井の中の蛙大海を知らず、されど | ナノ


04

部屋の中はざっと見ても十畳より広くて、縦に長かった。焦げ茶色のフローリングは歩くたびに鳴き声をあげる。見回してみると、いくつかの空っぽの棚とカウンターがすみに追いやられるようにしてこっそりと置いてあった。少しだけほこりっぽいが、ずっと放置されていたようなカビ臭さはない。

「わ。広いですね。」
「この奥に、もう一部屋ある。そこには、ベッドと机があるよ。君の生活スペースにするといい。」
「じゃあ、この部屋は?」
「君の生活費用を稼ぐために、使うのが最善だと思うがね。」
「あぁ……わかりました。」

まだどんな職業につくかも決めていないから、開業もなにもできないんだけどね。心の中でそう付け足す。家と店を兼ねているということは、ストリートの店にも、みんなひとが住んでいるということだろうか。不思議な感じだ。
不意に、ランタン紳士が両手を開いてこちらを見た。困った顔をするみたいに光がまたたいている。

「あぁ、すまない。奥の部屋の鍵は今持ち合わせていないんだ。取ってきても、構わないかね?」
「いいよ、待ってるよ。」
「すまないね、準備が悪くて。気長に待っていてくれたまえ。」

出て行くランタン紳士を見送り、ほっと一息。ここ一時間の間で私の人生もまぁ不可思議な方向に転換したものだ。あれだけ抜け出したかった現実から、本当に離脱してしまうとは。異世界の扉が私の目の前に転がり込んできてくれる思いも寄らなかった。その扉に飛び込んで行こうとした私の勇気も、我ながら称えられるものだと思う。いや、称えてくれるのは私自身しかいないんだから、思う存分称えよう。よくやった、よく頑張ったね、私。
と。なんの前触れもなく、安息は破られた。

「こっんにちはーん!」
「どどどどどどどどちら様でしょうか!?」

ばたんと大きな音がなった。同時に明朗な声が部屋の中に響く。鼓動を速めた心臓を宥めつつ大慌てで玄関にを振り返れば、男の人がひとり、立っていた。少しだけ目を細めてしまうくらいの絶妙な逆光を背負って。だからだろうか、猫みたいな瞳の、常盤の緑が光っているようにも見える。
男のつんつんと逆立った髪の先は光を受けて毛先だけ白く染まっている。にぃと歯を見せた口元から覗く犬歯と、サルエルパンツのだぼっとしたシルエットが独特だ。
あぁ、この家には西日が差し込むのか。沈黙が訪れた一瞬、全く関係ないことを考えてしまった。でもそんなこと考えていられたのはほんのまばたきするくらいの時間だった。

「どうもはじめまして、新入りちゃぁん?」
「はっ、はい!?」

男は再びきゅっと目を細めて、跳ねるような足取りで、こちらに近付いてきた。自分がどんな顔をしているかはわからないけれど、多分いい顔はしてなかったんだろう。心配するなとばかりに手をひらひらと振っている。

「お前だれだよって顔してんのなぁ。オレは"イノナカ"一のゆーめーじんにしてイケメン担当、みなさんの心のアイドル奪い屋さんよぉ!」
「う、奪い屋……?」

奪い屋。今まで一度も聞いたことのない商売名だ。奪い屋と名乗った彼は、大げさに肩をすくめた。かと思えば芝居がかった動作で身振り手振りしながらおしゃべりを始める。

「えええー反応薄っ!突っ込みはなしなのー?ま、いっか。そのうち慣れてくれたら、ばんばん突っ込んでちょーだいっ、と!あ、そうそう、君のいたところには奪い屋なんていなかったよね?奪い屋ってのはねぇー、いつでも!どこでも!誰からでも!どんなものでも!奪ってきて依頼人のもんにしちゃう!そんな仕事さ。」
「そ、それはまた……。」

一度もどもらなかった滑舌の良さに圧倒され、私はそれしか言えなかった。しかしこの人の言っていることは乱暴というか、なんというか。軽い調子で説明されたけれど、内容としてはいわゆる「ヤバい」お仕事なんじゃなかろうか。
笑っているけど、この人自身もどんな人なのかわからない。軽薄そうに装っているだけかもしれないし。この"イノナカ"にもそういう危ない人がいるのかもしれない。
相手に悟られない程度に、じりじり後退。こういう人とは距離をおくべきだってことくらいは私も知っている。危ない危なくないを差し引いても私自身、このノリの人は苦手なんだ。

「どんかものが奪えるかって?たとえばー、あの子の持ってるかわいーアクセサリーだとか。たとえば……。」

あれ、この人なんでこんな近くにいるの?
あと一歩でぶつかるような、そんな近距離に奪い屋さんは来ていた。気付かったというか、ふと気付いたら目の前にいたような、そんな不思議な感じ。奪い屋さんは私よりも大きくて、顔をみようとすると頭をあげなくてはならないからとても圧迫感がある。
え、なにこれピンチなの?
次第に募っていく焦りとは裏腹に身体は動かない。そんな中、奪い屋さんがゆっくりと右手を持ち上げた。

「気になる彼のハートだとか!」

人差し指で、唇にちょこんと触れられた。
言われたこともなかなかショッキングな内容ではあったけれど、それよりも私は奪い屋さんの行動に驚かされてしまった。こんな意味のわからない恥ずかしい行為に走るなんて、こいつは少女漫画の少年かなにかなんだろうか。驚愕のあまり、発想がひどいことになっている気もするがそれ以上に彼の行動は突飛だった。

「あ、え、えええええ!?」
「どうやって奪うのかって?それは企業ヒ・ミ・ツ!」

すたんすたんすたん、軽快な音を立ててバックステップする奪い屋さん。語尾にきらきらした記号でもついていそうな声だ。動きにくそうなズボンはいてるのに、よく動けるなぁと思ってしまった。うーん、完全に奪い屋さんのペースだ。気になることや突っ込みどころはいくらでもあるのに、その隙間をくれないんだもの。

「あ、もちろん、商売だからお代は頂いてますよー?欲したものと同じ価値のものだけもらうの。」

片足を軸にして奪い屋さんが回る。奪い屋さんがこっちを向く一瞬だけ、意味深長なきらめきを秘めた瞳が見開いて見えた。これ以上彼の仕事について聞いたらいけないような気がした。それとなく話題をそらしてみる。

「えと……その奪い屋さんが、私に何の御用ですか……?」
「あー、見たこともないセーラー服着た女の子がいたからさ。新しい子かなーと思ったらいてもたってもいられなくって、あとからつけてきちゃったワケ!」

なるほど、セーラー服。胸元のリボンにそっと触れる。学校の帰り道に私はここへ来たわけだから、来ているのが制服なのは当たり前だろう。
どうでもいいといえばどうでもいいが、私の学校のセーラー服はなかなかにかわいい。白地に薄い青の襟、それと紺色のリボン。リボンと同じ色のスカートはもちろんプリーツで、丈は膝よりも長い。さすが私立女子校、といったところだ。
奪い屋さんが、くいっと腰をかがめて私と視線を合わせた。

「ね、あんたはなにになるのかもう決めた?」
「い、いや、まだ……。」
「そっかぁ。じゃ、なんで呼んで欲しい?」
「え?」

立てたままの人差し指を、ちっち、と振って奪い屋さんは言う。どうやら解説してくれるらしい。

「"イノナカ"ってねぇー、お互いのこと職業名で呼ぶことが多いの。むしろ名前知ってる奴のほうが少ないかもしれないな!だからオレのことも奪い屋って気軽に呼んでくれよ」
「あ、わかりました。えと、私のことは、あーー」

文目、と口にしようとしてやめた。私は、現実から逃げてここへやって来たんだ。だったらもう、文目と名乗るのはやめよう。前と少しだけ違って、でもやっぱり私であることに代わりはない新しい私が名乗るべきであろう名前は、そう。たった一つだ。唇に笑みを乗せて、ほら。

「アイリスで、お願いします。」
「そ。わかったよ。よろしくねぇーんアイリスちゃーん。」

無邪気に差し出された右手。ランタン紳士のそれとは似てもにつかない動きだったけれど、私は迷わずにその手を取った。にいぃ、と奪い屋がチシャ猫みたいに歯を見せる。

「よろしくお願いします。」
「あ、敬語なんていらないからな?ここじゃ、年齢はあるようでいてないもんだから。」
「……わかった。じゃあ、改めて。よろしくね、奪い屋。」

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