井の中の蛙大海を知らず、されど | ナノ


01

どうしても、今日はだめだった。今日だけはこの道を通りたかった。人通りが少なくて光もさしてこないようなこの抜け道。ほんとは使っちゃいけないって言われていたけど、今日は、今日だけは我慢できなかった。午前授業を終えた私は裏道を駆け抜ける。

どうせ誰も通らないから、と前を見ないで走っていたのが悪かったのかもしれない。誰かとぶつかってしまった。相手も私も、転ばずにすんだのは良かった。けど、私は横のほうに少しよろけた。
ぶつかった人は、仕立ての良さそうな、だけどよそ行きではない柔らかそうな生地のダークネイビーのスーツに身を包んでいた。スーツから伸びる足はすらりと長く、細い。そしてその上の腰もこれまた細い。細い細いとは言っても、女性らしい華奢な線じゃなくて一目見て男性だとわかる体つきをしている。
あぁ、私はなんてひとにぶつかってしまったんだろう。この人はきっとお金持ちだ。そんな人にぶつかってもし汚れがついてしまっていたら申し訳ない。とにもかくにも、謝罪をしなければ。

「あの、ごめんなさ――

私が言葉を失ってしまったのは、ぶつかった人に謝罪をしようと頭をあげた時だ。



目の前に立つ男性は、異形の頭だった。



アンティーク映画だとかおしゃれなフランス映画だとかに、小物として出てきそうなランタン。男性の肩のうえに、つまるところは頭があるべきところにそれが乗っかっている。頭の代わりにあるランタンは、通常の人間の頭の二倍はあろうかという大きさだ。それ故に非常に背が高い。ゆうに百八十の壁を超えていそうだ。
何故か、悲鳴をあげようとは思わなかった。確かにこんなもの(こんなひと?)に出会ってしまった驚きはある。だけど、このランタン頭からは私をとって食おうだなんて殺気を感じないんだ。いや、もしかしたら私に殺気を感じる余裕が無いのかもしれない。ぽかんと口を開けてほうける顔筋とは真逆に、頭は客観的に思考を展開してゆく。つまるところ、悲鳴をあげる余裕なんてどこにもないんだ。
くもりガラス越しにみえる光が、ふと瞬いたように見えた。

「これはこれは。驚かせてしまったようだね。」

今の声は、どこから聞こえた?脳が耳に情報を突き返す。目の前のランタン頭からだと耳は答えた。まったくもって、無意味な問答だ。
声は低く穏やかで、耳触りのよいバリトンだった。だいたい、五十代くらいの男性の声だと思う。状況がこうでなくてもっと一般的なものであれば、もしくはこの声がテレビから流れてきたのであれば、聞き惚れていたであろう美声だ。
しかし、ランタンの頭からその声は聞こえたのだ。スピーカーがどこかについているのか、もしくはランタンのかぶりものをしているのか。どちらも違うような気はした。先ほどの声に、ごった雑音などどこにもなかったのだ。それは声が肉声だということを示していて。しかしそうだとしてもこのランタン頭に口などついていない。さてこれはどういうことなのか。

「君には非常に申し訳ないことをした。まさかこんなところで人に出会うなんて思っていなくてね、すっかり油断していたんだよ。」

私の疑問なんか置いてきぼりにして、ランタン頭の人は流暢な日本語で謝罪の言葉を述べる。あぁ、頭の中がぐちゃぐちゃだ。たった湧き上がった疑問ですら混沌の中に消えてしまいそう。
それにしても、礼儀正しいランタンだ。言葉遣いも正しいし、謝罪の意がちゃんと伝わってくる。ランタン業界にもマナー本はあるのだろうか。

「……どうか、君の名前を教えてくれないか。」
「……へ?あ。」

長々とした言葉が途切れたと思ったら、名前を問われた。予想もしなかった展開で、思わず気の抜けた声が出てしまった。自分のしたことを認識した途端、顔の心臓がどくん鼓動を速めるのがわかった。

「ご、ごめんなさい。私あやめ、と言います。斎藤、文目。」
「アヤメ?そうか、アイリスのことか。いい名前だね。」
「あぁ……ありがとうございます。」

まただ。
私の名前は「あやめ」だけど「菖蒲」ではないのに。私の「文目」は模様や色合いのことだけど、花の方の「菖蒲」だと勘違いされてしまうことが非常に多い。でもまぁ、そんな細かい漢字のことを言ったからってこのもやもやしたものは晴れないからいつものように愛想笑いを浮かべておいた。
私も、こんな状況でよくも名前の間違いごときを気にできるものだ。我ながら能天気だと笑ってしまう。

「アヤメは、ずいぶんと重そうな荷物を背負っているんだね。」
「あ……学校の帰り、なんで。」
「そんなに重いものを背負って行かなくてはならないなんて、大変なんだね。」

今日は、何種類の教科書が入っていたっけ。なんでそんな話題を振られたのかもわからないまま、ぼんやりと考える。背中に収まり切らないくらい大きな、学校指定の鞄が急に重たく感じた。革製の鞄はたくさんの教材の重みに耐え切るために分厚くつくられている。ようは、教材の重みもあれば鞄自体の重みもけっこうあるんだ。

「こんなもの放り出して、どこかに行ってしまいたいんですけどね。」

口からぽろり、本音がこぼれ落ちる。
こんなひとに話したところで仕方ないのに。つい、言ってしまった。いや、関係ないからこそ言ってしまったのかもしれない。独り言を風に流しているのとなんら変わらない。
ふとランタンを見上げれば、光は風に吹かれるろうそくの灯火みたいに揺れていた。
ゆらゆらゆら、誘うように、揺れる。

「そう思うのなら、そうしてしまえばいい。その荷物を放り出して、どこかへ行ってしまえばいい。」

私の中のなにかが、音を立てて崩れた。
立て板に水を流すようにして私の口は勝手に動き出す。

「連れて行って。ここではないどこかへ、私を連れて行って。」

なにを思って、私はこの言葉を口にしたんだろう。自分でもわからなかった。このひとが、私をどこかへ連れて行ってくれると思ったのだろうか。誰とも知れない、安全な生き物かどうかもしれないのに。私はこのひとに縋ったんだ。
ランタンの光はなおも私を誘うように揺れる。目が、そらせない。光に共鳴するかのように、彼のバリトンが穏やかにかつ、優しく重ねられた。

「そうか、そうか。それなら"イノナカ"においでなさい。私が案内してあげるから。」

いのなか?胃の中、井の中、イノナカ。この際、どこへでも良かった。私はばさりと鞄の肩紐を外す。鞄は重力に従って地面に落ちた。あれ、肩ってこんなに軽かったっけ。

ゆっくりと歩くランタン頭の人の後ろをついて行く。まるで見知った道なのに、このひとが前にいるだけで異世界のように感じる。ゆらゆらゆらゆら、光ばかりが目にはいる。
ふと、いつもは右に曲がる交差点に差し掛かった。どうやら、左に行くらしい。もし逃げるんだったら、帰るんだったら今だ。本能がそう囁きかけてきた。
投げ捨てた鞄を振り返る。また明日からあの重たい鞄を背負って出かけるのか。自らに問いかけてみる。…………嫌だった。ともかく今は、全部を放り出してしまいたかった。欲求とは一度口にしてしまうとどんどん膨らんでいくものだ。さきほど口からこぼれ落ちたのは普段は蓋をしていた感情で、見ないふりしていたもので。その蓋を開けてしまえば取り帰りはもうつかない。
今歩いてる道だって、きっとそう。少し空いてしまった間を詰めるべく、私は小走りで左の道へ向かって行った。

道の突き当たり、壁の手前。ビルの隙間のような狭いスペース。そこには、井戸があった。社会の資料集にあるような組み上げ式ではなく、物語などの絵本で見たことがあるような形の井戸。井戸の中に桶を投げ込んで水を汲み上げるやつだ。時代錯誤も甚だしい。
ランタン頭の人が振り返ってこちらを見る。

「君は、ここに飛び込む勇気はあるかい?」
「え……え?」
「"イノナカ"に行くには、この井戸に飛び込む必要がある。」

一瞬、なにを言われているのか、意味がわからなかった。
イノナカ、いのなか、井の中。そういうことか。さぁっと体温が下がる感じがした。

「そ、そんな、井戸に飛び込むなんて。」
「その決断がつかないのなら、君は今すぐ引き返した方がいい。」
「あ、えと……あの……。」
「それじゃあ、私が飛び込んだあとすぐ飛び込むように。十秒以内だよ。」

そう言うなり、ランタン頭の人はその長い足を井戸に突っ込んでひょいと消えていった。そう、なんてこともなげに。慌てて井戸の中を覗き込んでも、昼間でも薄暗いこんな路地裏じゃ穴の中はろくに見えない。ぽっかりと暗闇が口を開けているだけだ。
頭の中の理性的な部分が目を覚ます前に。彼の言う十秒が過ぎてしまう前に。私はちっぽけな勇気を奮い立たせて、覚悟を決める。井戸の淵に足をかけ、そして間を開けないで飛び込んだ。

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