井の中の蛙大海を知らず、されど | ナノ


14

「いらっしゃあい。」

濃い緑色に塗装された扉を押し開けて、最初に聞こえたのはドアベルの音と落ち着いた女性の声だった。蛍光灯に慣れたこの現代っ子にとって、店内の明かりは薄暗く感じられる。何度か瞬くうちに、案内屋が部屋の奥へと入り込んでいった。

「やぁ、妖精屋。」
「こんにちは案内屋。貴方が来たってことは、新入りさんかしらぁ?」

案内屋に挨拶をして私に微笑みかけてきた彼女こそ、いらっしゃいと声をかけてきたひとであり店主だろう。
妖精屋と呼ばれたその女性は小麦色の艶やかな髪と、日本ではなかなか見られないような豊かなボディが特徴的だった。たれ目がちな瞳と厚めの唇はぼんやりした照明の下でもしっとりぬれた色に見える。
そう、彼女をわかりやすい言葉で形容するなら、『セクシーなお姉さん』だ。

「あ、アイリスです。よろしくお願いします。」
「私は妖精屋、見ての通り雑貨屋さんもどきをやってるの〜。覚えていてくださると嬉しいわぁ。」

妖精屋さんの魅力と、元来の人見知りがあいまってつい視線をそらしてしまった。
それをごまかすためにと、私は店内を見回す。陳列されているのは膨大な量のがらくた。ブリキのじょうろ、陶器でできたティーポット、ガリレオ式温度計、オリーブ色の装丁の分厚い本などなど挙げきれないほどたくさん、さまざまな小物たちが雑多に私と案内屋を見つめてくる。

「貴女、器を探しに来たんでしょお?好きなように触っていいからねぇ。みんな見た目よりも強い子だから、心配いらないのよぉ。」
「お気遣いありがとうございます。」

不思議なのは無秩序でごちゃっとしているのに、散らかっている感じがしないことだ。絶妙なバランスを持って全てのものがあるべき場所に収まっているような、家庭的な温もりが感じられる。
ふと、銀色の塗装をされた星型のモビールが目に入った。古びた風に煽られて右に左に揺られている。子供部屋に飾ってあったらかわいいんだろうなぁ。私の家に、子供部屋はなかったけど。私に部屋があてがわれたのは私が子供とは呼べない年齢になってからだったから。
はてさていつの間に隣に立ってたんだろうか、妖精屋さんがにこやかに声をかけてきた。私そんなに熱心にモビールを見てたのかしら。

「貴女、星が好きなのかしらぁ?」
「あ、はい……昔は。」

妖精屋さんの言葉を噛み砕いているうちに、いろんなことが蘇ってきた。
ちいさい頃、私は星が大好きだった。
月の光に額を晒し、流星を探した。星座盤を回して、星の間を指でなぞった。プラネタリウムで胸を膨らませ、私の街からじゃ見られない夜空に目を輝かせた。
何百年か何十年かに一辺かくらいしか来ない彗星が見たくてパパに頼み込んだりもしたっけ。ママにばれないように夜でかけようとしてこっぴどく叱られたこともある。七歳の誕生日プレゼントは星の形のブレスレット。あれはちぎれるまで使ったし、ちぎれてしまった断片は箱にしまって取ってあったはずだ。
星座図鑑は私のバイブルで、ぼろぼろになるまで読んだ。どの星座がとの季節にどう巡るのか、頭の中の空にきっかり写してあった。おかげでその範囲の勉強で取り残されたことがない。
深海の底で眠っていた昔懐かしいきらめきに光が当たって、そのひとつひとつがクラゲのように浮かび上がってきた。思い出という紺色の海がだんだん明るくなっていく。
光は海から溢れ出し、今の私の心をも満たした。あぁ、この高揚感はずうっと忘れてたものだ。体いっぱいに満ちる期待と喜び、星の光。私の胸にはすっかり元のぬくもりが宿った。

「じゃ、今はぁ?」
「今も大好きですよ、もちろん。星も、月も、夜空も、全部。」

だから私は妖精屋さんの言葉に迷わず胸を張って答えることができた。たった今、私は宝物をもう一度見つけ出せたから。
いや。きっと、星は今までもずっとそこにいたんだろう。都会の明かりの中ではあんまりにも光が弱いものだから霞んでしまっていただけで。
私はすっかり勇気付けられて、妖精屋さんの顔をまともに見れるようになった。

「いい笑顔ねぇふふ。貴女、こんなものがお好きなんじゃないかしらぁ。」

にっこりしながら妖精屋さんがなにかに箱を差し出してきた。遠慮なく蓋を開けてみる。
王子様みたいな顔してビロードの敷き詰められた箱の中で凛と鎮座していたのは、望遠鏡だった。しかも片目でしか覗けない、見るからに旧式タイプ。接眼レンズの部分が対物レンズの筒に押し込んでしまえるやつだ。ボディは磨き抜かれた真鍮と焦げ茶の木でできていて、どこもかしこも輝いている。表面はぴかぴかで汚い手で触ったらバチが当たりそうだ。

「……きれい……」

人間、本当に感嘆したらまともな言葉なんて言えやしないらしい。私は初めてそのことを知った。これほどまで心を惹かれるものに出会うのは初めてだったのだ。

「古いものだし、低倍率だから星を見ることはできないけど、雰囲気はそれっぽいでしょお?」
「うん……」

……だめだ、感嘆の句すらまともに出てこない。私は形式的な空返事しか私はできなかった。
店内をうろうろしていた案内屋が、ひょっと箱を覗き込んだ。のっぽなランタン頭が覗き込んでくるもんだから正直怖い。妖精屋さんと頭ぶつけないかってことも心配になる。

「航海用の望遠鏡かね、ふむ。なかなか良い品じゃないか。」
「案内屋さんのお眼鏡にはかなったみたいねぇ。ほら、ちょっと、貴女も手にとってご覧なさぁい?」
「貴女って、わ、私?」
「君以外に誰がいるんだね。手に取ってみればいいじゃないか。」
「ほら、どうぞ。」

高貴な雰囲気を纏う望遠鏡を素手で掴むのは、なんとなく気後れした。しかし案内屋と妖精屋さんの好意だ、受け取らずにはいられない。遠慮がちに手を伸ばし、持ってみる。
望遠鏡は見た目よりずっとぬくもりがあって、手にしっくり馴染んだ。軽くもないし重くもない。望遠鏡の使い勝手の良し悪しはよくわからないが、この望遠鏡はとても気に入った。

「見るからに相性バッチリって感じがするわ〜。」
「そうだね、君の器に見合うものはそれ以外に見当たらないような気がするよ。」
「あ、あぁどうも……」

これ、欲しいなぁ。
望遠鏡なんて使い道もなにもないけど、ずっとそばに置いておきたくなる。私が自分の魂の色をうつすなら、きっとこの望遠鏡だ。この望遠鏡しかない。そんな確信が持てた。
そっと、ふたりの顔を伺ってみる。にこやかな笑みを浮かべた妖精屋さんと、案内屋。……なんだか背中がふわふわする。

「私、これを器にしたいんです、けども。私にこの望遠鏡をくださいませんか?」

悪いことをしたわけじゃないのに、なんでこんなにもきまりが悪いんだろう。人に頼み事をする時、特にものを乞う時はなぜだか訳もなく申し訳なくなる。相手はこんなにも穏やかに微笑んでいるのについ相手の表情を見て下手に出てしまう。これもまた私の持つ欠点のうち一つ。
それに対し、妖精屋さんはころころと笑っていた。あぁ、たぶん、彼女には私の気持ちなんてお見通しなんだろうな。そして可笑しさを噛みしめるように、あるいは子どもをたしなめるような口調で言う。

「そんなにかしこまらなくてもいいのよぉ?器は私からのプレゼント。ようこそ、はじめましての意味を込めてのね〜。大切にしてあげてちょーだい。」

こういった言葉をもらえて、私はようやくほっとできる。わかっていたことなんだけども、それでも私は言葉をもらえない限り安心できない。
そうして湧き上がってくるのは手放しの喜び。手のひらが、じんわり温まってくる。

「ありがとうございます!」

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