柔らかく微笑みかけた。研磨の手だけを、優しく握った。
 実際のところ、どうして自分がある日を境に他者を疎ましく思うようになったのか、そんな中研磨にだけは変わらず柔和に触れられるのか、クロ自身にも、わかっていなかった。
 クロだって、誰のことも殴りたくないし、せせら笑いたくないし、傷つけたくない。チョコレートだって受け取りたかった。けれど駄目なのだ、周りに居る人間がどうしても、汚く、悪辣であるように見えてしまう。好意を込めて贈られたはずのチョコレートだって、おぞましい怨念と毒素が練りこんであるようにしか思えなくて、慄いて踏みつけてしまった。真っ赤な顔でクロに可愛くラッピングされたチョコを手渡してくれた女の子は、以前クロが好ましく思っていた相手だったのに。
 足でそれを踏みつけた瞬間、大泣きした彼女の顔を、やはり汚いと思って、そんな自分に戸惑い、なんのフォローもなくクロは逃げた。わざわざ黒尾家の玄関口までやってきて、勇気を振り絞って渡してくれたのだろうに、彼女の行動がわずらわしいとしか思えなかった。悔しくなってクロが向かった先は、勝手知ったる隣家の孤爪家だった。そこの家の子であるようにクロは玄関から堂々と孤爪家に入り、一目散に一人息子の部屋まで駆け上がった。ベッドの上で携帯ゲーム機を動かしている研磨に、飛びついた。勢いあまって押し倒し、仰天する研磨に頓着せず、好きなだけ抱きしめた。まだ黒尾家の前には泣いた女の子が居るだろうか。それとももう帰っただろうか。クロが踏みつけたチョコはどうしただろうか。そのまま置いて帰ったのだろうか。そんなことを考えているだけで恐ろしくなり、研磨に抱きつく力はますます強くなる。すがりつく力はますます強くなる。
 戸惑うように、研磨の手がクロの背中に回され、ぽんぽんと撫でられた。ようやくクロは力を緩め、研磨の猫のような瞳を正面から見つめ、顔をゆがめる。
「おれ、研磨の前でだけ、人間になれる気がする」
 クロの声は震えており、クラスメイトに暴力をふるってそ知らぬ顔をしている少年とは思えないほど、あどけなく沈痛な面持ちをしていた。
「けんま。おれ、どうしてだか、最近周りの騒音がうるさくて、しかたないんだ。なんでだかわかんない。誰から何言われても、うるさいとしか思えない。癇に障ってしかたないんだよ」
 クロは自分の胸を押さえ、すぐに離す。それから、組み敷いた研磨の胸に頭を寄せた。
「研磨の心臓の音を聞いてるときだけ、穏やかでいられる。普通の人間でいられるんだ……」
「……クロはいいやつだよ」
 研磨の返事を聞き、ようやくクロは安堵する。ささくれ立った心を研磨の心音が均していく。研磨に抱きついたまま、研磨の声に絆されるように、安心しきった表情で、やがて眠りについた。自分には研磨が居ればいいのだ、そんな確信を胸に、誰よりもどこよりも心を許せる場所で、少年そのものの顔でまどろんだ。
 クロが完全に眠りに落ちたことを確認した研磨は、彼の眠りを妨げないようにゆっくりと上体を起こし、クロが縋った自分の胸に触れた。服を脱ぎ、ぱかりと胸を開いてみる。そこには心臓がふたつ、収納されていた。
 クロが小学校5年生になったある日、研磨は彼からこっそりと、彼の心臓を奪って、自分の胸に隠した。ハートを失ったクロは何にも誰にも愛情を感じられず、それまで彼が築いてきたものすべてを自らの手で壊し始めた。彼が安寧を見出すのが、彼の心臓を持った研磨にだけなのは、当然のことだった。研磨は何も持っていなかった。クロが持っているものを、何も持っていなかった。けれどクロは昔から研磨を昔から爪弾きにすることもなく、そして今では縋り付いてくるのだった。他の誰でもなく、研磨にだけ。それは研磨のほの暗い自尊心を満足させた。なんせ研磨は今、心を二つも持っている。
 クロの心臓は研磨の胸の中で、楽しそうに脈打っている。





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