井の中の蛙大海を知らず、されど | ナノ


18

ここに来るまで、私は海の存在を予測することもできなかった。絵画のような風景に、ただただ呆気にとられるばかりだ。
限りなく黒に近い濃紺の空と、白銀に散りばめられた星々。不規則な星の並びの間に私の知る星座はない。海と空に対をなして浮かぶ双子のお月様なんかは握りこぶしより大きくて、黄金色の光をたっぷり振りまく。聞こえるのは打ち寄せては返す波の音だけで、つい息を潜めてしまった。
どうしてここに来るまでなんにも気が付かなかったのか。しばらく考えてから単純な答えがぽんと浮かび上がった。ここには海独特の磯臭さがない。陸から吹いてくる風に乗って土のにおいが少し香る程度だ。もしかすると、これは海ではなくどこまでも広がる大きい湖みたいなものなのかもしれない。……湖って、波あるのかな。
それに、今こうして前を向くまで私はずっと自分のつま先しか見ていなかった。だからお月様がいくら大きくても気付けなかった。作り物に思えるほどきれいなお月様の存在を、すっかり目に入れていなかった。
一つの気付きに伴って、頭の端々で花火が散る。足元にもちかりちかりと星とよく似た光が無数に散らばっている。足を踏みしめると、砂とはまた違った手応え。子守妖精さんを振り返る。心なしか、彼女の顔がさっきより明るく見えた。

「ここの砂ね、ガラスでできてるのよ。こなごなになったガラス。」

そんなまさか。しゃがみこんで砂をよくよく眺めてみる。足のしたにあったものは確かに、砂粒と言うにはひとつひとつがあまりにも大きく手のひらを埋めたら血が滲みそうなほどに鋭利だ。

「ほら、ガラスのハートって言うでしょ?このガラスは、外の世界のひとの砕け散った心なの。」

じゃあ私は今、砕けてしまった心の上に立っているのか。粉々になって、もう元には戻らないモノの。
立ち上がって波打ち際を見る。白く縁どられた波に飲まれては現れる色とりどりのきらめきが、急にまぶしくなった。
どうして私はその結論を信じたのか、その時はまったく気にも留めなかった。後から考え直したらきっと疑問に思っていただろう。でも、その時の私は確かに、確かに子守妖精さんの言うことを信じた。そしてあたり一面に広がる心の残骸に立つ自分の心が砕けていなくて良かった、と心底感じた。自分の心はガラスのハートだったと思っているわけではないのに。

「ここ、昼間はガラスの破片がちかちかするから眩しすぎるの。夜に来るのが一番だわ。」
「そうなんですか?」
「うん。わたしは頭が良くないものだから難しいことや仕組みはわからないけどね。」

子守妖精さんがきゃらきゃら笑い声をあげる。それは虹色のガラスに乱反射して、星の散らばった海に溶けていった。
繋がりの見えない星々。じっと眺めていると目がどうにかしてしまいそうだったから、いつの間にやら隣にいた子守妖精さんの横顔の方に目を向けた。

「子守妖精さん、この星空に、星座はありますか?」
「星座?あぁ、星の並びを繋げるあれね。あるわよ。学者のおじいちゃん、ふくろうみたいなおじいちゃんが決めたんだったかな?」
「それで子守妖精さん、は……」

ふいと子守妖精さんが見返った。縦に浮いた瞳孔が、南の海の浅瀬のようなエメラルドグリーンによく映えている。あんまりにも人らしくない瞳に思わず言葉が途切れてしまった。

「ねぇ?さっきから子守妖精さん、って変な感じするわ。もっと気軽に呼んでちょうだいな。」
「え、でも、年上でしょう、私よりも。」
「それがなんだっていうの。子どもは深いこと考えちゃいけないのよ。」
「そんな、子どもって……」

私もうそんな年じゃあないんだけど。確かに未成年ではあるけど、深いこと考えないような年はもうとっくに過ぎた。だから具体的にいつ終わってしまったかも私は忘れてる。
すると子守妖精さんはいたずらっぽく片眉だけ釣り上げた。

「あら。わたしからしたら、年下はみんな子どもよ。あなた、十八歳より若いわよね?」
「そうですけども……」
「なら子どもも子ども、わたしの可愛い子よ!ひとの子の相手をして、眠るまで一緒に遊ぶのがわたし。子守妖精ってね、そういういきもの、そういう妖精なの。」

そういういきもの、そういう妖精。……あぁ、そうか。さっきの子守妖精さんのお話と合わせて考えて、なんとなくわかった。
彼女からすれば私も三歳の子も同じで、子守りすべき小さな子なのだ。そりゃあ、あぁいう扱いにもなるだろう。私がなにを言ったところで変わらない、なぜなら彼女は子守妖精なのだから。彼女の中には決して動かない信念のようなものがあって、それは彼女本人の意思に関わらず「子守妖精」という存在そのものに刷り込まれたものだ。ひとから口を出される程度じゃ変わりやしない。
そうだ、私が今相手にしているのは人じゃない。姿形は人にも似てるけど、良くも悪くも私とは常識も感性も違う。子守妖精さんだけじゃない、"イノナカ"に住んでいる人はきっとみんなそうなんだろう。
ここは今まで生きていた世界とは違う。その事実は私を広い野原に放り出すような、果てない自由と不安の両方を感じさせるに十分だった。
子守妖精さんの羊の角と耳は月光に照らし出されて、柔らかい黄金色につやつや光る。作り物みたいだ。

「わかる?わたしはあなたの遊び相手なんだから。あなたは友だちに敬語を使ったりさん付けしたりするのかしら?」

しかし、彼女の問いにはすぐ「いいえ」と答えられなかった。正直なところ、友だちの枠が曖昧なのだ。一緒に遊びにいったら友だちなのか。ノートを貸したら友だちなのか。判断が難しい。上辺だけの関係と罵られればそれまでだと思う。
だからと言って安易に「はい」と答えるのは会話の流れにそぐわない気がした。あるべき姿でないというか、双方がもやっとするだけのつまらない返答。望まれていない回答、というべきか。
そんなわけで私は質問の答えをごまかす。そう、さっきの質問はそれ自体に意味はなくて、故に答える必要もないものだ。

「……じゃあ、なんて呼べば?」
「子守妖精とでも、お姉ちゃんとでも、なんとでも。」

なんでもいいと言われると逆に困る。だからといってそのまま子守妖精と呼ぶのはあまりにもそのままで、申し出がもったいない。

「なら、こっちゃん……」
「こっちゃん!そういうあだ名は初めて。ありがとう、嬉しいわ!」

彼女の笑みでさざなみが生まれ、また星が散る。一瞬のうちに考え抜いた挙句のあだ名だ、そうセンスがいいものじゃないけど嫌そうな顔はされなかったから良かった。

「もちろん、敬語もやめてくれるわよね?こっちゃん、って呼ぶんだから。」
「まぁ、うん、そのつもりだったよ。やめてって言われたし。」
「良かった!わたしね、敬語ってあんまり好きじゃないのよ。まさに他人行儀!って感じがしてね。」

心底嬉しそうに肩を揺らすこっちゃんを見て思う。彼女は本当に「子どもの友だち」なんだなぁ、と。

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