井の中の蛙大海を知らず、されど | ナノ


02

落ちる、落ちる、落ちる!
昔に読んだ幼い子どものための物語を思い出す。主人公の女の子が落ちたのは井戸の中じゃなくてウサギの穴だったけれど。深く落ちてゆくという点に関してはなんらかわらない。
頭上から落ちてくるわずかばかりの光も、月の大きさからもう星の大きさくらいまで遠くになっていた。ここはいまどれくらいの深さなのかな、と思ったけども私の知り得る単位ではきっと表せないだろうから考えるのをやめた。私はあのランタン頭の人を信じてこの井戸に飛び込んだ訳だから、最後まであのひとを信じて落ちる他ない。自由落下の機会も、スカイダイビングでもしない限りはなかなかないだろうし。私はどれくらい続くともしれないこの感覚を身体に刻み込むことにした。

ふっと、下に光が見えた。どんどんと迫ってくる光の向こう側に見えた色が青だと認識した次の瞬間に、フライパンで返されるパンケーキみたいに身体が上下百八十度回転していた。頭がうわんと唸るのと同時に足元に絵の具を溶かした水槽のような淡い色が広がり、重力が頭のほうへと向かってかかるのがわかる。急激な動きとなれない体勢から突発的な吐き気が襲ってくる。それに耐えながら、そして来るであろう衝撃に備え私はぎゅうっと目をつぶった。だけどいつまで待ってもその兆しがこない。恐る恐る、私はまぶたを開けてみた。
落ちていた、はずなのに。私は空中をたゆたうようにしてふわふわと浮かんでいた。まるで、水中にいるときみたいな感覚。くるり、身を翻してみれば身体は驚くほど軽い。こうして、私はようやく上下正しい姿勢になった。驚きのあまり先ほどの吐き気もどこか遠くへいってしまった。見るに、私は建物の三階くらいの高さにいるみたい。
ぐっと首を伸ばして真下を向くと、ぽっかり口を開いた井戸が見えた。あそこから私は放り出されたのだろうか。いくら目をこらせど、その奥底は見えやしないからそれについて考えることは諦めた。
視野を広げて見てみると、井戸の周りはやけに開けていて短い芝くらいしか生えていない。それを取り囲むようにして背の高い針みたいな枝をした木が密集している。ここは森の中の井戸らしい。なんとなくの現状が把握できて、ここでひとつ疑問が生じた。あのランタン頭の人はどこへ行ったのだろう。

「こっちだよ。」

どこからか、聞き覚えのあるバリトンの声が聞こえた。きっと、ランタン頭の人の声だ。しかしさっと地上を見ても、あの細長い青銅色は見当たらない。いよいよ不安になってきた頃、生暖かくて柔らかい肩に触れるものがあった。それに気が付いた一瞬だけ思考は超加速し、結果として私の喉は情けない音を鳴らした。

「わっうわあああ!?」
「すまない。驚かせてしまったようだね。」

光の速さで振り返った後ろには、ランタン頭の人がいた。肩に置かれたものは彼の手らしい。彼の手は私が想像していた感覚よりずっとすべらかで、生き物の感触をしていた。それにしても、予想もしていない方向からの登場に、私の心臓はまだ駆け足のままになっている。
重そうな頭をしているランタン頭の人も私と同じくしてふよふよと浮いていて、むしろ私よりも高い位置にいた。威圧的かつなんとも不思議な感覚。ランタンに見下ろされるーー私が見上げているのではなく彼に見下ろされている、なぜなら私は確かに彼の視線を感じるのだーーのは、人生初体験だ。

「どうしたんだい?私の顔に、なにかついているのかな。」
「あ、いや、そんなことはないです。ただちょっと……驚いただけですから。」
「向こう側から落ちてきたからだね、それは仕方のないことだ。」

と、ごく自然な動作で右手が差し出された。その手を取ればいいのか、戸惑っているとランタン頭の人が笑ったような気がした。あくまで「気がした」だけで、私の感覚の間違いの可能性も多いにあるが。

「お手をどうぞ、レディ。そろそろここから降りようじゃないか。」
「え、あ、それじゃあ、失礼しますね……?」
「そう固くならなくても大丈夫だよ。緊張してはいけない。」

彼の手に、右手を重ねる。彼は強すぎない力で握り返してくれた。
今までレディなんて呼ばれ、手を引かれることなんてなかったのだから。身体がかちこちに固まってしまうのは仕方のないことなんじゃなかろうか。こんな素敵な声のランタン頭の紳士に淑女のような扱いをしてもらえるのは、とても稀有なことだろう。
どうすればここから降りられるのか、と私が問いかける前にその問いの答えが言われた。

「息をゆっくりゆっくり吐くんだ。水の中に沈むときと同じ要領でね。できるかい?」
「はい、やって、みます。」

水泳は昔から大の得意だ。水の中の感覚も身体が覚えている。それを思い出して、ここで再現すればいいんだ。視界を閉ざして、意識を音もない深い水の中に沈めていく。そうすれば身体も自然と後からついてくる。ほら、もう重心が落ち込んでいくのがわかる。

「そうそう。初めてにしては上出来だ。」

目を閉じたまま、私は手を引かれて歩き出した。たとえるなら、水の中の坂道を降りているような感じ。あえて水中との違いを言うとすれば、光だろうか。みなもにゆれる波の影がまぶたにかかったとき、私は豊かで平穏な心持ちになれる。だけどここには影を落とす波もない。それは私にとって少し残念なことだけど、取るに足らないと言われてしまえばその通りだと思う。

ふと、手を引くランタン紳士が足を止める気配がした。それとほぼ同じ頃合いにつま先になにかがぶつかり、バランスを崩しかける。たとえ紳士的な男性に手を引かれていても、目をつぶったまま歩くのはやめた方がいいみたい。
つま先にぶつかったものは地面だと、まぶたを開いてわかった。もう着いちゃったのか。そんな思いを抱きながら右手を体側に戻す。不思議な感覚だったけど、不快ではなかった。もう少しだけでも長く続いたら良かったのに、なんて思ってしまう。

「さぁ、愛しき大地に到着だ。」
「リードしてくれて、ありがとうございました。」
「いやいや。お礼を言われるようなことはしていないよ。」

ここからはしばらく歩くからね。ランタン紳士の言葉に頷き、私は彼のあとを歩き出そうとした。……のだが、そうする前にランタン紳士が振り返ってこう言った。

「あぁそうだ、気をつけなさい。地面についても呼吸を意識することを忘れてはいけないよ。」
「え?」
「身体がまた浮いていってしまうからね。」
「ちなみにそれは、どこまで?」
「どこまでも。私は限界を知らない。試して戻ってこれなかったら、洒落にならないだろう?」

くすくす、と笑みを含ませた声で。そう、今確かに彼は笑った。ランタンが冗談を言って笑う。なんて奇怪な現象だろう!
なんだか私もおかしくなってきて小さく笑ってしまった。そして今度こそ彼のあとについて歩き出した。

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