井の中の蛙大海を知らず、されど | ナノ


16

「ただいまー……で、いいんだよね、きっと。」

空っぽで真っ暗な部屋には私だけの声が響いた。耳が寂しくなって仕方ないから、片手で部屋の鍵を鳴らしながら私は部屋の明かりの電源を探す。
妖精屋を後にする頃には、太陽はほんのちょっと顔を出しているだけだった。案内屋いわく、大抵の住民は日が暮れてると店も閉めてしまうらしい。もちろん全ての店がそうであるわけではなく、むしろ日没してから店を開けるような住民もいると彼は言う。
それで私は自分の部屋……もとい、家まで送ってもらったのだった。馴染みのないこの建物を家と呼ぶにはまだ違和感が残るけど。"イノナカ"にいる限り、ここが私の家になるのだ。
案内屋からもらった食料を冷蔵庫にしまい、使えそうなものは流し台の方に持って行く。時計がないから時間がわからないけど、やることもないから晩ごはんは早くてもいい。自分の食事を作ることにも、一人で食べることにも慣れている。大丈夫だ。
この家、見た目は古めかしいのにガスや水道がちゃんと整っているから不思議だ。台所にはガスコンロもついていた。型は古めだったけど、私でも十分使いこなせる。
私はこれまた案内屋がくれたフライパンを用意する。それから油をしいて、まずはキャベツを炒めることから始めた。




その辺の女子高生が一人で作ったにしてはちゃんとしてるんじゃないかと自画自賛できる程度の晩ごはんを済ませ、さてどうしたものかと私は考える。
腕時計はしていないし、そもそもここの時間の流れ方が二十四時間なのかさえ知らない。でも体内時計を頼りにするなら、寝るには早すぎる時間だ。
規定や予定があるというのはある意味生きやすいことだったのかもしれない、と私は初めて思い知った。本当になにをしたらいいかわからない。自分の好きなことを、と案内屋には言われたけれど、テレビもインターネットも、ラジオさえないここで娯楽になることといったら一体なんなのか。本でもあればいいんだろう。
まずはこの部屋に何があるかを把握するべきかな。探せばなにかあるかもしれない。なにもなかったとしても『なにもない』ってことをわかっておくのは悪いことじゃない。
まず、ベッドの隣にある唯一の収納クローゼットを開けてみる。クローゼットの中には三つ四つハンガーがかかっているだけで衣類は入っていなかった。
夜は制服はハンガーにかけて下着で寝ることにしよう。ちょっとお行儀が悪いけど、着る服は他にはないしシワになったら困るから仕方ない。それにそのことで私を叱る人はいないのだから。
そう思ったとたん、ぎしり、と鈍い音耳の内側で反響する。クローゼットの扉の軋む音だろうか、いや、ちがう。軽いめまいまでするのは、まだ記憶に新しい妖精屋さんとの会話のせいだ。

『あぁそうそう、あと一つだけ。器に"アオ"が出るまでは"イノナカ"から出ちゃだめよ〜。ここに戻って来れなくなっちゃうからねぇ。』
『え、じゃ、じゃあ、家の人に連絡とかはできないんですかね……!?』
『ん〜……そういうことになるわねぇ。』
『大丈夫大丈夫、"アオ"が出てきてからはどこへでも行けるわ〜。』
『そ、それでいつになったら"アオ"って出てきますか……?』
『それは人によってまちまち。一晩でぱっと出てくる人もいれば、何日もかけてじんわり色づいていく人もいたかしらぁ。』

焦らなくてもいいのー、だなんて言いながらのほほんと笑っていた妖精屋さん。でも私はあんまり悠長なことは言っていられないのだ。
そもそも私が帰路を急いでいたのは、ママから「早く帰ってきなさい」と言われていたからだった。それなのに私は、何も言わないで"イノナカ"に来てしまった。さらに、いつまでかはわからないけどここでしばらく暮らすことは確定している。つまり私は事実上突然失踪をとげてしまっあのだ。
留守電の一本でも入れておけば良かったのか、いや、それは失踪が家出に変わるだけだろう。どっちにしたところでママのことだからひどく心配して拉致やら誘拐の可能性を考えているはずだし、警察にはもちろん連絡するはずだ。
鞄は発見されるだろうか、携帯電話は悪用されないだろうか、学校側にはどんな連絡が行くんだろうか、様々な心配事が頭を駆け巡る。
あぁ、私はどれほど多くの責任を向こうに放り出してきたのか。今まで蓋をしてきた不安が、恐怖が、いっぱいに広がっていく。これからのこと、どうしたらいいのかな。これまでのこと、どうしたらいいのかな。
息が苦しい。お腹が裏側からひっくりがえりそう。もうどうにもこうにもいてもたってもいられなくて、私は扉を蹴破る勢いで部屋から飛び出した。
あぁだめだ、だめだ。またどこかへ逃げようとしてる。もうこれ以上逃げる場所なんてないのに。
道に飛び出していざ駆け出そうとした、その時。真っ正面から何かにぶつかった。
痛い。お尻をしこたま打ったせいだ。
あー、もうどうしてこうなるの。
頭がクラクラする。
目尻まで熱くなってきた。
もうなにもわかんない。

「ごめんなさい、あなた、大丈夫かしら!」

目の前に現れたのは、二重にも三重にもにじんだ指。細い手首を辿って見上げる。私に手を差し出していてくれたのは心配そうな目をした女性だった。

「夜も遅いから誰もいないものだと思って、のんびり歩いていたの。すっかり油断してた。ほら、ぼーっとしてないで、立ちなさいな。」

からからと笑って、女性はたちまち私を立ち上がらせた。あんまりにもてきぱきとした動作だから、ついそうしてしまったのだ。身長は私と同じくらいなのに、なかなかに強い力。
何気なく視線を頭の方へやって、思わず二度見した。薄暗くて色は判別しづらいけど女性の側頭部は不自然に盛り上がっている。目を凝らしてみるに、ぐるりと渦を巻く動物の角のように見えた。
なるほど。このひとはどうやら人間ではないらしい。案内屋の言っていたことに、私はようやく納得がいった。こういうひと?もいるのね。

「この角気になる?」
「あ、すみません、じろじろ見ちゃって。」
「いいのよ、いいの。これね、羊の角なのよ。かわいいでしょ。」

角を撫でながら女性は柔らかく微笑む。本人でも気に入っているらしい。彼女の虹彩に瞳孔がはっきりと浮かび上がっているのは、きっと羊の目をしているからだろう。
ふと女性が私の腕から手を離した。その手はつつ、と私の頬に伸びたかと思えば親指で目尻をなぞられた。女性の眉根が再びひそめられる。

「あなた、泣いてるじゃない。とっても痛かったのね。ごめんなさい。」

……そう言われてみれば。まぶたは痙攣しているし鼻は詰まっているし頬はやけにひりひりする。そっか、私泣いてたんだ。
でも私が泣いてたのはお尻が痛いからじゃない。この女性のせいじゃないのだ。そもそも、転んでしまったのだってこのひとのせいじゃない。悪いのは全部私だ。だからあんまり申し訳なさそうな顔はしないで欲しい。
私は女性にそう伝えたようとした。でも、喉の奥からは言葉以外のいろんなものがこみ上げてくる。言葉より先に涙が溢れてきてしまう。ごめんなさい、ごめんなさい、と心の中だけで、私は謝っていた。

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