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あなたに手折る心


 幸せな恋がしたかった。そばにいるだけで心が満たされ、自然と二人の未来を思い浮かべられるような、そんな人を好きになりたかった。
 だけど現実はそう甘くはないらしい。私が好きになったのは、私を不幸にさせる要因ばかりを持った男だった。



 二十二時を過ぎた頃、私は疲弊した体を引きずって帰宅した。ヒールの高いパンプスを脱ぎ捨てると、ソファに倒れ込むように横になる。久しぶりに飲みすぎたせいか、それとも慣れない相手と食事をしたからなのか、ひどく体がだるい。起き上がるのも億劫で、私はしばらくそのまま目を閉じていた。

(悪い人じゃなかったよね)

 先ほどのレストランでの会話を思い出しながら、小さく息をつく。会うのは今日で初めてだけど、彼からは嫌な感じを受けなかった。穏やかで優しくて、こちらの話を聞いてくれる彼は一緒にいて落ち着くタイプだと思う。

(ああいう人と付き合えたら幸せだろうな)

 そう思った瞬間、脳裏に一人の男の顔がちらついた。自分勝手で、傲慢で、私にちっとも優しくないあいつの顔が。

(あーもう。なんでいちいち思い出すかなぁ……!)

 自分で自分が嫌になった。あいつを忘れたくて他の人と会っているというのに、結局こうしてあいつのことを考えているなんて本末転倒もいいところである。
 自分の思考回路にうんざりして目を閉じると、ふいにポケットの中でスマホが小さく震える。何か予感があった。取り出して画面を確認すると、そこに表示されていた名前は予想通りのもの。
 ――イルミ その名前を見た途端、私の胸がきゅっと締め付けられる。どうしてこのタイミングで電話なんかかけてくるんだろう。いつもろくにメールだって返さないくせに。一瞬出るか迷ったけど、そんな葛藤すら見透かされている気がして、結局私は応答ボタンをタップした。

「――もしもし」
『あ、やっと出た』

 電話口から聞こえてくる声に、唇を噛み締める。声を聞いただけで鼓動が速くなるのを感じた。

「どうしたの?」

 平静を装いながら尋ねると『何してるの?』と質問が飛んでくる。その口調にはどこか有無を言わせない響きがあって「仕事終わって帰ってきたところだよ」と答えた声は少し上擦っていた。

『そっか。お疲れ様』

 労う言葉とは裏腹に相変わらず愛想のない声音だった。妙な焦燥感に駆られ、つい口を開く。

「それで? 用件は何?」
『別にヒマだからかけてみただけ』
「……へー、珍しい。イルミの方から電話してくるなんて初めてじゃない?」
『そうだね』

 皮肉混じりの言葉にも淡々と返事をする彼に苛立ちを覚える。いつもこうだ。私ばっかりイラついて、傷ついて、こんな惨めな気持ちにさせられる。イルミといると感情が乱されてばかりだ。
 それが嫌だからもう終わらせようと思っていたのに。優しい人を好きになって、幸せな恋愛をして、イルミのことなんてさっさと忘れてやろうと意気込んでいたのに。なのに、どうして今更電話なんてしてくるんだろう。私に興味がないなら放っておいてくれればいいのに。
 憎らしく思いながら黙っていると、沈黙を破るようにイルミが言った。

『ねえ』

 たった一言、それだけなのに私の心臓は大きく跳ねた。
 嫌な予感がする。こういう時の彼の呼びかけには必ず意味があるのだ。何を言われるのか戦々恐々としながら待っていると、案の定それは的中した。

『デートは楽しかった?』

 核心をつく問いに息を飲む。なんで知ってるのとか、どこから見てたのとか、聞きたいことは色々あったけれど、動揺を隠すためにぐっと言葉を呑み込んだ。

(イルミのペースに呑まれちゃダメだ)

 そう自分に言い聞かせて努めて冷静に答える。

「イルミには、関係ないでしょ」

 電話の向こうでイルミが不満そうにふーんと鼻を鳴らしたのがわかった。

『そんなこと言うんだ。浮気したくせに随分な態度だね』
「……浮気なんてしてないよ」
『じゃああの男は何? 友達だとでも言うつもり?』

 責めるような口調に思わず押し黙る。どうしてこんなに突っかかってくるんだろう。今まで散々蔑ろにしてきたくせに、一体どういう風の吹き回しなのか。

「ただ食事に行っただけだから」
『あっそ。まあ何でもいいけど』

 ひどく投げやりな言い方にカチンときた。
 私が誰と会おうが勝手じゃないか。付き合ってもいないのになんでそんな言われ方されなきゃいけないの。思わず反論しようと口を開きかけた時、それを遮るようにしてイルミの声が続いた。

『言っておくけど、他の男の手垢がついた女なんてもう抱く気ないから』

 関係の終わりを匂わせるような発言にひゅっ、と喉が鳴った。イルミに捨てられる。その事実が頭を過ぎった瞬間、目の前が真っ暗になった。
 いや、わかっていたことだ。いつかこうなることくらい覚悟していたはずではないか。だけどいざ直面すると怖くて仕方がなかった。捨てられたくない。どんな形でもいいから繋がっていたい。結局私はイルミなしじゃ無理なんだ。悔しくて情けなくて涙が出そうになるのを必死に堪えながら、絞り出すようにして言った。

「ま、待って……」
『何を待つの? オレも暇じゃないし、もう切るよ』
「お願い、切らないで!」

 電話口に叫ぶと、大きなため息が聞こえてきた。呆れているのだろう。面倒くさそうな気配を感じ取って、慌てて言葉を続ける。

「ごめんなさい。もうしないから。お願いだから、捨てないで……っ」

 最後の方は消え入りそうな声になっていた。プライドなんてかなぐり捨てて、みっともなく懇願する。

『ふうん』

 イルミの短い相槌が聞こえてきて、私はぎゅっと目を瞑った。沈黙が耳に滲みる。まるで死刑宣告を待っている気分だった。
 長い時間が流れた気がしたけど、実際はほんの数秒だったのかもしれない。やがて、電話口から笑い声が聞こえてきた。

『なんだ。少しは強気に言い返せるようになったと思えば、結局泣くんだね』
「……っ」

 イルミの指摘通り、私は泣いていた。次から次に溢れ出る雫が頬を伝っていく。自分じゃどうすることもできなかった。

『別に怒ってないし、嫌いにもなってないよ。ナマエが生意気なこと言うからちょっと意地悪したくなっただけ』
「ほ、本当に?」
『うん。本当』

 その一言で体中の力が抜けていくのを感じた。思わず安堵のため息を漏らす。彼の言動一つで一喜一憂する自分が滑稽だったと分かっていても、今はそんなことさえどうでもよく感じていた。

『これに懲りたらもうあんな真似しないように。わかった?』
「はい……」

 素直に返事をすると、イルミが小さく笑ったのがわかった。電話を当てている方の耳がじんじんと痺れ、熱を帯び始める。

『お前はずっとオレのことだけを考えてればいいんだよ』

 甘い囁きが鼓膜に響いて、胸が苦しくなる。
 ひどい男だ。自分は何一つ与えようとしないくせに、こんな電話一本で私の心を縛り付けるなんて。それなのに、嬉しくてたまらないなんてどうかしていると思う。
 ああ、やっぱりこの人が好きだと思い知らされて、私はまた泣いた。


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