賽は投げられた
「どうしても忘れたい男がいるの」
客間のソファに座るや否や切り出された言葉に、私は心の内で溜め息を吐いた。
「その男性は、どういった関係の方ですか」
「恋人よ」
やっぱりか。最近こんなのばっかりだな。
もはや作業と化した問答。依頼人の女性は悲劇のヒロインさながらに語り始めた。うんざりしつつも形だけは親身に聞いておく。必要な作業なのだから仕方がない。
滔々と語られる話を要約すると、恋人である男がある日突然失踪してしまったとのことだった。
「彼がいなくなってからはまさに地獄だったわ。何をしても彼を思い出してろくに仕事も手につかなくて……このままじゃおかしくなってしまいそう」
仕事ね。たしか彼女はそれなりに名の知れたストーンハンターだった筈だ。資産には期待できる。これは是非とも今後も贔屓にして頂きたい。完璧なタイミングで相槌を打ちながら、脳内はそんな打算でいっぱいだった。
「分かりました。貴女のその思い出、全て消してみせます」
「そうね……」
一頻り話を聞き終わったあとに本題を切り出す。しかし煮え切らない反応が返ってきた。
「どうしました?」
「彼を忘れてしまうことが名残惜しくもあるの」
何を今更、此の期に及んで! うっかり吐露しかける心の声をぐっと堪える。危ない危ない。お客様の気分を害したら大変だ。
「そうですよね。つらい記憶だとしても、大切なものには変わりないでしょうから。愛した人の思い出であるならば、尚更……」
切なげに眉を寄せてみて、しみじみとした声色を作り上げる。一拍おいて「でも、」と切り出した。
「次の一歩を踏み出せなくなるくらいなら忘れた方がいいこともあると思いますよ」
優しく、でも力強く。諭すように語りかける。目の前の憔悴し切った瞳に光が宿るのがわかる。あと一押しだ。
「過去のことはいっそ綺麗さっぱり忘れてしまいましょう。それが幸せへの近道です」
「……そうね、あなたの言う通りだわ」
我ながらなんてうさんくさい台詞だろう。でも、彼女からすると救世主にでも見えているみたいだ。
「全部、忘れさせてちょうだい」
やっとか。まったく手を焼かせる。そんな本音をおくびにも出さず「承りました。」と微笑んだ。そのまま両方の掌を向ける。
「目を閉じて。消したい思い出を強くイメージしてください」
全身のオーラを巡らせ集中力を高める。次第に、相手のオーラの一部がこちらの指先へと引き寄せられていった。
「味わい深い思い出=v
――カラン。
遠くで何かが転がるような音が聞こえた瞬間、指先に繋がったオーラを断ち切った。
「これで終了です。目を開けてください」
半分膜がかかったようなぼんやりとした目がこちらを見た。
「ちゃんと忘れられましたか?」
「えぇ。なんだか、胸が軽くなったわ……」
「それなら何よりです。では、支払いをお願いします。」
にっこりと笑みを浮かべる。依頼人は言われるまま小切手を差し出した。その時になってようやく心からの笑顔を浮かべられた。
「これからもどうぞご贔屓に」
――忘れさせ屋。一部の人間は私の事をそう呼んでいる。
過去に起きた出来事を綺麗さっぱり忘れてしまいたい。或いは、忘れさせたい。私の元にはそんな事情を抱えた訳ありの人間が集まった。
でも、本当は忘れさせるだけが私の能力じゃない。
「さて、と」
依頼人が去った後、客とのアポに使っている客間から寝室へと移動する。ベッドサイドテーブルにちょこんと置かれたお菓子箱の開けると、包装紙に包まれたキャラメルが二つ入っていた。
「え、これだけ?」
あれだけ長々と語っていたのだから(ほとんど聞いちゃいないけど)もっとあると思ってたのに。このたった二粒に、彼女をあそこまで苦しめた男との記憶が詰まっているというわけか。
――私の念能力『味わい深い思い出《ドッキリミルクキャラメル》』は人の思い出を消すだけでなく、消した思い出をキャラメルに変えることができる。具現化するキャラメルの数は思い出の密度に比例する。つまりキャラメルが多ければ多いほど長期間の記憶を消したことになるというわけだ。
もっと言えば、そのキャラメルを食べれば誰でも他人の思い出を手に入れることができる。といっても他の誰かに食べさせたことはないけれど。
お菓子箱から一つ摘んでしげしげと眺める。仕事が終わった後はこうしてキャラメルを食すのがルーティンとなっていた。
人様の思い出を覗き見るなんて悪趣味な自覚はあるけど、これがどうにも面白くてやめられない。事実は小説よりも奇なりって言うけれど、まったくもってその通りだと思う。己の一生だけじゃ体験できない多種多様な出来事を五感すべてで味わえるなんて、最高のエンターテイメントじゃないか!
「……でも、今回のはあまり食指が動かないなぁ」
色恋沙汰のネタはすっかり見飽きてしまった。もっと刺激的なネタが欲しいものだ。
「まあ、暇つぶしにはなるかな」
キャラメルの包み紙を開き、口に放り込む。期待はできないけれど、この先も使い道がなさそうだからさっさと処理してしまおう。
慣れた甘みが舌の上に広がると、じわじわと脳髄が満たされる感覚がやってくる。少しは楽しめればいいのだけれど。
『君のことが知りたいな』
どこかのバーカウンターだろうか。隣に座った男が手を取って甘く囁く。
跳ねる心臓。頬に集まる熱。胸が締めつけられるような感覚。これは、実際に体験した本人の記憶だ。こちらを覗き込むスーツ姿の男への好意が手に取るように分かる。
『私も……あなたのことが知りたいわ』
さらに心音が早まる。なんだか男の周りが輝いて見えてくる始末。こうした誇張は思い出の中ではよくある事だ。今回も例に漏れず、事実を脚色するフィルターがふんだんにかかっている。依頼人はみるみる男にのめり込んでいった。
恋に落ちる感覚を全身で体感しながら、脳に追加される記憶をひとつずつ整理していく。今この二人はとあるホテルのバーにいる。会うのは二度目。一度目の邂逅は依頼人が仕事の関係で参加した船上パーティだ。その時に出会った男と偶然にもバーで再会したという筋書き。
歯の浮くような台詞を繰り出す男と、運命の再会に酔いしれる女。あまりにも陳腐なラブストーリー。これならレンタルビデオ屋で新作のアクション映画でも借りて観る方がマシだったかもしれない。いつもはゆっくりと味わうキャラメルだけどさっさと飲み込むか、いっそ吐き出してしまおうか。
そんな考えが頭を過ぎったとき、とある異変に気がついた。
『――へえ、面白そうだね。君の能力』
……ん? なんだって?
気付けば、依頼人の女はペラペラと自身の念能力について話していた。しかもかなり核心に迫るようなところまで。おいおい、よく知らない人間にそんな事まで話せるな。呆れてしまうが、当人は男の関心を引けたことへの喜びしかない。
さっき感じた違和感は、男の目だ。感情の凪いたような目にかすかな熱がこもっている。記憶の当事者はまったく気付いていないようだけど。
男は巧みな話術で念能力を洗いざらい聞き出した。さも貴女のことが知りたいとでも言わんばかりの熱烈な視線を送りながら。浮かれた女は、ついに念能力の実演までしてみせた。
(なんだか、嫌な予感がする)
背筋に悪寒が走る。持ち主のものじゃない。これは私自身の感覚だ。
黒々とした瞳にまっすぐ射抜かれて依頼人は骨抜き状態だ。その眼差しが私には不気味に見えて仕方がない。
『教えてくれてありがとう』
男は爽やかに微笑むと、どこからともなく分厚い本を取り出した。
『オレのことも知ってほしいな。君だから話すんだ』
男も己の念についてペラペラと説明しだした。手に持った本は具現化したもので、そこには今まで読んだ本の内容がすべて詰め込まれているという。本好きが高じて作り上げてしまった能力だと男は照れ臭そうに笑う。なんて知的な人なのかしら。持ち主の呑気な感想だ。
『触ってみる?』
『ええ』
『そうだ、表紙の手形に手を合わせてごらん。面白いことが起きるよ』
『まあ何かしら』
躊躇いなく本の表紙に手を重ねようとするのを見て、言いようのない焦りが込み上げた。
「待って!」
思わず声が出た。しかし他人の過去に干渉できるはずもなく。あっさりと手が合わせられてしまう。男は笑う。多幸感が胸に満ちる。――でも、私は見逃さなかった。植えつけられた記憶の片隅で、男が舌なめずりをしてみせたのを。
一つ目のキャラメルは、そこで終わった。
「…………なんだこれ」
ありふれた男女のやりとりだ。だが、気がかりなのは相手の男。底の知れない瞳に熱がこもる瞬間を思い出してぞわぞわと肌が粟立つ。あの男は、何者だろう。
「これは、予想外の掘り出し物かも……」
残ったキャラメルを手を伸ばし口に放り込む。さて、どんな結末が待っているか。逸る胸を抑えながら舌の上でゆっくりとキャラメルを溶かした。