井の中の蛙大海を知らず、されど | ナノ


17

「どう?落ち着いた?」

うごめくような声帯のけいれんを抑え混み、なんとかはいと答える。
私からぶつかったのにその場にへたり込んじゃうし、挙句の果てには泣き出してしまったのだから心苦しくて仕方ない。それに加え私が泣きやむまでずっと背中をさすっていてくれていたのだ。まだお礼も謝罪もしていない。その事実だけでももう十分涙が出そうになる。
なにから言ったらいいものかと考えながらも結局なに一つ言えないまま、唇に犬歯を食い込ませる。するとその人は目ざとく気が付いたようで、親指で私の唇を撫でさすった。

「泣くつもりがなくても泣いちゃうときって実はけっこうあるものね。わたしのことはなにも気にしないでいいから。」

まなじりを下げてそう言われると、私も鼻をすすって頷くことしかできなかった。優しいことを言ってくれるひとだなぁ。気にしないでと言われても、気になるものは気になるし、もちろん気は使うけど。
「よくできました」と女性は尚もにこやかな笑みを見せる。再び問いかけてきた。

「で?どうして泣いてたの?」
「……そこのところは、私にもわからないです。」

女性がここにきて初めて表情を崩した。まっすぐに口を結んでから、はたと目を細める。

「だめよ、ちゃんと考えなくちゃ。それじゃああなたが泣いた意味がなくなっちゃうじゃないの。」

とてもきっぱりとした口調だった。そう、母親が小さい子供になにかを言って聞かせる時に近いかもしれない。真剣でおおまじめに私のことをたしなめている。私は思わず背筋を伸ばした。泣き止んだものの、心のどこかで私はまだめそめそといじけていたから。
一度落ち着くべく、そっと深呼吸をする。それから涙で大荒れに荒れた頭の引き出しをひっくりがえして、かきだして、整理していく。あるべきものをあるべき場所へ、探しているものが見つかるように。手探りのその作業の中、指先にちくりと引っかかるものがあった。壊れないようにそっと手繰り寄せて確認すると、あぁやっぱり。『正解』が手のひらに握られていた。

「あの、きっと。私混乱してたんだと、思います。お家のこととか、向こうに置いてきたもののことてかいろいろ考えたら頭の中ぐちゃぐちゃになっちゃって……」
「そうだったの。あなた、新入りさんだったのね。それなら不安になっちゃうのは当然だわ。」

探り当てた言葉は拙く、たよりないものだった。それでもその人は合点がいったとばかりに頷く。説明を聞くに、それは別段珍しいことでもないらしい。

「正直な話、あんまり心配したって仕方ないよ。"アオ"が出るまでは外に出られないんだから。お家の人が心配するようだったら……そうね、手紙を書くくらいのことはしてもいいかも。そうする人が今までは多かったかな。」

なるほど。それは思いつかなかった。ここには郵便屋さんもいるし、幸いにも私はその人と今日のうちに知り合うことができた。どこかで紙とペンさえ手に入れば私がちゃんと無事に生きてると伝えられる。それはいいですねと言いかけた時、彼女はまた話の続きを始めた。

「それでも、新手の脅迫状だと思っちゃうひともいるだろうから気をつけて書かないといけないわ。心配をかけたくないようなら、慎重にね。」
「あぁ……それは、確かに……」

娘から「よくわからない場所にいます、でも危ない場所じゃあないっぽいので心配しないでください」なんて手紙が来たらそれはそれは恐ろしいだろう。もしも書くとしたら文面の推敲はしっかりしない駄目だ、と私は肝に銘ずる。
そうは言ってもこの世界が安全じゃない可能性だってあるし、変なガスでもすわされて幻を見ているとかそういうこともあるかもしれない。この状況を保証してくれるものなんてなに一つないことは、しっかり認識しておくべきだろう。
さきほど沈めたはずの不安がまた首をもたげ始めた。私を狙って、ゆらりと睨んでくる。でも、今度はこの不安に蓋をして見ないフリするだけじゃいけないと思った。これは、なにもかもを放って逃げ出した私が負うべき責任なのだから。今、ようやくわかったのだ。
ママに心配と迷惑をかける申し訳なさも、誰の庇護下にもいない心細さも、未知なる明日への恐ろしさも、いつ解消されるかわからない。それでも解消されるその日まで、全部受け止めて付き合っていかなくてはならない。だって、私が自分で決めてここまで逃げて来たんだから。
逃げることにも責任がいる。その事実がようやく私に染み込む。
思考回路を埋めてばかりいた考えごとが、ちゃんとあるべき場所に収まった。かと思えばうたたねから覚めた時のような妙な感覚で我に返る。今のはいつもより大分深く考え込んでいたらしい。
しばらくの間だんまりを決め込んでいたのに、女性は温和な表情を浮かべて待っていてくれた。彼女が口を開いたのは彼女と目があった瞬間、きっちり見計らったようなタイミングだった。

「ねぇ、あなた。名前は何て言うのかしら。これから子守妖精のお姉さんと一緒に、ちょっとお出かけに付き合ってくれない?」
「私はアイリスです。あの、子守妖精ってお仕事なんですか……?」

子守妖精。
彼女は子守りをする妖精なんだろうか。その不思議な響きに、思わず質問してしまった。なにぶん、私はファンタジーだとかおとぎ話は詳しくない女の子だからわからないのだ。子守妖精さんはちょっぴり得意げな顔になって答えてくれる。

「ふふ。わたしの場合はね、仕事じゃなくて種族って感じかなー。いや、仕事でもあるのかな?ちょっと難しい……まぁ、これからいろいろお話ししていくうちにきっとわかるわ。さぁ、行きましょ。」

あれ?なぜだか私はやや強引に手を引かれながら子守妖精さんと歩き出す。あっという間に話が進んでしまっていた。まるで誘導尋問みたいだった気がするものの、嫌ではないから別にいいや。

「うーんとね、きっとなんとなくわかってるとは思うんだけども、わたしは子どもを寝かしつける妖精なのね。」
「はい、はいなるほど。」
「それはわたしの仕事というか、わたしがここに存在できてる理由みたいなものでもあって。人々の間に伝わる『子守りをする羊の角のおんなの妖精』の伝承そのものがわたしなの。だから子守りをしないわたしはどこにも存在できないし、子守りをする妖精だからわたしであって……うーんやっぱりわたしには説明がうまくできないわね。アイリス、わかってくれた?」
「な、なんとなく、なんとなくのニュアンスは伝わりますから大丈夫です。」
「賢い子ね。アイリスは本を読むことは好き?」
「あぁ、まぁ、人並みには読みますし、好きです。流行りものの本をちょっとかじる程度でしたけどね。」
「いいのよ、謙遜しなくて。ちょっと本が好きなのは素敵よ。なにを読んでいたって悪いことじゃないもの。」
「いや謙遜とかそんなつもりじゃ……」
「え?自覚なかったの。だとしたらね、なんとかだけどーって言うのやめた方がいいと思うよ。」
「あ……確かに私よく言うかもしれません……」
「自分の言うことを否定することになっちゃうんだから。あんまり自分のことを否定しないであげてね。」
「は、はい、わかりました気をつけてみます……」
「そんなにしょんぼりしないで!ほら、そろそろ着くよ。」

歩いている間ずっと見ていたレンガの並びがふつりと途切れた。鈍い赤色のレンガを覆い隠すようにして、薄いはっか色の砂がかぶさっている。
顔を上げて私が見たものは、どこまでもどこまでも広がる海だった。

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